6 幻覚の解かれた元の世界に立ち、傷一つない味方の白い機体と黒くひしゃげてもはや原型を留めぬ様相の元・車の残骸を見渡す。その脇や中で、程度の差はあれ、戦闘不能状態となってばたばたと倒れている人の姿が見えた。緩んだ顔を引き締め、一番近場に倒れている人間のそばへと寄っていく。 「おい、ツナ」 「大丈夫。ちょっと確認」 警戒を怠らず、視線を落として足元に倒れ伏す男の様子を窺う。 意識はあるようで、鈍い呻き声が切れた唇の端から流れる血と一緒に幾つも零れ落ちていた。 「どこのファミリーか、教えてくれないかな」 「…う…うう」 「できたらこっちもこれ以上のことはしたくないし」 「……お…俺…たちは……っ」 咽喉をヒュウヒュウと鳴らす乾いた呼気に、うん、と一つ頷いて、言葉を待つ。と、丁度その時、男の短髪の間からじわじわと赤い血が滲んできているのが目に映り、 (あーもう、骸の奴、やりす…) 微かに気を緩めた瞬間。 「ツナ!」 「……っ」 立ち上がるだけの力はないと踏んでいた男の上体が急に高く、影をもって伸びたかと思うと、風を切る音がして大きな腕が自分へと向け、真っすぐ飛び込んできていた。 殴りかかってくる。 目を見張り、咄嗟に両腕を交差し、男の攻撃を防ぐ形をとる。 ついでに地を蹴り、背後に身を引くまでの動作も一連の反射として行ったが、僅かに浅く、逃げる綱吉を追って防御した腕に男の固い肉と骨が鈍い音を立ててぶつかった。必死さが重く圧し掛かる一撃に詰めた呼気が思わず洩れる。 けれどすぐさま体勢を整えると、柔らかくその腕を解き、バランスを崩し、僅かにたたらを踏んだ男へと今度は逆に身を乗り出してこちらから腕を伸ばしかけ―――、 ドンッ、と。 聞き馴染んだ暴力的な音がその瞬間、空高く響いた。 「…え?」 一瞬、何が起こったのかよくわからなかった。 思わず動きを止めた綱吉の前で、男の動きもまたぎこちなく止まり、それから短い空白の間を置いて、ぐらりとその上体が斜めに傾いだ。糸が切れたあやつり人形のように足元から力が抜け、がくんっと膝から力なくその場に崩れ落ちる。まるでコマ送りをしている映画のような一場面だった。大きく瞳を見開きながら綱吉はそれを見る。そうしながら意識になにより強く焼き付いたものは、男の肩から飛び散る、色鮮やかなその赤だった。ピッと頬に自らの熱とは別のあたたかいそれが張りつく。しわがれた呻き声を洩らし、細かな、霧のような血を咳き込んだ拍子に零し、男が地に倒れ込む。 その光景を黙って見ていることしか出来なかった綱吉は、それからふと、自身に注がれる視線を感じ、顔を上げた。少し離れた場所で新たな車が数台横付けされているのを発見する。何人かの人間がそこに立っていた。その内の一人が、硝煙をくゆらせながら銃を持つ腕を下ろしているのが見えた。 自分たちに向けて発砲する気はないことを確認して、綱吉はたった今まで自分の目の前に立っていた男へと再び視線を落とす。 息はまだあった。 だが、放っておいたら出血多量で確実にショック死してしまうだろう。 「山本。救急車呼んで」 軽い指示だけ飛ばして、了解、との短い返答を背に、今度は突然の闖入者に対して歩を向ける。バタンバタンと離れた場所から開け放った車のドアを閉める音が立て続けに聞こえてくる。黙って近付いていくと、乱立する人の群れが急に横に割れ、奥から身なりの良い男が一人、綱吉の前に姿を現した。 集団のトップかとも思ったが、綱吉の血が即座にそれを否定した。 場を指揮するだけの権限は与えられていそうだが、その総括する全ての上に起つ者ではない。直感がそのまま何の迷いもなくするりと確信に繋がり、固い表情のままで綱吉は男の前に黙って進み出た。 スペインには場所が近いこともあり時折綱吉も訪れることはあるが、その男はどうも現地の人間ではないふうだった。アジア系…もっと詳しく言えば中国系の和む面差しをしており、日本人である自分にとってはまだ馴染みやすい雰囲気をそこかしこに漂わせていた。 だが。 「………」 数歩手前で距離を取り、静かに止まる。気付けばいつの間にか自身の背後には守護者の二人が控えていた。男がそれを見てか、微かに相好を緩めた。猫のように瞳が細められる。たった今、人が目の前で傷付き、倒れたことなどまるで意に介する風でもなく。 それが、この世界では当たり前であるとでも言うように。 (……苦手かも) 事実、確かにそれがこの世界においての当たり前のことなのだ。 骸ではないが、そんななまぬるいことを言っていたら、この世界の大部分は――同盟マフィアのキャバッローネがどれだけ善行的なマフィアであるのか改めて思い知らされるとともに――自分の苦手とするマフィアたちばかりで構成されている現実から、目を背けることにもなる。その辺の事情はもう昔、きちんと諦めた上でこの世界に身を投じたのだから今更言ってもしようがない。 詮無い問題、これは多分そんな種類のものでしかない。 「お初にお目にかかります、ドン・ボンゴレ。ウェンと申します」 眼前の男が手を差し出してくる。 名の発音はやはり中国系のもの。 自分も基本的には日本育ちの日本人、生粋のイタリアーノではないのに、イタリアのマフィアのボスなんて任についている。 だから。 「…クルゼア・ファミリーの方ですか」 「ええ。すでにお察しして頂けていたようですね」 柔らかく、ウェンと名乗った男が安心させるように笑った。首の後ろで束ねられている髪がその拍子にさらりと揺れる音がした。 (営業スマイル――だ) 脳裏に日本の一般的な営業マンが甲斐甲斐しく笑っている姿が浮かび、それが目の前の男の様子となんとなく重なって見えた。 「さすがはボンゴレ十代目、光栄なことです。ご連絡を差し上げる間がなかったのですが、ボスの命によりお迎えに上がりました。本部まで、どうぞ我々の車をご利用ください。あれではもう無理でしょうし」 振り返れば、今やただの鉄屑と化した車がある。 ああ、レンタルで借りたばかりの車だったのに……。 借りたお店に申し訳なく思いながら、また新たに手配をかけていたら間に合うものも間に合わなくなるだろうとの予想を軽くつけて、ここは変な矜持を持つべきところでもないとウェンの提案に綱吉は素直に乗ることにした。 それに連れていってくれるのなら見知らぬ土地で見知らぬ場所を探す手間も省けて丁度いい。 相手の言葉だけでその肩書きを信じるのも危険といえば危険な話であるが、綱吉は自分の直感を信じている。それにもし何かあっても自分には背後に控えた二人の守護者もいる。寧ろそちらのほうを信じていると言ったほうが良いかもしれない。 (うん…頼りないボスだし) 「ボンゴレ? いかがしました?」 「あ、いえ、何でも……お気遣いありがとうございます。是非そうさせて頂こうと思います」 礼を述べながら差し出されたその手に自らのそれを重ねる。 紳士的な笑みを浮かべたウェンが、ええ、と小さく頷いた。 「しかしお怪我がなくなによりです。護衛の方たちもいらっしゃるようですから出しゃばるのもどうかと思ったのですが」 「いえ、助かりました」 「そうですか。そう言って頂けてほっとしました」 「あの…ですが彼らは一体…」 「ああ――彼らの正体でしたら、わざわざ調べるまでもありませんよ」 こともなげに言うウェンに綱吉は軽く瞳を瞬かせた。どういうことですかと問うと、男は特に動じることなく、 「彼らは最近この地に流れてきたマフィアくずれの一団でしてね、好き勝手に暴れ回るものですから実はこちらもその対処に追われていたところなのです。今日もどこでその情報を掴んだのか、ボンゴレがこちらに来ることを知って、分不相応にも成りあがりを狙ったらしく…それもあってボスがこちらに出迎えに行くよう、私どもに指示を出されたのです。情報の出所はまたこちらで必ずきちんと調べてご報告いたしますので、今日のところはどうかこちらの不手際のほう、ご容赦頂けませんか。この後の予定のことを考えますと……」 「はい、構いません。こちらもどちらかと言えばやりすぎたところがありますから」 (―――概ね、約一名が) 背後へと大いに皮肉を込め、言ってこちらも何事もなかったかのように和やかに微笑む。けれどその実、笑顔の裏では見合いを断るのにこれで丁度良い「おあいこ」的状況になったかも、と、強かな打算をも張り巡らせる。我ながら黒くなったなあと少々ぼんやりとそんな自分に嫌気が差しながらも微笑み続けていると、それをウェンは強者の余裕と取ったか、頼もしいですねと笑いつつ、その胸元から何かを素早く取り出した。 ひらりと視界を舞うグレーの色彩。 何、と思う間もなく、それが綱吉の前に差し出される。 一枚のハンカチだった。 「どうぞ、これで血を」 「………ありがとうございます」 如才無い。 言われて初めて頬に飛び散った血のことを思い出し、綱吉は礼を述べながら柔らかい質感のハンカチをそっと受け取った。 同時に、遠くの方から甲高いサイレンの音が鳴り始めるのを聞いた。徐々にこちらへと近付いてくる。俄かに周囲の人間たちが忙しく動き出し始めた。 黙って綱吉は頬を拭うと、それから再びウェンへと顔を向けた。 笑みは変わらずそのままそこにあった。 それを認めて、内心で小さな溜め息を一つ。その意味に気付ける者がいるのだとすれば、それは多分、背後の二人だけだっただろう。 (やっぱり…) わかっていたことだが。 「では、ご案内致します、ボンゴレ十代目」 血で汚れたハンカチをこちらにどうぞと言って、差し出した時と同じさりげなさで自らの手元へと引く。 そうして折り畳まれて胸に収められる寸前。 まだ変色する前の、色鮮やかな朱がその綺麗なグレーの中心にぽつんと小さな染みを作っているのが垣間見えた。それと似た染みが見咎めた綱吉の胸にもじわじわと広がってゆく。 そうして。 どんなに笑みを浮かべていても、物腰柔らかでも、やはりこの世界の人間はこの世界の人間。そうであることがどこまでいっても普通なその現実を前に、 「ええ。お願いします」 不透明な笑みを浮かべながら、心中穏やかでなく綱吉は小さく頷いてみせた。 (ああ…………苦手、だなあ) *** ―――と。 ただでさえ気力激減しているところに、スペインのマフィア……否、クルゼア・ファミリーのトップはその色濃いお国柄をまるで代表するかのようにひどく陽気な性格をした男だった。 「ようこそ、ボンゴレ! 我がファミリーへ! 着いた早々大変な目に遭われてご心痛、いや、お察しいたしますよ! ですが我が屋敷の警備は万全ですのでどうぞご安心してご滞在を!」 出会い頭に挨拶を交わす時間も惜しいとばかりに大仰に抱きつかれ、容赦なくバンバンと背中を叩かれての大歓迎。途端に背後から流れてくる不穏な空気を察知するも、邪険に払うわけにもいかず、ようやく訪問地に着けたと思った早々に綱吉はわりと本気で肝を潰しかけた。このスペイン行きが決まって以降、もうずっと、延々こんな調子だ。胃がしくしく痛む。 (も…一刻も早く戻りたい) 平穏――とまではいかないが、慣れた彼の地へと。 イタリアを飛び立ってまだ一日と経っていないというのにそんなことを考えるのはいかがなものかと情けなく思うが、すでに心はもうどうしようもなく疲弊しきっている。 色んな意味で恐るべし情熱の国スペイン、と、頬を引き攣らせて万事が全て豪快なクルゼアの相手を胡乱な頭でしていると、ふと大広間から二階へと続く真っ赤な絨毯が敷き詰められた階段の踊り場に、背の高いウェンに連れられて一人の女性が姿を現すのが見えた。 「え? ―――イー…」 驚いて困惑に瞳を何度も瞬かせる。そんなはずはないと頭では理解しつつも驚くのを止められなかった。 隣で女性の登場に気付いたクルゼアが嬉しそうに破顔する。 「おお、ウェン! 連れてきてくれたか!」 「はい。さあ――お嬢様、こちらです」 先導され、女性が幾分心許なさげに階下へと降りてくる。近くに来たとき、ふわりと華やかな花の香りが綱吉の鼻孔をくすぐっていったが、それよりも先の驚きが未だ身に残っており、違う意味で綱吉はすぐには言葉が出てこなかった。 近くで見てみればまるで違う。けれど、似ている、と咄嗟に思ってしまう。 「中国人…?」 ぽつんと呟けば豪快にクルゼアが笑った。 「母親が中国の者なのですよ。娘はどうもそちらの血の方を濃く受け継いだようでして」 私には似ず、おかげで綺麗に育ってくれました。 と、闊達に笑いながら、場に立ち尽くす娘をさりげなく綱吉の前へと押しやる。それを見て――忘れていたわけではなかったけれど――ここでこんなふうに引き合いに出されるということは、おそらく彼女が自分の見合い相手ということかと確定的な推測が胸を過ぎっていった。内心で深い溜め息をつく。 (まあね) もとより自分がここにいる理由はそれだったのだ。 忘れていたわけではないけれど、多分少し、自分は忘れたいと思っていた。早くイタリアの本邸に戻りたいとそればかりに気持ちを傾けていたせいか。 髪を緩く結わえ、左の耳元で綺麗に束ねて佇むその女性は、華奢というよりむしろか細い線を保った女性だった。美人薄命といった言葉がスッと脳裏に浮かび、髪に挿し込まれた白い簪が氷上の花のような印象を抱かせ、ますます女性の繊細な雰囲気に拍車をかけていた。 けれど丁寧に手入れされ、艶やかな光沢を放つその髪は他にどんな色も混じりようのない不変の黒色、こちらを見やる眼差しに、星空のように綺麗に瞳を瞬かせる知り合いの少女―――イーピンの強いそれをどこか彷彿とさせるものがあった。 だから、間違えかけた。 実際に間近にしてみれば女性のほうがイーピンよりも若干年上のようであるし、全体的な印象もまるで違うというのに。 そんな困惑気味な綱吉をよそに、元々の目的が二人を引き合わせ、ファミリー間の縁を設けようとしているクルゼアの方はここぞとばかりに自らの娘自慢を大声でし始めた。女性は一度だけ綱吉を見たあと、ずっと俯いたきりだ。大人しく父親のそばに控えている。 「名前はライと言いましてね、今年で二十二になります。大人しいように見えますが、実に聡明な子でして、きっとボンゴレのような大きな組織に置いても必ずやお役に立つと思うのですが……いかがでしょう、ボンゴレ」 「あ…はい、あの、でも…それ、は」 「若い者同士お似合いですよ、ボンゴレ!」 「え、ええと……」 (や……やばい。流されてる呑まれてる、捕まってる……!?) 気付けば底なし沼へと一歩足を踏み入れたような状況に、何故かいつの間にかになっている。こんな状況下でさすがに「いや実はうちの家庭教師が勝手に取り付けた見合い話をちょっと直接断りに来ただけなんです」―――とは。 タイミングを逸したというよりも、まだ会話にうまく乗っかれていない状態では言うに言い難く、また切り出し難い。 そうこうしている間にあまりに会話のキャッチボールが成り立っていない自分たちの様子を見兼ねてか、ウェンが「クルゼア様」と二人の間に入ってきた。 「なんだ。ウェン、邪魔を…」 「ご無礼承知致しております。ですが、ボンゴレは先程こちらにお着きになったばかりで、まだお疲れのことと思います。詳しいお話はゆっくり晩餐の折にされてはいかがでしょうか? それまでお嬢様と二人で互いに交流を深めてもらうというのもまたよろしいかと思うのですが……」 「…ふむ、そうか。言われてみればそうかもしれんな。――ライ」 「はい、お父様」 「ボンゴレを部屋にご案内し、お相手をしてきなさい。くれぐれも粗相のないように。わかっているとは思うが」 「はい」 波立たぬ、湖面のような静かな受け答えが親子の間で平坦に行き交う。 豪快な身振り手振りで言葉を紡ぐ父親のものとはまるで正反対な娘のそれに、違和感が一瞬だけ綱吉の身を突き抜けていったが、それも女性の背後関係、環境を思えば親子とはいえこんなものかもしれないなと自らの過去と照らし合わせ、すぐに納得するに至った。 話をしようにも大抵が家にいなかった、父、家光。 そして隠密にマフィア家業を継ぎ、日本へと帰らぬ日々を送る自分。 ハガキ一枚にたった一文のみを書いて連絡とする、そんな父のような不精者にだけはなりたくないが、母に寂しい思いをさせているという点においてはきっと自分は父と同じことをしている。 ならば。 (近くにいて、話が出来るだけまだマシなのかな…) この二人のように。 無論、綱吉だってそんな希薄な情の在り方が良いとは思っていない。いないが、だが世界には多くの在りようがある。 一つが全てではなく、一つを全てとしない、 そんなたった一つでは補いきれない数多くの在り方が確かにある。 (生きてる人の数だけ……星みたいに) それを大人となった今では知っている。 二人のやり取りを見ながらそんなことを思っていると、 「…どうぞ、こちらへ」 ふいに女性が口を開いた。 そうして自分たちを見返し淡々と先導してゆく。 ……その後ろ姿は、なんとなくどこか寂しげで、儚いもののように見えた。 |