16





 フ、と。
 水底から引き上げられるようにして意識が急に覚醒した。
「……………ゆめ…」
 乳白色の天井が見えるのと同時に三年前の懐かしい夢が起き抜け早々の胸を満たし、それから微妙に疼く記憶に、どうしてなのか、次第に痛みを増してきた胸に手を当て一先ずわけもわからぬままに考えようとして、
「……?」
 思うように手が動かぬことに綱吉は訝しく眉間に皺を寄せた。
 自らの意思に反して何かが腕の動きを堰き止めている。視線を下ろして原因の解明に努めようとしたら、その理由はあっけなく、すぐに判明した。
 静止させられていた腕と一緒になって呼吸までもが刹那的に止まる。
 一拍後。
 乾いた呼気を咽喉の奥で何度も詰まらせながら吐き出して、停止しかけていた思考を慌ててもう一度稼動させる。
「……むく…ろ?」
 が、困惑は到底隠しきれるものではなかった。小声で問うようにして呟き、それを確認する。だが間違いない。ベッドで横になっている自分のすぐそば、枕元の近くに椅子を置いて、そこにたった今夢に見たばかりの……懐古していたばかりの男が座って、自分の手を握り込み――――
「骸……?」
 眠っていた。
 半信半疑のままもう一度呼びかける。だが反応はない。目蓋は深々と下ろされたままで、男は無防備な眠りの中にあって目を覚ます気配もない。その面には幾分の疲れが窺え、もしかしたら自分と同じように骸もまた昨晩はあまり眠れなかったのかもしれないと安易な想像がゆるりと巡った。そうでなくても道中ずっとピリピリと神経を尖らせていたのだ。反動で気が一気に緩んだとしても別におかしくはない。
 一通りの驚きが過ぎると、もう二度と会えないかもしれないと不安に苛まれていた心がほっと安堵の吐息をつき、俄かに緩むのがわかった。良かった。全ては自分の杞憂であったのだ。
(あんなこと言うから…もう二度と戻ってこないのかと思った)
 生きていて良かったと心底思った、三年前のあの日以上の安堵が胸に込み上げてくる。生死における永遠の別離も、情における心の遠離も、その人間が自分から離れてしまうといった意味ではどちらも同じことだろうに。
 なのに、今日考えた別れが一番に自分の心には堪えたような気がした。
 どうしてだろう。
(…………)
 確かに、もう必要とされなくなって、遠く離れてしまうことは悲しい。
 それはとても寂しいことだ。
(だって十年、だ)
 十年。
 たった二文字で示されてしまうその歳月は、けれど口で言うよりも確実に重く、振り返ればいつかあっという間だったと思えるような短さであっても毎日の大切な積み重ねによって出来た、ひどく長いそんな時間だった。
 その十年、共に在った。
 それは自分にとってとても大切で、かけがいのないもので、そんな時間を共有し、もう生活の一部にすらなっている相手がそこからふいに離れてしまうのだ。
 それが寂しくないわけがない。
(でも、じゃあ……)
 どうして死別ではなく、後者の別れのほうが自分はより苦しく思うのだろうか。後者の場合だと相手は生きている。死んでもう二度と会えない、永遠の果てにその存在ごと失ってしまうような、そんな辛い痛みを有するものではないはずだ。
 たとえもう相手が自分に関心を寄せなくなったとしても……。
(それは……ただ、気持ちがなくなるだけで……)
 相手は生きて、この世界のどこかで存在している―――それならば死で別たれる未来よりもずっといい。死んでいなくなってしまうよりも自分はそのほうが絶対いいと思う。
(……いい、はず)
 なのに―――その別れを想うと、身を引き裂かれるような激しい痛みが綱吉の胸に襲い掛かってくる。それは一体どうして、どういう理屈でだろう。
 考えれば考えるほどズキズキと胸が痛みを押し広げてゆく。痛くて痛くて、どうしてこんなにも痛むのか、その別れを想像するだけで何故こんなにも心が震えてしまうのか。怖くて堪らない、綱吉は、そんな自分を抑えることがどうしてだかうまく出来なかった。
 骸が―――離れてしまう?
(今は…ここにいても)
 いつか、それでも、離れてしまうかもしれない。その心を他の誰かにと移して、どこか遠くへやって、
 自分のことを諦めて、骸は行ってしまうかもしれない。
「………っ」
 眠る骸を見て、単なる想像に胸が締め付けられるようにギリリと痛んだ。
 その想像が怖い。痛くて痛くて堪らない。
 まるで心臓を直に掴まれているかのように痛みに顔が苦痛に歪む。
 倒れる前よりもずっと荒く、早くなってゆく心音を聴きながら、相手が未だ目覚めぬことを確認し、様子を窺いながら綱吉は慎重にその身を起こした。そこでやっと自分の今いる場所が最初に与えられていた部屋でないことに気が回った。備えつけの調度品が違う。隣接した守護者二人の部屋でもない。
 もしかして倒れたあと一番近くの適当な場所に預けられたのかもしれない。……けれどなんとなくそれはそうではなくて、やはりそれは、この目の前の男が勝手にそうしたことのような気がした。
 ただの直感だ。
 しかし起きて昨晩の記憶がすぐに思い出される場所を敢えて避けて運ばれたのだとしたら。
「お前がいたら……全然、意味ないだろそれ」
 親身に、労わるように重ねられた手を見て、そのぬくもりにこれが自分の都合の良い夢や幻ではないことを改めて実感する。
 泣きたいのか笑いたいのか、もうよくわからない。わからなくなった。
 そんな自分をおかしく思った。今朝からずっとその姿を見せなかった男が目覚めるとすぐそばにいて、それにほっとしたのに、安堵したことを棚に上げて吐いた台詞も、やはり冷静に考えてみればどこかおかしいものだった。
 …自分はおかしいのだろうか。
 離れることを悲しく思う。
 寂しいと思う。
 それは大切な家族だから。
 家族――だからだ。
(だから……それは、当然で…―――)
 心の内を探るようにそれを思う。
 十年という長い年月のなかで、ずっと見てきた男の面差しを斜めに捉え、目蓋を下ろして眠る……眠っていてさえもなんら精彩を欠くことなくこちらの目を引き惹ける、その整った相貌に細波のような感情が自分の心に広がり、安定を欠いた心が緩やかに波打つのを感じる。見れば混じり気のない漆黒の髪が薄い影を落として男の姿を暗く灯していた。
 まだ昼間のようであるというのに、まるでそこだけ、切り取られたかのような夜が横たわっているようだった。
 カーテンの隙間から零れ落ちる光は男の足元近くまで来て、床を這う薄闇をやわらかく照らし出しているのに、そこに見えない壁でもあるかのように男の身近くにだけは近寄ろうとしない。それは単なるただの偶然だったのだろう。たまたま男の身が陽光を避け、日陰に入る位置にあっただけのこと。
 そう思うのは簡単で、そう思う以上の意味などなかった。
 けれど胸が痛んだ。
 光ではなく、闇ばかりに身を浸して在るその光景がひどく切なく、綱吉の胸をずきんと締め付けた。
(どうしてお前……オレなんかが好きなんだ)
 報われるかどうかもわからぬ想いを十年も諦めることなく抱え続けられるほど、自分の何が良かったのか。もっと早くに見切りをつけ、諦めてくれていたら……そうしたらきっとこんなふうに自分の胸はこれほど切なく痛まなかったはずだ。
 最初から最後まで、家族のままであってくれていたのなら。
 空いている左手で胸の辺りを一度強く掴み、波間のようにたゆたう眼下のシーツへ静かに置いて、ベッドが軋まぬよう、そろりと顔を斜めに持ち上げる。
「―――――」
 目を向ければ、出会った頃から密かに冷たそうだと思っていた男の、薄い、閉じた唇があった。
 視界にヴェールのような膜が落ちる。淡い影が自分にもかかったのだとゆっくりと瞳を閉じていきながらそれを感覚だけで追ってゆく。
 浅く繰り返される呼吸に、現実を示す手のひらの熱。
 冷たそうだと思っていた男の唇は触れると意外にもあたたかかった。だが本当は知っている。それが意外でもなんでもないことを。
 手のひらと等しくその唇はいつでもあるべき熱をちゃんと宿していて、あたたかく優しい言葉を、愛情という名のぬくもりを自分に与え続けてくれたことを――――
 綱吉はもうずっと、それを知っていた。
 知っていたのだ。
 頬を伝って涙が滑り落ち、ベッドの端、ついた手の甲をぽたりとあたたかく濡らした。
 それをきっかけに、綱吉ははっと我に返った。瞳を見開き、条件反射のように口許を手で覆うと、雪崩れ込んでくる羞恥の数々にカッと顔を赤くし、それから徐々に血の気が引いて、青ざめてゆくのがわかった。
(今……!)
 何をした。
 沈思し、遮断していた世界が驚きに息を呑むと同時に急に勢いを得たようにゴウッと今まであった静寂を打ち破り、自分のもとへ性急に舞い戻ってくるのを感じた。目の前が混乱と衝撃によってチカチカと白光に瞬き、激しく弾けて、残滓となった尾を引きながら脳内を走り抜けていく。それはまるで流星のようでもあった。
 そしてその光が流れゆく途中で。


『―――行ってらっしゃい、ツー君』


 ……やわらかく澄んだ、世界にただ一つだけの声の宿主、奈々の声が懐かしく頭の中で響いた。
(母さ…っ)
 理解すると今度は酷い耳鳴りが抗う間もなく強引に綱吉の聴覚を奪っていく。大きく見開いた瞳に、目の前に座る男の姿がはっきりと映る。それに、背中から這い上がって来る正体不明の感情を覚えて思わず咄嗟に逃げるようにしてその身を引いた。
 ……いや、実際自分は逃げたのだ。
 ギシリとベッドのスプリングがたわむ。波打つシーツからは布と布の擦れる細い音がして、頭の中の乱暴な砂嵐と一緒に雑多な合唱を奏でていく。
 けれどそこに、その懐かしい声はなかった。
 瞬いた光も今はうっすらとした光の筋を僅かに残し、やがて声と同じに最後には儚く消えた。消えなかったのは自分が起こした行為とそれを呑みこんで横たわる現実だけだった。
動揺が波紋を描き、徐々に自分の中で大きく広がっていく。
(どうして、キスなんか……!)
 覆った手のひらの中で押さえた唇が困惑に震え、がちがちと奥歯を頼りなく鳴らした。
 起こすかもしれないと気を留める余裕すら失くして、慌てて綱吉は男の手から自らの手を引き抜いた。するりと手の甲を滑って離れるぬくもりが妙にリアルで、指先を伝った肌の感触に身体の中心がどくんと鈍く音を立てるのを聞く。
 そのまま転ぶようにしてベッドから飛び出た。
 するとぬくもりの消失に反応してか、今まで微動だにしなかった男の睫毛が目覚めのときを示すように微かに震えるのが見えた。
 そして――、
「っ!」
 それを認めた次の瞬間には、もうすでに綱吉は身を翻し、部屋から外へと飛び出し、走り出していた。
 後を振り返るような余裕などどこにもなかった。
 振り返れば三年も前に置いてきた問題に全身を絡め取られるような気がして。
 けれど本当は、三年前のそれ(キス)を許したときから、もうとっくに自分はそこから動けずにいたのだ。
 認めなければならないとどこからか自分を追いかけ、問う声がする。
 それを振り切るよう綱吉は無我夢中でその追い縋る声から逃げた。
 消えた母親の声の跡を追うように。
 まだ、そうしなければならないとでもいうように。
 全力でその場から逃げ、与えられた部屋へと息を乱して辿り着くも、その頃には、目を背け続けていた自分自身の在り様をまざまざと思い知らされていた。
 怖かったのは生死における永遠の別離ではなく、情における心の遠離―――
 気持ちが離れ、嫌われてしまうことがなにより自分は怖かった。
 死別よりもずっと。

 もうずっと、それが自分は怖かったのだ――。



***



 荒々しく室内に響く物音で目が覚めた。
 一体いつ頃から自分は意識を手離していたのか。珍しく深い眠りにあって、起きて早々、自らのあまりの無防備さに骸は驚きを禁じえず、軽くその眼を瞬かせた。しかしそれ以上に驚いたことがあって、すぐにそんなことはどうでもよいと思考の果てへとあっけなく放り込まれるに到った。起き抜けであるという事実もついでに放って、眦を微かに吊り上げ厳しい眼差しを作る。
 記憶が途切れる前まで確かにそこにいた、覚醒を見守っていた人物がベッドから綺麗さっぱり消え失せている。
 余韻を響かせる音に導かれ、スッと首を回せば、この部屋の隅に設けられた大きな扉が今しがた誰かが出ていったことを告げるようにギィ…と一度だけ掠れた音を立てて鳴った。
 視線を再度もぬけの空となったベッドへと移す。
 そこに置いていた手はまだあたたかかった。本当につい今さっきまで求める人物はそばにいたのだと教えるように。
(つまり……近くにいたくないと……)
 昨晩の、自ら引き起こしたあれこれが誇張されることなく正確に脳裏を巡り、深く考えるまでもなく十中八九そうだろうと緩やかに落ちてゆく気持ちと共にそんな自らの甘さを口の端で嘲笑いかけ、
「……?」
 ふと。
 自身の薄い唇に――何故そんなことを自分がするのかもわからないまま――なんとなく奇妙な違和感を覚えてそっと指を添わせた。俯きがちにそのまましばし静止し、
「ボンゴレ……?」
 何かはわからなかったが、その何かわからぬ感覚に急かされるようにして顔を上げ、残響すら消え失せた扉を見て、ふっと立ち上がる。
 どうしてだか、彼が泣いているような気がした。








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