15 「……で」 幾分血の気は戻ってきたとはいえ、相変わらず青白い顔をしているであろう自分の目の前で愉しげに男が笑う。クフフと男特有の奇妙な笑い声を遠慮なく響かせながら。 そんな特徴的な笑い声の主を、まさか聞き間違えるわけも見間違えるわけもない。乱れる呼気に冷静になろうと困惑しつつも、 「思わず見合いを放り出して帰ってきたんですか?」 任務で怪我を負ったらしいその当の本人である骸は特にどうということもなく、戻ってきたばかりの自分の執務室で任務終了の報告書まで書いて笑っていた。 メモにあった通り、確かに男は怪我は負っていた。……負ってはいたが、それは情報にあったような重傷と呼べるような大きなものではなかった。ごく軽度の、一季節越したら傷跡も消える程度の浅いものであるらしい。利き腕ではないので生活にも特にそれほど支障はなく、あっても素直にそれを認めるような奴ではないから―――きっと本当にそれは平気といえるような傷で。 だがそれでも。 「だっ……だって重傷って!」 報告ではそうなっていた。間違いない。間違いないのだとうろたえながら思わず叫ぶと、やれやれといった具合で肩を竦められた。真新しく巻かれた包帯がいやに眼に白く映る。眼球に染み込み、くらくらとまだ動揺収まらぬ眩暈めいたものが目の前を走っていった。 それ、と骸が苦笑いしながら告げる。 「完璧、誤報ですね。確かに少し体調が優れなかったのは認めます。まあ、癪ですがね。しかし珍しく怪我などしたものだから驚いた部下の誰かが慌てすぎて、そのままついうっかり大袈裟な伝達ミスでもしたんじゃないですか? この程度の傷で重傷とは、また随分とそそっかしい人もいたものですけど。寧ろ今はあなたのほうが随分と酷い顔色をしてますよ。……大丈夫ですか?」 心配そうに瞳を細められ、下から覗き込まれて、立場がすっかり逆転する。それでもまだ頭がうまく付いてこなかった。重傷というそれが誤報であるのならもう自分はほっとして良いことだろうに。手のひらは内に食い込んだまま。 安堵、出来ていない? (……違う。そうじゃない。ほっとはしてる。怪我が浅くて、安心もしてる……だけどそんなんじゃ…なくて) そんなことに自分は眩暈を覚えているわけではなく、もっと、根本的な部分で自分は何か間違いを犯していて、それに気付かなければいけないような気がするのだ。 俯いて黙っていると傷のない手で前髪を横に払われた。 「…こんなもの、本当に大したことではありませんよ。すぐに治ります」 「―――――」 安心させる為の言葉に、けれど視線は上げられなかった。どくんと胸が脈打つ。それに咽喉が勝手に開き、 「た――大したことないなんて簡単に言うな! そんなのわかんないだろ!? もし運が悪かったら…ほんとに……お前……お前……! な…んで、もっと……っ」 それ以上言葉にならなかった。 突然訪れた深い自責の念に、言葉にすること自体が難しくなる。伝えたい言葉はただ一言―――だがそれを伝えるような資格が自分にとてもあるとは思えなかった。 怒鳴って詰って、そんな風にそれを軽く扱うな! と、きつく叱りつけてやりたかったが、それが出来るのはそういった自覚をきちんと持っている者の役目である。 (オレには……できない。そんなの、だってオレは―――) ここしばらく考えてもいなかった。こんな事態が起こりうる可能性や、誰であってもそれはゼロではなく必ず存在していることなのだと……意識をそちらへ向ける責任を怠っていた。 そこに自らの安心感だけを優先させて置いていた。 危機感を持てとそんな自分が言えるわけがない。 「……ボンゴレ?」 ようやく綱吉の動揺の深さに気付いたか、さっきから微弱に震えていた指と食い込んだ右手のひらに、男がふいに目を向ける気配があった。慌てて引こうとしたが遅かった。 その前に掬い上げるようにして手を取られる。柔らかい、ひとの手に宿る熱がそのまま直に伝わってくる。 あたたかい。生きているのだと目の前にちゃんといるにも関わらず、触れられて初めてそれを実感し、 「…大丈夫ですよ」 囁かれたそれに、ほろ、と予期せず涙が零れた。自分でも吃驚する。だが骸は何度も何度も、大丈夫だと飽きることなくそれを呟き、やさしく囁くのを止めない。抱いた自分の不安が少しでも和らぐよう、或いはなくすように。 自分はここにいる。 ちゃんと、生きていると静かに告げてくる。 それがわかって、おそるおそる、躊躇いがちになんとか顔を上げた。すると導かれた視線の先で辛抱強くそれを待っていた骸がどこか嬉しそうに柔らかく微笑んでいるのが見えた。 「まったく……心配症ですね」 白い吐息が男の唇から細く、するりと紫煙のように零れ落ち、一瞬、目が奪われる。 ずきんと何故かふいに胸の奥が別に痛んだ気がした。 「……骸」 「はい。何ですか」 「……なんでも、ない」 「そうですか」 自分でも不思議に思うような意味不明な問答をして、応える声の優しさに涙を滲ます。そのままとめどなく流れ続けてひどく困った。これではまるで我慢の利かぬ幼い子供のようだ。 何がどうしてここまで自分の心を情緒不安定にさせているのか―――不安要素は取り払われたばかりだというのに、ずきずきと胸の一部が痛んで、瞳からはただただ涙が零れた。眼球を覆う雫が頬を伝いきる前に男によってやさしく拭われる。そうやって触れてくる熱が、現在がきちんと自分の目の前にあることを証明してくれ、胸は痛むが、安堵できた。 骸がここに生きて、いてくれること。 忠誠を誓うような仕草でそっと唇を寄せられ、掠めるような口付けを何度か瞳に落とされ、視界が男の顔で一杯になる。普段ならば文句の一つでも言って遠ざけていただろう。 だが今日に限ってはそれを黙って受け止めた。 それにくすりと優しい声で、 「馬鹿ですね、きみ。明日からまた増長しますよ?」 「…今日だけだ」 胸を軋ませる正体不明の痛みを、それだけ言ってなんとか噛み砕き、奥へと嚥下した。すると小さく笑って「残念です」と男が続けて呟いた。それにまた何故か急にじわりと涙が滲む。 濡れた眦へと、そして当然のように再び唇が寄せられ、口付けられたが、もう何も言わずにそっと瞳を閉じた。 ……生きていてくれて良かった。 本当に、良かった。 どさくさに紛れて軽く唇まで掠めていった熱にも、だからそのとき綱吉は気づかぬふりをして、せめてもの償いだと許すことにした。 ―――許すのは自責の念に駆られてのこと。 ただそれだけのことなのだと、言い訳めいたそれを誤報を知ったときと同じく頭の中で何度も何度もリフレインさせて。 |