22





「リィ……!」
 自分を呼ぶ声を聞きながら、視界が赤く染まってゆくのをライは黙って見ていた。
緩やかに世界が傾いでいく。
 その途中、目を見開いて手をかけた自分を愕然と真正面から捉える男性に声にはならなかったけれど、ごめんなさい……と呟いた。自分を傷つけたことに傷ついている姿を見るのがとても心苦しかった。
(……ここにも)
 ゆっくりと、息を吐くようにして思う。ああ――兄のみならず、ここにも、こんなにも優しい人がいた。だからごめんなさいと嘘の名をようやく脱ぎ捨てることのできたかつての少女は微笑みながら静かにそれを思う。これは自分の勝手ですること。
 微笑むことで少しでもそれを理解してもらえたら嬉しいと、水滴で滲む世界を瞳を細め、眺め続けながら切に願う。
 世界がおかしなくらいスローモーションで動いてゆく。その所為か、身体を斜めに走った刀傷の痛みは殆どなく、寧ろようやく叶った望みに微笑む自分とは違い、焦燥を募らせる……兄の、慟哭する姿に胸が痛んだ。―――もうずっと、自分の望みを阻止し続けてきた兄の苦労を、今、自分は水の泡にしようとしている。
 それがわかっても、最初の絶望よりも更に濃い絶望を、自分の本当の父親だと言って突然クルゼアが現れ、闇の世界へと引き込まれたあの瞬間から、今日まで。
 自分の目的は後悔ばかりを引き摺って生きるなか、たった一つ、それだけだったのだ。その願いを叶える為だけに今日まで生と死の狭間を幾度も往復しては自分を生かし、殺し続けてきた。
 全ては―――自分がいなければ終わる話。
 だから鳥(わたし)を放って、鳥籠の中を空にする。
 そして何を気にすることもなく、兄が自由に生きていけるように――。
 そうすれば、自分という鳥の所為で、本当は何の血の繋がりもないのに、ただ再婚相手の連れ子だったというだけの自分に、その身に宿す過分な優しさからクルゼアに言われ、鳥籠にならざるを得なかった兄はきっと解放される。留まる理由さえなくなれば如才なくこの地を離れることができるのだ。
 だから、これでもう。
(どこにでも……行けるわ)
 ゆっくり、ゆっくりと世界が閉じ、薄く視界が翳り始める。呼吸も、段々と胸を圧迫されるような息苦しさを伴ってきたが、落ちてゆく感覚はまるで安らかな眠りにつくような、穏やかなもので、恐ろしくはなかった。願いがこれで叶うと安堵していたからだろうか。
 自分を誘う暗闇は思っていたよりもずっと優しいものだった。
「リィ……リィ……!」
 地面に転がるはずだった背に誰かの腕が添えられ、柔らかく自分の身を受け止める、その声から兄の手だと知った。いや…声がなくともそれは優しい兄のものだと即座に断言することが出来た。
「兄さ……」
 ……希望など、持たぬほうがいいと先程兄は言っていた。
 下手な希望を持って、絶望して、これ以上傷つくことが、苦しむことがないようにと……これまでも兄は兄なりに自分のことを運命から守ってくれていたのだということは知っていた。けれど暗い絶望をどれほど食んでも、生きていられたのはその持たねばいいと言われた希望が近くにあったからだった。
 家族という名の希望がそこにあったから。
「生き…て」
 だから。
(望みを叶える…今日までわたしは生きていられた……)
 沈み込む兄の腕の中で、ようやく叶えられた願いと贖罪を抱えて、そっと口許を緩めた。
 そのまま緩やかな眠りに落ちるように。その腕の中で、幼いときに眠ったあの頃のように。
 ゆっくりと一つ。
 息を吐いて、落ちていく。
 自分を取り囲んで迎え入れる闇へと。
 その胸に―――大事な大事な希望を仕舞い込んで。





 少女の母親がかつてクルゼアに買われ、飽きて捨てられるまでずっとその欲望の捌け口にされていた事実は知っていた。父親から聞かされてとうに知っていた。それでもいいと父親は全てを受け入れ、その上で笑っていたし、新しい自分の母親となったその女性は優しくて、引き合わされた幼い妹も純粋に可愛いと思った。
 父親と同じように……ならばそれでいいと自分たち家族は日々を倖せに過ごしていた。
 ずっと倖せだった。
 あの日―――成長しても自分にとっては未だ幼いままであった、その後ろ姿が今にも折れてしまいそうになっているのを見た、あの運命の日までは。
「すべて―――捨てるんだ、リィ」
 マフィアであるクルゼアの言葉を断ることはそのまま死を意味することになる。拒絶することは出来なかった。許されてはいなかった。そんなことになったら必ず妹は殺される。
 自分にとって残る唯一人の家族が、たった一言、その返答次第であっさり奪い去られてしまう。
 だから自分は決めたのだ。倖せだった過去を捨て、希望を捨て、なにもかもを捨てさせる代わりに―――その命だけは救おうと。
 言葉に、決意を滲ませた。
 それ以外に自分は何を言い、何をすればよかった?
 父が死に、母が死に―――妹すらもこの世から消えようとしたとき。
 その時に自分は希望を奪う以外、何が出来たというのだろうか。
 その言葉通りにすべてを捨てさせる他、一体何が。
 ……妹には生きる道を選んでほしかった。
 すべてを捨てさせ、仮に自分が恨まれたとしても、それを選んでほしかった。
 そしてその日、妹の十六の誕生日。
 ただ一つの選択のみを選ばせた愚かな自分は、その絶望に染まり続ける後ろ姿だけを見て、これまで生きてきた。
 なのに―――
 腕の中に収まる妹の身体から力がゆっくりと抜けていく。
「それでいいと……」
 心にぽっかりと空いた、埋めようのない喪失感が不在の重みを問うようにして深く深く、心に黒い染みを作りながら沈んでゆく。
 ひぃっ、と咽喉に張り付いたような短い悲鳴を上げる男の声を聞いた。
「ウ…ウェン! そんなものはもういいっ! 早く助けろ…っ」
「…………」
 そっと妹の身を静かに横たえ、立ち上がる。振り返るとこの六年間、ずっと何を命じられても諾々と任務を完遂し、仕えてきた主がいた。無様に地を這う姿に薄暗い負の感情がじわりと頭をもたげてゆく。黒い染みを徐々に大きく広げてゆきながら。
「ウェン…!」
「希望など…持たねばいい。そうすれば―――期待して……裏切られて……絶望することも……」
 手の内でひどく軽くなった銃口をぴたりとそんな男の額へと向ける。照準を定めて引き金に指をかけると、驚いたように大きくその肩が跳ね、何をしている! と掠れた叱責が飛んだ。背後でそんな自分を困惑して止めようと幾多の銃が構えられる。銃口はすべてこちらに、自分の反逆を止めようと向いているのだろう――だが。
「……摘むだけです、クルゼア様。希望の芽など」
 感情のまるで籠もらぬ声で淡々と死の宣告をする。
「今まで……ずっとそうしてきたように?」
 ざり、と。
 飛び散ったコンクリートの瓦礫を踏みしめて、そこに立つ青年の姿にウェンは顔を上げた。ああそういえば…そんな現実もあったのだと夢現つにそれを見る。目の前に立たれるまでそれすらすっかり忘れ去っていた。自分にとっての現実が失われた今、それもそうかと漠然と思う。それはここではない、一枚膜を隔てた向こう側を見るような感覚に近いのだから。
「ボンゴレ…あなたに何がわかる。この男と同じマフィアであるあなたに。私は妹を……リィを守れたらそれでよかった。そんなささやかなことすら許さなかったのはあなた方だろう」
 だから、もう。
「……終わりにすればいい」
 すべて。なにもかも。否―――自分にとってのそれはもはやすでに失われている。終わらせたいと言っていた、妹の言葉通りに。
 故にこのあとに残された選択の道はその言葉通りに自分もまた殉じるだけのことだ。いつものようにその前に絶望をばら撒いて。
 視線を下に戻す。
「やめっ……ウェン! 貴様、何をしているかわかっているのか……! お、お前達! 早くこいつを撃てっ…殺せ!」
 背後の殺気が高まった。銃弾が飛び出す前のピンと張った空気がそのまま直に肌へと突き刺さる。だがどうでもよかった。ただこの一発、この引き金を引く一瞬さえあれば、他はどうなろうとウェンにはもう関係なかった。けれど元に戻した視線、その視界のなかに一歩進み出てくる存在があった。
「……邪魔をするおつもりですか」
 佇む青年の両手、額に青白い炎が静かに灯っている。
 眼差しは問いかけに肯定の意を示し、強く見開かれていた。
 その瞳に揺るぎない決意が見える。
「邪魔をするならあなたにも死んでもらいます」
 クルゼアが自身の殺そうとしていた青年の背後へと逃げるようにして身を駆け込ませる。矜持も何もないその厚顔無恥な態度に、こんな男の為に自分の大切な者の命が奪われてしまったのだと思うと、冷静であった感情に俄かに火が灯るのがわかった。
 眼差しにその思いを込めて睨むと、自ら危険な場面へと進み出てきた青年は合わせた瞳をけして逸らさず、
「定番って言ったら…まあ、定番なんだけどね。そんなことをしても彼女は喜ばないよ。悲しむだけだ」
 だからあなたは間違ってるよ、と。
 いっそ優しいとさえ言えるような口調で告げられ、その正論すぎる言葉にかつてならば同意できたかもしれないが、黒く蓋を閉じた今の自分の心には、そんなもの、どこにも引っ掛かりはしなかった。所詮は偽善だと歪んだ自らの思いがそれを自らの内側へと向けて放つ。けれど次に。―――次に紡がれたそれは……ウェンの、力を籠めようとしていた指先をぴくりと微弱に震わせ、心に波紋を生んで苛立たせるに充分なものを宿していた。
 青年は告げる。
 はっきりと口を開いて。
「だってあなたは……あなた自身が楽になりたいから、そう言ってるだけだ。自分だけが生き残ってしまった、その現実からただ逃れようと、自棄になってるだけだ。なのに…その死にたい理由に彼女を使ったら彼女もあなたも、ずっと可哀想なまま、何も変わらない。あなたに希望を持つよう、自由に生きるよう、最後まで強く彼女は願っていたのに」
 言い切る言葉に躊躇いなど何もなかった。
 ただそれは、真っすぐに。
 どこまでも高く、広く、澄み渡る大空のように。
「その気持ちまで踏み躙るようにあなたが自分の命を捨てたら、彼女だって死んでも死にきれない――――あなたが本当に彼女のことを想うのなら、まずはあなた自身が倖せを望まないと。そうやってあなたが生きて、倖せを求めることで、彼女の願いは本当の意味で果たされるんだ。だからそうしないって言うんなら、オレが全力であなたを止める。死ぬ気であなたにその間違いをわからせてやる!」
 目の前で披露されてゆくそれらの言葉は、世間一般な正論などではなく、真摯に、自分たち兄妹だけに向け、吐き出されたものだった。正論なだけであったのなら大して響きはしなかった。響いてこなかった。けれどこれは……これは、なんだ。先程からこの青年は。
(一体、何を言っている……?)
 これではまるで―――自分たちの為に、死んでしまった妹の為に、その手を差し伸べようとしてくれているふうにも取れる。
 自分たちが諦めるしかなかったことをけして諦めるなと励ましてくれているように聞こえる。
 とても―――それはとても、マフィアの在り方とは思えない。



『―――うちのボスは任務と人助けを一緒くたにするようなマフィアらしからぬ甘いボスだから、もし彼女が困ってるなら何がどうあれ必ず助け…』



 ……助ける、と。
 言いたかったのだろうか。
 あの部下の男は本気で。
 …本気で、自分たちをこんなふうにしたクルゼアから、同じマフィアでありながら何の義理もないのに助けるつもりだったというのか。男がそれをあまりにも当たり前のように言うのがひどく癇に障って、ウェンは最初から聞く耳すら持たなかったが。
 もし……もしあの時、それを信じていたのなら? その言葉に希望を託し、差し伸べられた優しさに素直に手を重ねていたのなら……?
(リィは……死ななかったとでも?)
 そうだったかもしれないと頭の片隅で否定しきれない微かな困惑が暗い感情を押しのけて心にあたたかな希望の火を灯そうとする。けれどもう遅いのだ。
 灯った光はあまりにも儚い。
 吐息一つで簡単に消えてしまえるようなもので、
「倖せになど、今更……なれるものか」
 結論として自分はそれを信じることが出来なかった――今も、完全にはそれを信じきれていない。そうやってずっと……安易に希望を持ち、今以上に絶望することが恐ろしくて自分は現実から目を背け続けていた。妹は諦めず、何度心を挫かれても、絶望よりも希望を追いかけ続けていたというのに――。
 結局、本当の意味で強かったのは妹のほうで、守られていたのも自分のほうだったということか。
 妹がいたから生きてこれた。逆を言えば、妹のいない今、自分には生きる理由すらないということでもある。
 だから。
「なれる…ものか」
 力なくそれを繰り返す。すると先程と同じくらいか、それ以上強い口調で、「絶対になれる!」と、部下の男と同じく当たり前のようにそう青年は断言してきた。網膜に染み込むような青い炎がチラチラと波打ち、まるで踊るように視界に鮮やかに映り込む。
「そんな……一体何の根拠があって…」
 保証などどこにもない。そんな勝手を根拠もなく言い続ける年若いマフィアの青年が急に憎らしくなって、気だるさを覚えながらウェンは拳銃を握る腕にゆるりと力を籠めた。斜めに傾いでいた銃口をクルゼアではなく青年へと向ける。危機感を覚えて少しは慌てればよいのだと思った。それでも、青年は語り続ける。
 確かなものなど何もない、諦めばかりが点在するこの世界の全てが、まるで希望に満ち溢れているかのように。
 その手を差し伸べて。
 青年は笑って言う。
「だってあなたも、結局彼女を守るっていう希望を抱いていた。だったらあなただって、彼女と同じようにきっとこれからも前を向いて歩いていけるんだ」
「……勝手な、こと…を」
「勝手でも、何でも」
 青白い炎が急にボッとその勢いを増した。視界に揺れる。
 それは手遅れになる前に差し伸べられたかも知れぬ光の道筋を、もう一度、戸惑う自分へと指し示してくれているようにも見えた。
 揺れる不可思議な炎。青白いそれは湖に投げ入れた小石のように細かな波紋を縦に描き、幾重にも広がって、見続けるウェンの意識を次第に遠のかせてゆく。おかしい、と事態に気付いたときには手元から力が抜け、指先を伝ってカツンと銃が滑り落ちた。
 それを止めることができなかった。我が身さえも傾いでいる最中では、どうすることもできなかった。喘ぐように唇を開く。
 そして青年はそんな自分へとその手をゆっくりと伸ばしてき、


「あなたには生きてもらう。そしてこれまでしてきたこと、そのすべてを背負って、たとえその重みに押し潰されそうになっても……それでも生き続けてもらう。勝手に死んでさっさと諦めるなんて、そんなの許さない。それを許すほど―――希望だって、やさしくはないんだから」


 ……その、最後の言葉にどう応えたのかよく覚えていない。ただ青白い波紋に視界を遮られ、ぐらりと足元を崩した自分がそのまま倒れながら仰ぎ見た―――世界の、決して手の届かない高い場所で、ぽっかりとその口を開けて希望という名の光がこちらに降り注ぐように射し込んでいるのを見たような気がした。
 青年はその場所へ行けという。
 妹を失って、たとえ今を絶望したとしても。
 息を引き取る間際の妹と同じことを……生きろと言う。
 いつしか声が遠く、光の穴に吸い込まれるようにして細く途切れがちな微かなものになっていく。残酷なほど綺麗に、美しく瞬いたその光を見せつけるように、一緒になって、自らの目蓋の上にその最後の一瞬を刻み落としながら消えていく。その眩さに次第に目が開けていられなくなった。光源は失われてゆくのに、何故か、目が開けていられず、
「…諦めないで、ちゃんと生きてほしい。彼女だって……そのほうがずっと…………」
 眼球の裏まで染み込んでこようとするそれに遠い日々の、今は失われた懐かしい光景をふと垣間見たような気がした。











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