4 日本の言葉で、妖艶、というものがある。 概ね成熟した大人の美しい女性に対し使われることが多い言葉で、だが美しいという一点だけでそれを使うには少々大仰な意味を持つ文字でもあり、更に言うなら姿形の整った人間ならば誰でもそれに適用されるわけではない、特殊な容姿褒めの単語だ。 けれど今まさに獄寺隼人のそばにいる女はその適用されるべき条件を綺麗にクリアし、そういった雰囲気を意図せず無意識に辺りに漂わせている。 将来必ず美人になるぞと周囲からこぞって称賛を浴びていた女の過去を知る者としてはそれを当然と思うべきか否か。 身内だからこそ、あまりそうは思いたくないと苦く思って、獄寺は辟易とその瞳を瞑る。…隼人、と様子を窺うように声を掛けられたがそのまま反応はしなかった。 見てしまえば幼少時の悲惨な体験が思い出されて、また倒れる。 いい加減このトラウマもなんとかならないものかと情けなく思うが、幼少時から二十年かけて、ようやく直視さえしなければそこに姉がいてもなんとか倒れないまでにはなったのだ。それだけでも大した進歩だ快挙だと心から思うし、あともう二十年くらいかければ、もしかしたらきちんと真正面から向き合うことも出来るようになるかもしれない。 「隼人、目が覚めたの?」 暗殺者にしては線の細い手が獄寺の額をひやりと押さえ、それに獄寺は自らの甘い希望を内心で小さく笑った。 (…もしかしたら、か) 姉にしてみたら実に気の長い話だろう。 この身のトラウマは、幼少の姉が無意識に繰り出し続けたポイズンクッキングによって出来たものである。その危険に防御することなく晒され続けた数年…身に染み付いた「反射」というものは早々簡単に治るようなものではない。姉のそれが普通の料理を作れぬのと同じように、自分もそのトラウマを克服するのは容易いことではない。 だから―――結局のところ。 (これがオレたち家族の在り方なんだろうな) 姉のことは嫌いではない。けれどこの身のトラウマは姉の存在を自分から引き離さなければ治らぬもの。 ならば近くにはいられない。いざというとき、自分がその所為で弱くなる、というのならば。 姉に、近くにいてほしくない。 姉がそんな自分の考えを自分に嫌われているからだと誤解し、悲しんでいるのはわかっているが、言ったところで、自分の所為でと余計に悲しませることになるだけだ。 だから言うつもりはない。 これでいい。 近くて遠いこの距離が、きっと自分たち家族のベストポジションなのだ。 ならばそれでいい。 それで、いいのだ。 (クソつまんねー話だけどな、十代目に言ったらまた悲しませ…) ―――は、と。 胡乱にたゆたっていた意識がその瞬間凄まじい勢いで現在と繋がった。 「じゅ、十代目! 十代目はっっ!?」 「ツナならスペインよ。雨と霧の守護者と一緒にね」 「な! ――っ、ぐ…ッ!」 起き上がり、思いきり視界を開いた直後、ビアンキの姿が眼前に大きく映し出された。もんどりうつようにして獄寺はすぐにまたベッドの上へと逆戻りする。 「馬鹿ね、急に起き上がったりするからよ」 と、倒れたのは急に起き上がって眩暈を起こしたからだと勘違いをするビアンキの、明後日の方向へと放たれた見当違いの台詞が頭上より軽やかに落ちてくるのを聞いた。だが間断なく襲い掛かってくる腹痛に獄寺はそれを突っ込むどころではなく、歯を食いしばってその痛みを無理矢理身の内に抑えつけてから、 「あ…あれからどのくらい時間が経ったんだ……」 ベッドに世話になっているこの現状、それを導く要因の一つにもなった霧の守護者のふてぶてしい笑みを思い浮かべ、ぎりッと奥歯を噛み締めた。斜陽する陽射しはすでに随分と明るく、開け放たれた窓から入ってくる空気はどうも午睡の気配がある。明け方倒れて、ではもう昼間ということか。 次第に嫌というほど明確に甦ってくる記憶に、人が弱っているのをいいことに、強引に姉という名の檻を設けて自分の動きを封じた男の言動を思い起こす。その、意識を失う前に聞いた任務の内容が本当に正しいのであれば、今頃奴は獄寺が敬愛してやまない十代目と行動を共にしているはずだ。たった今、そう、姉が口にしたように。 (野、郎――!) 想像しただけでムカムカと胃の腑が激しく煮えたぎってくる。それでなんとか精神的な腹痛を誤魔化し、憤怒と痛苦でわななく指先で、獄寺は固い拳を作って白いシーツを握り締める。そうしてあっという間にシーツを皺だらけにしながら、血が昇り過ぎて頭痛すら覚え始めた頭でもってそれからしばしの激情のあと。 「待て………雨の守護者だと?」 護衛の任務だとは倒れる前に聞かされた。 だが他の守護者も一緒だとは聞かされなかった。おそらく単なる嫌がらせとして敢えて口にしなかっただけのことだろうとは思うが――― 「山本は確か中国の任務で帰ってきたばかりじゃ……?」 「リボーンが付いて行くように言ったのよ」 「…リボーンさんが?」 「ええ、あなたは昨晩から今朝まで寝込んでいたから知らないでしょうけど」 視界にギリギリ入らない場所でビアンキがサイドテーブルから何かを取る気配があった。硬質な金属音にこぽこぽといった水音が続く。 しばらくして用心の為に俯きがちに身を起こした獄寺の胸元に水の入ったコップが静かに差し出された。 「飲みなさい。少しは落ち着くわ」 「…………」 無言で受け取り、唇を湿らせる程度に口をつける。今度はシーツではなく眉間に深い皺を作りながら。 目覚めの一服を求めて手が勝手に動く。掴んだのは昨晩ビアンキが来襲…否、来訪してきた際に土産と称して差し入れてきた、いつもと違う銘柄の煙草だった。もどかしく箱の中身を取り出し、葉巻を咥えた直後に、歯でその先端を噛み潰す。苛々した時によくやる悪癖だった。落ち着けと言われたそばからこんな調子の自分にやや辟易とする。 「で? 姉貴は何をどこまでリボーンさんから聞いてんだよ」 「大したことは知らないわ。そうね、ツナが見合いに行ったってことくらいよ、私が知っているのは」 「………は、? 見…合……―――ハアアアアッ!?」 咥えたばかりの煙草がぽろりと口から零れ落ちた。 「あら、聞いていなかったの?」 「み、みみみみっ、見合、見合い……っ!? 十代目がか!?」 「他に誰がいるの。そうよ、見合い。そういえば三年前くらいだったかしら…? 確かその時以来よね、ツナに縁談の話が持ち上がるのって」 「なんでまた……ッ!」 「スペインの旅行先で偶然知り合ったマフィアの頭がいてね、ちょうど年頃の娘さんがいるってことでリボーンが話を進めて………隼人?」 邪気なくビアンキが瞳を瞬かせ、不思議そうに見返してくる。 だが獄寺は、動揺から咄嗟に顔を上げてしまった自らの失態への「代償」を今まさに払っている最中であり、 「ぐ、は…ッ」 「まあ大変! 隼人…! 大丈夫なの!」 顔面蒼白となってベッドで身体を折り、急にもがき苦しみ始めた弟の容態の変化にビアンキは息を呑むと即座に手を伸ばして弟の身をベッドへと沈ませた。その際また暴れられたが、痛みからか、抵抗は次第に弱まっていった。 「十……十代、目……っ」 そして次に獄寺が目覚めた時、室内はとっぷりと陽の暮れた、夜の帳を下ろしているところだった。 |