Epilogue*2―――それは日々、





「どうして……?」
 目が覚めて一番に呟いた言葉は自らが生きていることへの感謝でも疑問でもなく、全身の血の気が一気に引いてゆく、純粋な恐怖によってのものだった。
 あの時、真っ白な光とともに下りてきた刃は確かに自分の身の上を滑り、やっとその命を摘み取ってくれたのだと……心から感謝していたのに。
 なのに―――
 ようやく叶った願いとは裏腹に、何故か、自分はこうして生きている。何故。どうして生き続けている。これを知ったらクルゼアは自分の願いの根本である兄をもう用済みとばかりにいとも容易く踏み躙って消してしまうだろう。皮肉なことではあるが、自分が彼の枷となっていた、そのせいで自由を失わせてしまった、だが反面、そんな自分が素直に籠に中にいたことで兄はクルゼアに生きることを許されてもいたのだ。
 そもそもの失敗は両親の死によって完全なる他人となった自分たちが一緒にスペインの地へと渡ってしまったことだった。自分さえ兄に縋ってしまわなければ兄だけはきっとクルゼアの手からは逃れることが出来たはずだ。なのに自分たちはそれぞれが互いの人質となるような不運な運命を選んでしまった。
 それをずっと悔いて、やっと何とかできそうなチャンスが巡ってきたというのに、自分はこうして生きている。
「……兄さ…んは、」
「あ、目が覚めたんですね。良かった、気分はどうですか?」
 視界の横からひょっこり顔を覗かせた少女は、初めて見るというのに、何か妙に変な親近感があった。それが郷愁めいたものであるのだと気付いた時、「国籍一緒です。同じ中国人」とたったそれだけのことなのに自らを指差して少女はとても嬉しそうにした。
 嬉しそうに、微笑まれた。
「それはたとえ死んでも変わりませんから、安心して下さい」
「どう…いう…?」
「あっ! そ、そうですよね! 急に言われてもわかりませんよね、エート、つまりサワダさ……あっ、ボンゴレ十代目のことなんですけど、サワダさんが貴女を死んだように見せかけてこっちに連れてきたみたいなんですね。で、サワダさん、ちょっと急に行くところができたみたいで、しばらく顔が見せられないって言ってさっきまでいたんですけど出て行っちゃって……でも、ゆっくりしてって言ってました。あとのことはそれからゆっくり考えればいいからって……あ、あとこれを貴女にって」
 差し出されたのは一冊の本だった。分厚いとはまで行かないが片手で持つのは大変なそれを起き上がって膝の上にそっと横置く。
 聞いたことが目まぐるしく思考を回ってうまく整理出来ない。一先ず手渡されたその本に視線を落とし、亡羊と本の表紙に指を這わせ、その表面を軽くなぞるようにして触れていると、
「中にあるものが、今、一番貴女に必要なものだろうって言ってました」
「中に……あるもの?」
 この本を見ろということではないのか――思いながら本のページをパラパラと捲る。中身は何かの物語のようなものだった。読めない言語にわけもわからず本を捲って、一体自分は何をしているのかと漠然とした疑問がそろそろと頭をもたげ始めてくる。こんなことをしている暇は自分にはないはずで、意味の見い出せぬ行為を取りやめようと動きを止めたら、最後にはらりと落ちてきたページの向こうに何かが挟まっているのに気付いた。目を細め、指先で掬うようにしてそれを手に取る。
「これは……」
「クローバーです。知ってますか? 日本ではこれ、四葉のクローバーって言って幸福の象徴って言われてるんですよ」
「な…んで」
「え?」
 そんなものをなんでわたしに。
 困惑に言葉を失っていると、「そんなの」栞を見、それから自分を見て、見知らぬ少女がにこりと笑った。
「貴女に倖せにってことじゃないですか!」
「…………」
「これは元々サワダさんのお母さんが送ってきてくれたものなんです。でももう自分には充分だからって、倖せのたすきがけみたいなものだって、サワダさん、笑って言ってました。だから今度は貴女にあげたいって。倖せになるように。今度は、倖せが貴女と共にありますようにって」
 ならば余計に不思議に思う。そんな大切なものを、大切な願いの籠められたものを……何故自分などに、と。
 告げられる言葉の数々に戸惑いが募る。そんな風にしてもらう謂われも資格も自分にはありはしないのに。彼と自分は他人だ。本当の父親であったクルゼアにもそんなことをされた覚えはない。なのにそれ以上に繋がりも何もない、言ってしまえば赤の他人である彼が。
「どうして…あの人はわたしなんかに優しくしてくれる…の?」
 うーんと少女は考えるような声を出した。けれど結局大した回答などないようにあっさりと。
「多分、そういう人だからだと思います。サワダさんがマフィアになったのだって、結局優しくて甘くて……色んなものを捨て切れなかったからで。守りたいものは死ぬ気で守るような人だから、そうやって色んな、見捨てられないものを抱え込んだまま、現在に来ちゃったんだと思います。だから貴女のことも大変だろうと思うけど、きっと大丈夫です。サワダさんも考えてくれますし、なにより一人じゃないんですから!」
「…え?」
 キィ、と。
 木の軋む音に導かれるようにして顔を上げた。栞を持つ手が微かに震える。その感覚がなければ世界が止まったのかとさえ思ったかもしれない。そのくらい――驚いた。
「リィ」
 自分の名を呼んで佇む兄の姿がそこにあった。信じられないと瞳を大きく見開くも、夢でも幻でもないそれはそれから幾度瞬きをしても消えることはなく、代わりに水滴に滲む世界の中で徐々にその輪郭をぼかしてゆき、白いシーツを灰色に染めていった。
「兄さ……?」
 頬を伝った涙がぽたぽたと零れ落ち、手のひらの栞を濡らさぬようにと無意識に柔らかくその内側に握り込む。無熱であるはずの紙片がぽうっとぬくもりを宿したような気がした。
(四葉の……クローバー…)
 それは、倖せになりますようにと。
 君が、倖せと共にありますようにと願われ、託されたもの。
 倖せなど、新しく名前をやろうと言われ、本当の名を失くしたときにとっくに無縁となり、自分から失われたものだとばかり思っていた。だから、新たに付けられた名の呼び方に自ら捻くれた見解をあてがい、自虐的とも言えるその行為の果てで、自分があの時死んだのだと思うことを心に刻み込み、死を恐れぬようにとその深い場所で自らを戒めたのだ。
 十六の誕生日に襲い掛かってきた不幸は、クルゼアが自分を引き取る為に指示してのことだったと……ある時に自分は知ってしまったから。生き残った兄の為に死ぬこと、だからそれを自分は当然のように思った。当然であると思った。そうでなければ何の為に自分は生きている。自分がいたばかりに養父と母は避けようのない暴力によって無残に殺されてしまった。兄から、本当の父親を奪ってしまった。自分は生きていてはいけなかった。
 兄の為にこそ自分は死ななければいけなかった。なのに、
「………めん…なさい……」
 ぽつりぽつりと手に零れ落ちるそれは温かく、自分が確かにまだ生きていることを教えてくれ、そんなことを思ってはいけないのに倖せになれと言われたそれを嬉しく思ってしまった。
 生きていくことを、少しだけ、許された気がした。
「……兄…さん」
 近づいてくる兄へと涙にくれながら、ごめんなさいと呟く。呟いてから、一度だけ。
「私……まだ」
 許しを乞うようにそれでもと嗚咽に混じって咽喉の奥の熱を吐き出すように、生きたい…と。恥知らずな願いに消え入りたい気持ちを宿しながら一緒になって弱々しくそれを吐き出した。
 この六年のなかで初めて……いや、やっと放つことの出来た本当の気持ちだった。たった 一度だけでいい。
 その一度に心から。――心から、願った。
「……きて……も…っと生きて……それから」
 誰かの為に死ぬのではなく自分の為に生きて、生き抜いてからこの生命を手放したい。
 自分の為に失われた命があるなかで、それを願う傲慢さは自分でもよくわかっている。だからこれは別に叶わなくともいい。ただの言葉の欠片だ。流れる星に永遠を望むようなもの。そんな泡沫の、叶うはずもない途方もない夢の話だ。
 兄の反応を見る前にそれだけ言って、俯いてそこから目を逸らした。視線を下げた先、手のなかの栞がますますぼやけて見える。だが透明なフィルムの中に閉じ込められた四葉の優しい色合いだけは、どれほど視界が滲んでも綺麗に見取ることが出来た。それが急に重く感じられて、はっとした瞬間、
「―――生きればいい」
 顔を上げた世界で、兄がいた。
 この六年、まるでその仕方を忘れてしまったかのように愛想笑いでしかそれを表に出さなくなって久しかった兄が、その口許に緩やかな笑みを形作り、こちらを見ていた。
 本当の家族ではないのに、そう言うのが当然のようにそれを口にし、過ぎた過去を弔うようにそっとその手の中の栞ごと、まるでそこに宿る、大切なものがどこにも零れ落ちてしまわぬよう、柔らかくあたたかく覆われる。
「もう……過去は置いていけばいい。置いていっても、誰もお前を責めたりはしない。父も母も、―――私もだ。お前が倖せになることを皆で願っている」
 折れたはずの願いに接ぎ木するように兄が続けて言った。
「生きればいい。自分の思うように、思う存分」
 生きて、そしてもう過去に囚われることなくそれを置いてゆけ。
 瞬間、血に濡れた父と母の最期の光景を思い出した。その薄暗い記憶は、そうやって思い出すだけでいつでも胸の中心を鋭く貫く痛みがあった。それでも自分は過去を、倖せであった日々を自らの罪とともにどんなに辛くとも思い出さずにはいられなかった。それを、そんな幸福を築いてくれた父と母を置いてゆけと言う。……兄の言うそれはとても寂しいことのように思えた。
 こんなにも愛している。
 引き攣れるような胸の痛みとともに、今でもまだ、あの優しかった日々はこの胸の中に多くの愛しさと共にある。
「…置いてゆくってことは別になくなるってことじゃないですよ? それは今の貴女と一緒に生きるってことです。その心に寄り添って生きてるから、思い出はいつだって貴女と一緒にあります。貴女のなかで、貴女が生き続ける限り」
 横合いで、名も知らぬ少女がにっこりと笑って言った。とても自信たっぷりに、少女もまた、あの青年と同じように何の躊躇いもなく他人である自分に優しい言葉をかけてくる。……こんなふうに、きっと、自分の知る両親が、もし生きていたならば同じように言ってくれただろうか。――考えて、すぐに答えは出た。なくした今でも自分はそれを寸分違わず眼の裏に導き出すことが出来た。それに忘れかけていたかつての誇らしさが胸に舞い戻ってきて、目頭がまた勝手に熱くなっていった。
 兄の手に力が籠もる。
 その手が、生きろと言っていた。
「生きて…いいの…?」
 問いかけるそれに答えは返らなかった。ただ一言、倖せになれと囁くのを聞いた。
 ………倖せならば、もうなっている。





 倖せは、もうずっとここにあった。












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