18 「抵抗はなさらないの?」 「……………」 銃口を向けていながらそんなことを言う。答えを待っているかのようなその態度に、 「……あいにくと武器は持ち合わせていないので」 正直に言えばライの細い指も素直にトリガーへとかかった。冷汗が背筋を伝う。「……そう」カチリと危機感をいっそう募らせる音が小さく響いた。 まずい。 これは本格的にまずいのではないかと固まったままでそれを思っていると、ライはそれから何かを思い出したように、そういえば、と銃口をこちらに向けたままで胡乱げに呟いた。 「昨晩、手紙を書いたらしいことを家の者から聞きました。…出して頂けるかしら? こちらで処分しておきます」 思わぬことを言われて瞠目する。 「あ、あれは、別にそんな大したものじゃ――」 「ボンゴレ。わたしは何度も同じことを言いたくはありません。そういう性分ですから」 出せ、と。 告げる眼差しと語気が微かに強くなり、しばし躊躇ったあと、胸の内ポケットに手を差し入れて綱吉は困ったようにその内側を探った。視界の隅で幾分緊張したように僅かに身を固くするライの様子が目に留まる。だから武器は持ってないんだけどな…とそれを幾分気にしながら指先が問題の手紙の端に触れるのに動きを止め、緩慢な動作で抜き出しながら、 (大体こんな無駄なこと別に今しなくても、殺ったあとからどうとでも……) 我知らず物騒なことをさらりと平気で考え、こんな手紙にまで注意を払うのはこれを大事な情報源と思っているか、はたまたどっちでもいいから単に没収と思っているからか――少々荒んでしまった思考に妙な展開への当惑を覚えていると、 (あれ…?) ハタ、と。 その思考が辿り着くものがあった。 否、突如湧き起こった違和感が急に思考を占拠した。それはボンゴレがボンゴレであるが故の超直感、それが働くときの特異な前触れによく似ていて。 取り出した手紙を渡そうと近づく綱吉を、何ら警告してこないライにその感覚はますます強くなる。けして、銃を突きつけているから安心しているわけではない。その証拠に一度はかかっていた細い指先がいつの間にかに撃鉄から離れ、外されている。 これで警戒しているというには無理があるし、とても言い難い。 優勢を手放すかのようなその無防備さに、考えれば考えるほど彼女の起こす全てがちぐはぐに思えてしまう。何か、根本的な大きな勘違いを自分はしているのではないだろうか。 最初から、大きな思い違いを――? 故に問った。 もう一度、 「……貴女はどうしてこんなことをするんですか。どうしてこんな、自ら死ぬようなことを……?」 「――――」 言い方を変えると虚を突かれたように目の前でライの瞳が大きく見開かれた。その直後、向けられた銃口から、どんっ! と腹に響く、重たい銃声が室内に響き、吐き出した硝煙の匂いが鼻につくなかで綱吉の背面にあった窓ガラスがその全面を大きく砕かれ、細い悲鳴を甲高く辺りに撒き散らした。 雲間から斜めに射し込む陽光の日差しを受け、振り返った背後で、快晴の下で降り注ぐ小雨のような細かい光をキラキラと放ちながら空中での一瞬の浮遊を終えたのち、破片は地上へと光の筋を残しながら落ちていく。 雨のようだと思った。 本当の雨のようだと思っていたら、開いた窓でふいの突風が巻き起こり、そのまま室内に侵入してくると、綱吉の手元を嘲笑うかのように乱暴に駆け抜けていった。 「あ…っ」 銃を構えるライのことも忘れて脊髄反射でぐるりと視界を反転させ、足を踏み出す。風に攫われた先、自らの書いた手紙、母への言葉が突風に巻かれ、空高く、天へと昇るよう宙を駆け上がろうとしていた。 気づいたときには遠い空の下でそれを待つ母の笑顔が思考を占め、右手を伸ばし、ガラスの落ちていった向こう―――窓の外へと身を乗り出し、追っていた。 窓の下枠に手をかけ、ついた途端に周囲に細かく残った破片の幾つかが手のひらの下、肌に食い込み、突き破る痛みがあったが、咄嗟のことだったので構ってはいられなかった。無視して腕を伸ばす。追い縋るように、縋りつくように。 精一杯可能な限り身体を伸ばし、斜めに高く高く手を伸ばし、 「く…!」 指先が軽く手紙の表面に触れた。 もうあと少しと気持ちが急いて、窓枠についた左手に力を込め、強く押して空気と一緒に失う前になんとかそれを掴み取ろうと最後まで足掻く。そうしたところで確かな手ごたえを内に感じ取り、ほっとして肩から力が抜く。すると今度は左手のほうに激痛が走った。顔が歪む――、背後からの微かな悲鳴。それに慌しい足音が重なる。 「ボンゴレ……!」 だがその音の正体を確認するよりも早く、無理な体勢を後先考えず取ったツケがぐらりと綱吉の視界を揺らし、その身をより一層前のめりにさせていた。傾きすぎた重心を地上へと更に招き寄せるよう上体が浮く。慌てて勢いを殺そうと腕に力を込め、すぐに死ぬ気の炎を灯そうとしたが、切り替える思考の途中でその目が手紙へと向いた。 灯せば燃える―――。 一瞬の躊躇いは綱吉の動きを大きく鈍らせた。 「――っ、くっ!」 結果、堪えていた爪先が浮き、足場を失くして頭から窓の外に放り出される形となったが、それでも尚、躊躇いは消えず、判断を……手紙を燃やすことがどうしても綱吉は出来なかった。生身のままで地上に叩きつけられる痛みを想像すると生来のびびり症から僅かに身が竦み、恐怖で固くなったが、それだけだった。 それ以外には何もせず、炎を灯すことも諦めて痛みを受け止めようと半ば以上そうする覚悟を決めていたら、引力とは別の力が急に綱吉の身を強く反対側にと引っ張った。 腕を掴む力が落下から少しでも自分を遠ざけようと試みているのがわかる。だがすんでのところで保たれたのは腕一本という危うい均衡。自分の身はすでに全部窓の外だ。 身を乗り出して、綱吉を落下から救おうとしている相手が苦々しく舌打つのが聞こえた。 「一体……」 「む、骸っ!?」 「一体いつからっ、あなたの趣味は窓から飛び降りることになったんです!」 頭上から憤然とした叱責が落ちてくる。 宙吊り状態でなんとかそれを受け止めて顔を上げたら、怒りも露に、眉根を寄せて嫌そうに男がこちらを見下ろしていた。 苛立っているのが一目瞭然、スペインに行くことになってからずっとこんな調子で、こんなふうな顔ばかり自分は見ているような気がする……。 そんな場合でもないのにふとそんなことを思って。 はっと我に返る。 「ていうか趣味ってなんだよ! おまっ……オレだって別に好きで落ちそうになってるわけじゃ……っ」 「二日も連続でうっかり窓から落ちそうになってる迂闊な人の発言に、今更説得力なんてあるとでも思ってるんですか? 馬鹿だ馬鹿だとは思ってましたけど、本気で馬鹿でしょう、あなた。そういう発言は我が身を振り返ってからして欲しいものですね、まったく…!」 「馬鹿って言うな、お前だって充分馬鹿だろ…っ!」 「何を」 「だって……っっ」 ―――オレのことなんかさっさと諦めたら良かったんだ。 昨日までならそれを言うことが出来た。それを言うのに自分はきっと躊躇いもしなかっただろう。諦めてほしいとさえ思っただろう。けれどもう言えない。そうは思えない。出来なくなった。 なにがあってももうそれは。 「………オレはっ、お前を傷付けてばっかりなのに」 (たった一言言うのにもこんなに迷って、いつも自分のことばっかりで) そして今もまた傷付けている。 こんな自分を助ける為にその身を犠牲にさせて。 「だから離していいんだ、骸!」 綱吉の身を支える男の腕から赤い血が幾筋も流れ出ているのが見える。それは微弱に宿るその熱の幾つかをぽたぽたと綱吉の頬にも滴り落とした。見るからに痛そうで、いや、間違いなくそれは痛いはずで、離してしまえばそれ以上深く傷を負うことはないものだった。しかし 骸はその手を離すそぶりを一向にみせない。 考えてもいないように、 「……何を言うかと思えば………あなたは……本当に馬鹿な人ですね」 決して腕を離さず、窓枠に残り、鋭利に突き出たガラスの破片に己が腕を突き刺しているのも何ら気に留めず、綱吉の手がすっぽ抜けたりしないよう更に力を籠めてくる。 そして場違いにも程があるくらい、呆れた、それでいてやさしい穏やかな声で。 「以前にも言ったでしょう。守護者として僕はそばにいるんじゃありませんと。指輪を理由にされるのだけはまっぴらだと。これは僕の意思で―――僕が君を好きで、好きだから勝手にやっていることなんです。自己責任でやってることにあなたまで責任を感じる必要なんてどこにもありませんよ。気に病む必要もない。それでももし気にするというのなら、一つだけ、その胸に留めておいて下されば結構です」 「な、何だよ」 訊くと、はっきりと男は言った。 「僕より先に死ぬことだけはたとえどんなことがあろうと、それこそ死ぬ気で避けて下さい。でないと抑止するものがなくなった僕は、多分本気でこの世界を壊しますから」 傷付きながら秀麗な笑みを一つ優美に手向けられ、言っている内容とのあまりのギャップに思考が一瞬空白となり、理解すると同時に今度は言葉を失くして、思わず目まで大きく見開いた。 それはとんでもなく物騒で、ひたすらに自分勝手な、男のエゴの塊のような言葉だった。 それを微笑みながらさらりと平気でのたまう。 そこに周囲の迷惑を顧みる余地など一切ない。考える理由を失くすのがそもそもの前提なのだからそれも当然か。 以前ならば確実に顔を青くし、血の気の失せた唇で馬鹿なことを言うなと男を叱り付けてその目を覚まさせようとしたかもしれない。けれど今となってはそれがあまりにもらしくて、素直に男の願いを聞き入れることに自分も自分で何の疑問も浮かばなくて、 「……やっぱり…馬鹿だ、おまえ」 「なんとでも」 好きだから好きになれとは決して言わない男がこちらの反論を鼻で笑って、「だからボンゴレ、僕の手の届かないところで死んだりするのだけは許しませんよ」……置いてゆかれることだけを恐れて、腕の傷にも何ら動じずもう一度強く力を籠める。それに綱吉は詰めていた息を、胸の中に落とした諦めの吐息と一緒にそうっと吐いた。なんだかおかしくなってくる。危機的状況はなんら変わらぬというのに。 (もう……いいか) 口の端に小さな笑みを刻みながら、意識を手のひらへと集中させる。 男に掴まれているほうではなく、もう片方の、一通の手紙を握り締める右手へと。 (……ごめん、母さん。でも) 滑り落ちる謝罪に明るい笑みが重なる。こんな時でも母親の残像はいつものようにくっきりとした明朗な笑顔をそこに覗かせ、綺麗に輝いていた。 自分の記憶の中の母はいつでもこうして笑っている。 たいせつな家族。 ―――行ってらっしゃい、ツー君。 その、やさしい笑みが自分を望む男のものへと変わる。 ―――好きですよ、ボンゴレ。愛してます。 そんな男もまた、自分の大切な家族。 想うと、切ない感情が胸の内側を静かに波立たせた。泣きたい気持ちと笑いたい気持ちが一緒になって、複雑に絡まり合い、どうにも形容のし難い表情を作ろうとする。だが綱吉は笑った。抑え込んでも深くなる気持ち、そのものを呑みこんで。 ここは、笑うべきところだと思って。 「ボンゴレ、何を…?」 「黙ってみてろ」 微笑む自分を見て、訝しげに眉を潜めた男の目の前で、ボッと青白い炎を手の内に灯す。勢い良く燃え盛る炎に薄い紙片はあっという間に形を失くし、灰となって、散り散りに空へと流れ飛んでいった。 |