19





 薄墨の尾が煙草の煙にように辺りをしばらく残滓として漂い、その後、ふっと音もなく儚く視界の中で掻き消えた。後にはただ感傷だけが残る。
 けれどそれでいいと綱吉は口を開いた。
「……死なないよ。オレはお前を置いてなんかいってやらない。そんで骸にも、世界なんて壊させない。壊させたりなんかさせるもんか」
 笑みを浮かべて、宣言するように言い放つ。今度は男のほうが驚きに目を見開いた。――笑って、手のひらの炎を逆噴射させる。
 死ぬなという男の為に生きる為に。
 …ああ、どうしてかわかった。
 男のことを受け入れ、認めた途端に色々なことがわかってき、想いが切々と雪のように自らの胸に降り積もっていく。
 おかげでまた一つ、綱吉のなかで理解することがあった。
 認識を改める。
(オレは……骸が力を使うとき、いつもずっと苦しそうだと思ってた。だからそんな力を使わせてまで自分を守ってもらうのが嫌で、それをどうにかしたくて……)
 輪廻を紡ぐ骸の術は、一見その特異な強さばかりに目がいくが、その実、それはどれもこれも男がこれまで辿ってきた辛い人生の哀しみや苦しさを象徴するものでしかなかった。それをいくら綱吉を守る為だとはいえ……いや、守る為だからこそ、その力を多用するさまを綱吉は見たくなかったのだ。
 骸に任せたらやりすぎるからともっともらしい言い訳を心に覆い重ねて、本当はもうずっと、ただそれが嫌だったのだ。
 この屋敷で最初に窓から落ちそうになったあの時もそうだ。
 咄嗟にライへの危害と屋敷の受ける被害のことを考えて止めたと思っていたけれど、本当に考えたのはそうではなかった。考えていたのは、ライのことでも屋敷のことでもなく…「骸」自身のことだった。暴れる心配をしていたのではない。
 ただそれは。
(オレが……骸にそんな哀しい力を使わせたくなかったんだ)
 理由はたったそれだけだった。
 その為に止めた。
 制止の声を掛けた。
 それがなければもしかしたら自分は止めなかったかもしれない。わからない……わからないが、死ぬなという男のエゴと負けず劣らず自分も随分と酷いことを考えていると苦々しく思う。過保護と指摘された言葉はまさしくその通りだ。しかもそれを無意識に行っていたのだから始末が悪い。
(ああもう…ほんと、どうしよう)
 好きだ、と。
 気づいたら、こんなにも自分の心は男への気持ちで溢れかえっていた。その気持ちの強さを改めて思い知る。今すぐにでも伝えたいと感情の奔流が堰を切りそうになったが、青く灯していた炎を消し、室内にトンッと軽い足音を立てて着地したとき、見えたものに表情が引き締まった。
 ちらりと男の腕を染める色鮮やかな血の色に視線をやり、
「ごめん…骸。傷の手当て、あともう少しだけ待って」
「別に構いませんよ。今はとても良い気分ですから…どうぞあなたのお好きなように。手出しはしません」
 掴んでいた腕を、労わりを籠めてそっと離すとクフリと小さく男が笑った。どのあたりのやり取りを以ってして、今までの不機嫌が突然好転したのかはもはや訊くまでもなかった。
 うん、と信頼を寄せて、顔を上げる。
 それ以上余計なことは一切省いた。
「決着をつける」
 短く断言すると、部屋の中、銃を撃った場所で力なくへたりこんでいたライが初めてそんな綱吉へと動揺を見せた。真剣な眼差しに気圧されたように座り込んだままで僅かに後ずさる。そして自棄になったように銃口が上向きに当てられた。
 だがそれすらも。
(全部…裏を返せば、)
 己の直感に組み込まれる幾つかの情報が目まぐるしく綱吉の記憶の整理を行っていく。それはやがて確信を生む。彼女のやっていることが全て、最初からそれを望んでいたことなのだとすれば合点は他愛もなくいった。
 だから今となっては逆に受け止めることこそが正しい判断だった。
 銃口に躊躇うことなく身を晒し、彼女の前へと立つ。
「馬鹿な……ひと」
 飛んでいってしまったハンカチを取ろうとしたときと同じことを言われる。それに、そうだね、と頷いた。頷いてから、そっとその膝を彼女との距離を狭めるよう、静かに折った。
 震える腕に、予感を察してか、びくりと脅えが走る。けれどその引き金が引かれることはなかった。
 寧ろ引き金はそのまま、威嚇でしか初めから引かれる予定はなかったのだともう知ってる。
「だからオレは……君のその願いは叶えてはあげられないよ。さっきも言った通り―――武器を持ってないからね。だからどんなに願っても、オレは君を殺してはあげられない」
 その為にどんな演技をしようとも。
 絶対に。




 言った途端。
「―――――」
 目を合わせるようにして覗き込んでいたライの瞳がゆっくりと色をなして大きく見開かれた。願いを砕かれ、愕然とその眼が絶望に染まる。それだけはこれまでの偽りと違い、確かに本物だった。本当の、年相応の彼女の表情だった。
「どう、して……」
 独白めいた呟きは肯定の響きを色濃く乗せながらぽつりと落ちた。焦点がうまくあっていない。亡羊とした眼差しで綱吉を見る。自身の手に持つ拳銃をおそらくその視界に共に映して。
 それをそっと綱吉は手のひらで押し下げた。
「あなたマフィアでしょう。どうして殺さないの。わたしは、あなたに酷いことを沢山したわ」
 希薄な感情がとつとつとそれを零してゆく。その悲愴ともいえる決意に儚さばかりが際立ち、見ているとひどく痛々しく目に映った。
 何故、と思う。どうして彼女がそんなことを望むのか、綱吉はまるでわからない。けれど死を望んでいるのは確かだった。それだけが希望であるかのように繰り返す。
「殺して」
 糸の切れた操り人形のようにただ切々と。
「あなたが殺して、ボンゴレ」
「……殺さないよ。だって君はオレを助けてくれた」
「…………」
「今朝、朝食にラットの死骸を入れたのは君だね。君だろうなってすぐに思った。そう思うようにわざわざ見える位置にいてくれたから。だからラットのことも見合いが嫌で、単純に君の嫌がらせなのかと思った。だけどあれはそんなんじゃなくて―――死んだラットは警告だったんだ。それを食べるとこんな風になるっていう……君からオレへの……メッセージだったんだ」
 毒物が混入されていると気づいたのは倒れる間際のことだった。
 自分の解釈が正しいのならば、それを入れたのは誰であるか。そんなものはもう言わずもがな、知れている。
(クルゼア…か)
 溜め息が出そうになる。
「商売柄、毒には少し詳しいんだ。倒れたのは……まあちょっと予定外のことだったんだけど」
 気を抜きすぎです、という後ろからの小さな茶々に、うるさい、一体誰の所為だと思ってんだと今だからこそ思える文句を声には出さず、一先ず胸の奥に仕舞い込み、あとで絶対言ってやると固く誓いながら、
「でも君は最初からずっと…そうやってオレたちのことを考えて動いてくれてた。自分の望みと一緒に。どうしてか、教えてほしい」
 最初に会ったときから嫌われていた。常人ならば落ちたら大怪我を負うようなお願いを平然とされた。何故かと思った。けれどあれは、自分の身体能力のことを知っていたら特に問題のないことでもあったのだ。今みたいに死ぬ気の炎さえ灯せば特に問題はない。
 自らの死を望んでいたのならばそうしたあと、することは実に簡単だ。危害を加えるフリをすればいい。そうすれば護衛の任にある守護者たちはこれを排除してでも、綱吉のことを守ろうとするだろう。
 実際、そう動きかけた。
 ただそこで一つ、彼女にとっての誤算が起きた。それを当の綱吉自身が止めたということだ。これはおそらく彼女にとっての予定外のことだったのだろう。だから今度は間違いなく相手に明確な危機感と敵意を植えつけ、芽生えさせように銃まで持ち出してきたのではないだろうか。撃とうと思えばすぐにでも撃てる距離にいて、その時間も有り余るほど持ち得ながら―――わざわざ自ら油断と隙を作るような真似をして、今度こそはと綱吉が自身の武器にてその命を奪うことを待っていた。
 だが結局またしても願いは打ち砕かれた。
 度重なる誤算は彼女の願いを最後まで聞き入れはしなかった。
「何か力になれることなら絶対に力になるから……だから」
 それを聞き、力なくうな垂れていたライが首を傾げるようにじっと綱吉を見つめた。何故そんなことを言うのかわからないとでも言うように、
「……どうでもいいの、わたしのことなんて……どうでも、どうなっても」
 再び視線を手元の銃へと落とす。
 もしかして自殺の為に使用するのではと一瞬ひやりとしたが、死こそ切実に願うものの、それをライが自身へと向けて発砲することはなかった。それを見て、他者の手にかかって死ぬことがあくまで彼女の望みだったのだろうかと訝しげに綱吉は眉根を寄せた。しかしどうして。
辛抱強く彼女が喋り出すのを待っていると何処からかふいに銃声らしき物音が響いた。続いてガラスの割れるような音。奇しくも自分たちが今体験したばかりのものに怒号までもが追加され、不穏な気配に嫌でも気が引き締まる。
 咄嗟に振り返ると、
「反対側の棟のようですね。先程山本武がそちらに向かっているのを見ましたから……大方今朝の毒入りラテでの暗殺に失敗したクルゼアたちがそろそろ本格的に動き出してきたってところでしょう。見つけた山本武が襲撃しているか、若しくは一足先にされているか……どちらかしかないと思いますが、相手も流石にもうなりふり構ってこなくなってきましたね。夕刻には迎えが来るとあなたも迂闊に言ってしまいましたから」
「なっ! ていうかなんだよその全部僕は知ってますみたいな口調!? しかもオレの言ってたことまでしっかり把握してるってどういう…っ」
「単なる読唇術ですよ。それにクルゼアがあなたの命を狙っているのは事前入手していた情報でとっくの昔に知ってましたし。ほら、ちゃんと言ったじゃないですか。どこに行っても人気者ですねって」
「…………」
 あまりにあっさり言うので眩暈が起きた。
「わ…わかるかっそんなので! どうしてそんな大切なことを今まで黙っ…―――ああもういいよ! 早く山本と合流……」
 叫んでいる途中で背後にあった気配が突如動くのを感じ、慌ててまた振り返って、あっと口を開く。
 視界の隅にひらりと泳ぐラベンダーの裾、性急にそれは翻って、波が引くように扉の向こうへと消えていく。
 その、遠ざかってゆく懸命な足音に止める間もなかった。
 そして――。
「………言うつもりでしたけど、どうもあちらの動きが思ったより早かったようですね。彼女と同じように」
「――――だからっこの!」
 馬鹿! と怒鳴ってからその後を追うようにして部屋から飛び出す。
 タイムラグは僅か十数秒のこと。
 けれど視線をやったその先にラベンダーの波は見えず、嫌な予感が緩やかに頭をもたげ、転がり始めるなかで、二人揃って全速で廊下を走り出す。


 そんな激しさを増す一方の騒音に、また銃声とガラスの割れる音が紛れるのを聞いた。









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