交流を深めるためにと言われ、邸内を丁寧に案内してくれるクルゼアの娘、ライであったが、話せば話すほどに綱吉が最初に抱いたイメージを綺麗に覆してくれる相手だということを歩き出してわりとすぐに知るところとなった。
 悪いほうへと転んだわけではない。
 ただ。
「お部屋はこちらになります。守護者のお二人はその隣の部屋をどうぞ。中にある扉で行き来できるようになっていますので、」
 アンティーク調の古めかしい鍵がすっと手渡される。
「その場合はこちらの鍵をお使い下さい」
受け取って、「はあ…」と一応は頷き返したが、
「何かあれば部屋に備え付けの子機でお呼び下さい。ご用件さえ言って頂ければ家の者がすぐに対応致しますので」
「そ、それはどうも……」
「他に何か訊きたいことはありますか」
「……。ええと、特には…多分ないかと」
「そうですか」
「……はい」
 重ねて言うが、交流を深めるための会話は終始こんな調子だった。圧倒されて、完全に呆気に取られた。
 ライは確かに邸内を丁寧に案内し、説明してくれたが、それは互いの親睦を兼ねてのものというわけではなく、何かをどこかに反映させるといったものでも完全になかった。
 何の打算も感情もない。
 つまりは、全くの無関心。
 一切の興味がないのだ、こんなことには。
 どうでもいいといったような投げやりな、そんなささやかな感情すらそこに挟むことなく。
 淡々と。
 機械のような受け答えで事務的に場を流してゆく。
 そんな調子で互いの理解が生まれるわけもない。
「それではわたしはこれで」
「えっ、あ…!」
「……なにか?」
 静かな眼差しに見つめられ、彼女の世界に自分が小さく映し出される。わけもなく焦った顔がどうにも見ていて間抜けだった。
(いやまあ、どうせ断るつもりだったからいいんだけど……)
 けれど何かスッキリとしない。言うなればそれは肩透かしを食らったような気分に近かったのかもしれない。人生においてただの一度の通りすがりで終わる人間などそれこそ数えるのも馬鹿らしいほどいて、そうして彼女という存在もまた自分にとって結局その一人であったのだと―――そう思えれば多分、それで事は簡単に終わる。頭ではわかっていた。それを、充分にわかっていたのに。
「あの……よければ少しお話でもしませんか?」
「…………」
 色を灯すことなく沈んでいた瞳がそこで初めて微かに揺れ動いた。目の前の人間を、やっと人間と認識した、とでもいうような…そんな眼差しがひたと向けられる。
「…何のお話を?」
 怪訝と問われ、
「何でも構いませんけど」
 ぎこちない微笑を浮かべて答えると一瞬の沈黙が場に落ちた。
 それと同時に背中にちくりと見えない何か小さな棘のようなものが刺さったのがわかった。だが綱吉はけして振り返らずに素知らぬ顔で微笑み続けた。呑気な、と平生よく言われ続ける緩んだ笑顔で。
「お話でなくても?」
「? ええ、それは別になんでも」
「そう。……では」
 不意に腕を引かれた。
 虚を突かれて少しよろけそうになる。
 だがライは構うことなく、そんな綱吉を引っ張ってゆく。
ふわりと漂ってきた甘い香りに、瞬間、綱吉の頬に若干の熱が灯った。掴まれた手の柔らかい感触が、それが女性の手であるという事実を強くこちらの意識に促してくる。そんな風に改めて相手の事を考えたせいで、頬の熱に更に変な拍車がかかった。
 ほどなくしてとある部屋の前に辿り着く。
 中に入り、そこでようやく腕のほうを離してもらえた。
 綱吉から身を離したライはそのまま大きなガラス窓のそばへと近寄り、おもむろに腕を伸ばして窓を全開にする。
 途端、窓辺を飾るカーテンが風に吹かれてさらりとその身を軽やかに翻した。彼女もまた、室内に入り込んできた風のあとを追うようにして綱吉たちのほうへと振り返る。
 そして無感動な眼差しのままで、
「あれを取って下さらないかしら」
 窓の外の一本の樹木を指し……というより、もっと厳密に言えば窓に向かって雑多に伸びた木の枝を指してそう呟いた。
 視界の先で白いレースのハンカチがひらひらと手を振るように舞っている。飛び移ろうと思えば飛び移れそうな、そんな実に微妙な距離にある小枝の先に引っ掛かって。
 ひらひらと。
「飛んでいってしまって」
「…………」
 言われ、思わず沈黙する。
 ライの部屋は自分たちに与えられたものより更に高い、三階にあった。
 常人であれば落ちたらまず間違いなく大怪我を負う。打ち所が悪ければといった言葉すら不必要なほど―――誰が見てもそれはそういうものだった。
 たとえ綱吉にとってそれがそれほど造作無いことだったとしても、初対面の人間に頼むようなことでも、気軽に危険を無視して言ってしまえるようなものでもない。根本から、大きく全てを取り間違えている。
「取って下さる?」
 けれどもう一度、重ねて彼女は言った。
 こともなげに―――否、落し物を取っても取らなくても、それは彼女にとって何ら意味を成さない、どちらでもよいのだというような響きを暗に宿して。
 意味にすら、それは相当しないことなのだと物憂げな彼女の態度はありありとそう告げていた。
 何故なら彼女は訊いていないのだ。
 その返答がどうであろうと、きっと構わない。
 彼女はただそうと「言った」だけ。
 言ったことに対して結果は求めてはいないから軽く紡げる。
「……、わかりました」
 綱吉の躊躇いは一瞬のみだった。
 大きく頷いた綱吉にライは軽く瞳を瞬かせると、それからもう一度だけちいさく何事かを口の中で呟いた。
 何と言ったかは聞こえなかった。
 けれど呟いたその声は、たった今お願いを口にしたときと何ら変わらぬ響きを宿しており、どうでもよいといえるようなものであったことだけは確かだった。




 大丈夫か? と問う山本に大丈夫と告げて。
 無言で非難を集中させてくるもう一つの眼差しからは、とりあえず目を合わせないように素知らぬふりを通す。また怒らせているのは、盛大に突き刺さってくる視線の刃ですでに充分理解している。
 だがやると決めた以上、後に引くつもりもない。
 ライの眺める前で、窓枠を片手で掴み、不安定な足場となる枝の方へと時間をかけて身を移す。
 重心が少しずつそちらに移動するごとに木々のしなる音が足をついた枝から鈍く伝ってき、そうして下から吹きつけてくる風にはひやりとした冷たいものが胸を走る。
 どきどきする。
 大したことはないと踏んでいたのに実際に宙に出てしまえば、その心許ない足の裏の感触が綱吉に先細りする怖れを植えつけてくる。
 戦闘とはまた違った境地に心がざわついた。
 それにしっかりしろと自らを冷静に叱咤し、ハンカチまでの二メートルと離れていない距離を確かめる。
(……大丈夫)
 今いる場所から少し歩いてハンカチへと手を伸ばし、それを引っ掛かった枝から抜き取れば問題は無事解決する。よし、と掛け声を胸に落として綱吉は窓枠から手を離した。直後――ギシリ、と乗り移った枝が嫌な軋みを上げるのを確かに聞いた。だが平静を失えばすぐにでも安定を欠きそうな足場に必要以上に意識を逸らすことはせず、慎重に足元を確かめながら歩を進める。
 やがてハンカチを咥え込む枝の下になんとか到達すると、ゆっくりとその手を斜めに伸ばした。
ハタハタとハンカチが風に揺れ、微かに綱吉の指先に触れた。
 触った。ふっと強張っていた顔が安堵に緩む。
 刹那。
「……馬鹿なひと」
 耳が自然とそれを拾った。
 え、と。
 空気を掻くような声が咽喉から擦れ気味に零れ落ちた。
「ラ……」
 ―――澄み切った、湖のようなどこまでも透明な色を宿す瞳が、驚き、首を巡らした自分のことをまるで観察するように見ていた。
頼りない木の枝へと身を乗せた自分を、その窓のそば、手を枝の端へといつの間にかに添えて。
 それが起こったのは、その、一秒にも満たない間のあとのことだった。
 守護者の二人にはそれは彼女自身の身体が壁となり、死角となってすぐには確認出来なかったことだろう。或いは想像すらしていなかったのではないか。真っ先に確認できた綱吉でさえすぐには信じがたかった。
 まさか彼女が枝にかけたその手に力を込め、
「ツナ? どうし……」
 下へと、弾くように揺らすなど。
「…っ」
「ツナ!」
 多分、そんなこと、誰も想像出来なかった。
 否、していなかった。
 唯一人、その予期せぬ行動に出た彼女以外の誰も。誰も、きっとしていなかったはずだ。
 やがて顔色一つ変えぬままそれを成したライの手によって当然の如く木の枝はしなった。
 不自然に、
 ある意味で――自然に。
 そんななかで綱吉はと言うと、腕を伸ばしていた状態でのそれにあっけなく重心は揺らぎ、バランスを崩して、あっと思ったときにはすでに身体は安定の輪から大きく外れた場所に放り出されていた。
 爪元からせり上がってくるような性急な浮遊感と、胸の中心を深く抉り取るようにして突いてくる、頼りなく不安めいた気持ちが一緒になって激しく身体を乱していく。
 その言いようのない一瞬を、綱吉はなんとかそれでもぐっと奥歯を噛み締めてやり過ごそうとした。
 とりあえずは怪我を負わぬことを最優先に、咄嗟に死ぬ気の炎を額と手に灯そうとし……けれどその途中で、ライの背後に山本だけでなく骸の姿もあったことをそこでふと思い出してしまった。
「だ」
 直感が、咽喉を強引に開かせる。
 何かを考える間もなく言葉が舌先を滑る。
 転がるように、駆け抜けるように。
 ひたすらに、鋭く、




「――――駄目だ、骸!」




 命令という名のもと。
 落ちてゆく浮遊感の中で、それは絶対の効力を以って放たれた。






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