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ずっと、後悔をしていた。

 死を覚悟しながら――――死んでもいいと祈るようにして思いながら、ライは次第に苦しくなってゆく自身の心臓を少しでも落ち着けようとそこに手を当て、息を吐く。そうしていると疲労とはまた別の、違った意味での鼓動がどくどくと身体の内側を叩いているのがわかった。
 服ごとぎゅっと握り締めてそれをなんとか治めようと努力し、身体のほうは重い脚を引き摺って前に進む。
 休む間など与えなかった。結果、苦しさから何度も何度も視線が下がりかけ、それに数秒ごとに厳しく叱咤しては、歯を食いしばって顔を上向けた。長い廊下を夢中で駆けていたら、途中で使用人の何人かが部屋の扉から半分ほど身を乗り出し、好奇心につられるように首を斜めに傾けているのが見えた。
 背後から近付いてきた足音に驚いたようにびくりとその肩が大きく跳ねる。そしておそるおそる振り返って、足音の主が自分だと知ると更に驚いてその目を丸くした。まじまじと注がれる好奇と不審の入り混じった眼差しを構わず無視し、視界から外れ、流れていく使用人たちを背後に、こんなふうに感情を露わに、整えるべき体裁を放り出して駆けていく自分などこれまで一度として見たこともなかっただろうと息苦しさを誤魔化すように考える。
 自分は籠の中の鳥だった。
 そして彼らはただこの邸で雇われているだけの人間。
 深い事情など知らぬほうが身の為だと自己防衛の手段をよく知っている。その通りだ。
知らぬほうが身の為。
 だから知らないほうがいい、こんな嘘で塗り固められた自分の身の上など。
 眼裏に置いてきた先の情景が唐突に浮かび、息苦しさも忘れて、安らかな気持ちで小さくライは微笑んだ。
(馬鹿で……優しい人)
 ハンカチなどどうでもよかった。ぶしつけなことを頼んでいる自覚はあったから、怒って、罵ってくれても良かったのだ。なのに馬鹿正直に自分の願いを聞き入れ、挙句危害を加えた相手にまで情けをかけ、それを許して。
 そんな優しい人に、自分の事情を知って、万が一にも同情して救いの手など差し伸べてもらうわけにはいかなかった。そんなことは望んでいない。自分が望んでいるのはただ一つで、その一つを与えられないような……そんな優しい人なら要らないのだ。
 負い目など背負って欲しくないから嫌われるようなことばかりしたのに。そんな態度ばかりを取り続けたのに。
 どうしてあの人は―――思い浮かぶ、もう一人の面影にライは頼りなく首を振り、もうずっと、何年もそこにある覚悟を改めて強く胸に灯す。そうして思い出す。
 自らの後悔、その始まりとなった日のことを。





 両親が死んだ。
 その年、国では酷い疫病が流行していて、薬を買うだけの財のないものは軒並みその命を儚く落としていった。……仮にそれで二人を亡くしたのならば、恨むのは貧困に喘ぐ自らの境遇や不運、或いは統治するその地の権力者が浅ましい己の金銭欲によって薬の値を吊り上げたことに対し恨み、憤ったことだろう。
 父と母が死んだ。
 それは病気とはまったく関係のない、突然の……心無い者たちの無慈悲な暴力によってのことだった。
 自分が外から家に戻ってきたとき、夕食の準備にとりかかろうとしていたのか、母親は台所で腹部から血を流して死んでいた。
 父はその隣の部屋で母へと手を伸ばしながら、やはり血を流して死んでいた。
 二人共、その身をどこまでも赤く、無残な朱にと染めていた。
 そんな無情のなかに佇んでいた自分へと手向けられた唯一の救いは、気立ても良く、美しかった母の顔には傷一つついておらず、そんな母を、おそらく最期のときまで守ろうとしたのであろう父の確かな愛情が、そのむごたらしい光景のなかで何ら損なわれることなく存在していたことだった。
 正確にそれを読み取ることのできる自分が誇らしく、そしてそんな美しい愛情が思うさま食い散らかされてしまった非道な現実がただただ悔しく、それをした者たちを心の底から深く深く恨んだ。涙をどれだけ落とし、流しても、その強い灯は消えず、自分という存在などまるで及びもしないところで突然両親が他界した事実は、十六となったばかりの自分に、
 最後に。



「すべて―――捨てるんだ、リィ」



 優しかった、残る唯一人の家族までをも、あっさりと自分から奪い去っていってしまった。
 自分は何と言えば良かったのだろう。
 その言葉に。
 その決意に。
 何を言い、何をすればよかった?
 父が死に、母が死に―――兄すらもこの世から消えた。
 その時に自分は絶望する以外、何が出来たというのだろうか。
 その言葉通りにすべてを捨てる他、一体何が。
 ……自分には生きる道しか残されていなかった。
 すべてを捨てても、恨んでも、それしか、そこには用意されていなかった。





 だから―――十六の誕生日。
 最後に恨んだのはそんな愚かな自分自身、
 ……あれからずっと、選んだ道を後悔しながら生きている。










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