13





 窓辺近くの枝が最近ますますこちらへと伸びたような気がする。
 差し伸べる腕のようなそれを眺めながら、自分でもそう思うのだからきっと家の者も気付いていることだろうと思う。近々剪定が入って、この枝はバッサリと切り取られてしまうに違いない―――またしばらく見ることの叶わなくなる光景へと一抹の寂しさを覚えてライは静かにその表情を曇らせた。
 瞳を伏せて、伸びた枝に寂寥とした感情を寄せる。季節が流れればすぐにまた伸びてくる。わかっていてもやるせない気持ちが生まれるのを止めることはできなかった。
 この伸びた枝を見るのが好きだった。それはまるで自分を外へと誘う一本の腕のようで。
 窓ガラスの端に手を置き、幼い子供がよくするような他愛ない悪戯書きを平面に走らせる。
 だが滑らせた指の痕跡は綺麗に掃除されたガラスの表面には何ら残らず、眼に映るものは透明な窓枠の向こうにある、いつもと変わらぬ、いつもと同じ外の景色だけであった。やはり伸びた枝だけが、切り取られた視界のなか、自分の心を和ませる。
 無言で窓を放ち、窓枠の下端へと手を置いた。身を乗り出すと開けた世界から陽気さを含んだ風が顔の表面を撫でてゆき、父親が付けろと指示してきた黒蝶真珠の簪が、髪が揺れるのと同時に耳元からするりと急に抜け落ちた。
 花を模った銀の台座の上で大粒のブルーパールがキラキラと目に眩しい煌きを放ちながら宙を垂直に滑走していく。大した思い入れもないただの髪飾りであったが、光を撒き散らしながら落ちてゆく光景に思わず手が伸びた。
 あとのことなど何も考えずに窓枠にぴったりと身を寄せ、全身を使って落ちていく光の筋を辿る。前のめりにがくんっと重心が傾いたが気にしなかった。追い縋る。―――まるでその身を投げ出さんばかりの勢いで。
 踵が浮き、片方の爪先が地から離れる。それでもライは躊躇わなかった。
 ―――お父様から頂いた簪が落ちそうになって。
 言い訳はすでにある。
 だからライに躊躇う必要など何もなかった。けれどその手が簪を掴むことは結局なかった。
 指先が簪へと触れたと思った次の瞬間に横合いから突然強い力が加わり、横なぶりにブレた視界の中で、半身を衝撃という名の強かな痺れが襲い、一切の容赦なく床に打ち付けられた。
「――――つっ!」
 乱暴に放り投げられたといっても過言ではないそれは、まるで重たい荷物をどうということもなく中に放り込むような、実に粗野なものだった。
 自らの指先が何も掴まずに宙を滑って終わった事実に顔を歪め、実際自分はそんなものなのだろうと漠然と思いながら、
「……何の用、ウェン」
 髪留めが外れ、束ねていた髪が解けてそのひとすくいが前髪と一緒になって自らの視界を遮るその隙間から、ライは自身を荷物か何かのように扱ってそこに立つ男の姿を冷静に睨んだ。
 半身はまだ痺れている。
 ウェンは悠然と室内に立っていた。自分と同じように前髪の一部がほんの少しだけ乱れていたものの、首の後ろで束ねた髪の方までは一切の乱れていなかった。縛られたままそこにある。いつものように。
「用件(それ)を告げる必要はありますか? 言わねばならぬほどの勝手な行動を起こしている自覚がおありなら、どうかお控え下さい」
「…何のことかわからないわ。それにわたしが何をしようとわたしの勝手でしょう。あなたの意見を聞く必要などどこにもないわ」
「確かに必要は御座いません。そして私には貴女のお考えもわかりません。そんなことをしても何も変わることなどないでしょう。……使用人らには口止めを致しましたが、クルゼア様のお耳に入ればたとえ娘の貴女であっても……」
「―――あなたに指図される謂れはない、と言っているのです。あると言うのなら今ここではっきりと言えばよいでしょう」
 怒りを滲ませ、言い放ちながらライは少しだけ笑いたくなった。咽喉が震える。気付けば思うよりも以前にもう笑っていた。だからわかっている。
 何年も繰り返したこの問答。
 何をどう言おうと男から返る言葉はいつでも同じ。
 絶望を促す、暗い感情ばかりをばら撒いて、それを自分に容赦なく与え続ける。男は自らの任に従ってただそうするだけ。
 ……変わらない日々。
 そうやって諦めを積み重ねるだけ積み重ねて、もう何年になった?
「それに、ウェン」
 それ自体は別にいい。自分が望むのは変化ではない。――そんな、ものではなく。
 立つことすらままならぬ状態でライは眼差しを強くし、
「わたしは現在を変えたいわけではありません」
「ライお嬢様」
 顔色一つ変えずそれを口にする男を下から睨みつける。
 決意に対する言葉は否定でも肯定でもなかった。
 ただ「名」だけを呼ばれた。
 これもまたいつもの予定調和。
 変わり映えのない。
 そうやって……自分がたった一つのものを見い出し、望もうとするたびに、――否、そうやって望む前に、男はそれを自分の手の届かない、一番遠いところへと当然のように押しやって抱いた望みの芽をすべからく断ち切る。
 変わらない日々を、永遠に変えぬ為に男はただそこにいるのだ。
 変化を望まないという一点についてだけは自分も男に賛同してもよかったかもしれない。何故なら自分は前述通りこの世界を変えたいわけではない。
 それは、そうではなくて。
「……わたしは終わらせたいの。あなたさえいなかったらもうとっくに終わっていたこの現在を」
 高ぶる感情につい抑えきれず、恨みを抱いた暗い感情が声に宿る。しかし、
「だからこそ、私はクルゼア様の側近なのです、お嬢様」
 返る、即決された冷静な一言に気持ちは一気に底へと落ちた。
 いつもの絶望が胸を覆ってゆく。何も変わらない。何も、終わらない。まだ――終われない。
 無言で手を差し伸べられ、立ち上がるよう眼で告げられる。一度深く目蓋を下ろし、


「――――L・I・E (ライ) 」


 呟いた己の名にライは口の端で小さく笑った。
「…わたしなんて本当はどこにもないのに……本当によく出来た皮肉だわ」
「…………」
「…出ていって」
口の中で呟くように言って、俯いた視界の上でしばらく黙って立っていた男が靴先を翻し部屋より退出していく。何も言葉はなかった。最後に律儀に一礼だけして消える。そうして豪奢な調度品に囲まれた、虚しさばかりが積もったその部屋にただ一人ライだけが残された。
忸怩たる思いで床についた手のひらを山なりに握り締める。
 残されたのは自分一人だけ。
 鳥籠のなかの鳥。
絶望だけがこの胸を浸す。
「………、それでもわたしは――」
一縷の望みであるそれはまだこの邸内に在る。籠のなかの鳥を放つ為の術はまだ決してなくなってしまったわけではない。まだチャンスはある。折れた心を繋ぎ合わせるようにしてそれを思い、再びライは立ち上がる。リミットは夕方までという厳しい現実を背負い、追われるようにして。それまでに必ず――鳥を放つのだ。
 ふらりと扉の近くに寄り、開けて外に出て行こうとしたとき、ふいに扉がライの未来を逆に導き示すようにして突然開いた。
「ライ―――」
 名を、呼ばれる。
 はっと顔を上げるとそこに自分にとっての希望を予期せず与えにきた……いや、予感はすでに今朝からあったか――とにかく自分にとっての幸いとなるべき人物が立っていた。手渡される重い物体についての説明を受けながら、だからライは無言で首を縦に振った。
 はい、と従順にそれに頷き、希望の皮を一枚剥けばすぐさま露呈する、目の前の醜悪な絶望にも、だからなんとか耐えることが出来た。
 ――――これで、きっと全てが終わる。
 終わらせることが出来る。


(……もうすぐ)


 鳥は、放たれる。
 だから嘘を冠した「それ」にもライは微笑んで応えることが出来た。







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