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 そもそも気乗りしていなかったことはとうに看破されていたらしい。
「そうですか……やはり」
「……すみません、本当に」
 母国の礼儀に則って頭を下げ、見合いの件を断ると、鷹揚に見えてもやはりそこは裏社会を生きる男―――クルゼアは綱吉の謝罪に慌てて首を振りながら、
「いえいえそんな! 仕方がありません。こればかりは金でなんとかなるような問題ではないのですから―――ボンゴレ十代目にそこまでして頂いてはこちらのほうが逆に恐縮してしまいます」
 と、別格と謳われるボンゴレの古い歴史や勢力図を重んじ、ごく普通に残念がられた。申し訳ありませんともう一度深くそれに謝る。
 いくら自分の与り知らぬところで進んだ話とはいえ、クルゼアもやはりそれなりにこの件には期待もしていただろう。何をどうあの家庭教師が彼に言ったかは知らぬが、それを思うと元来頼まれると嫌とは言えない性格の、気弱な部分がズキズキと罪悪感を覚えて痛んだ。
 とはいえ力関係だけをみたら確かにクルゼア・ファミリーはボンゴレの三分の一にも満たぬ人員で構成されるマフィア組織。
 こちらにそれを選んでも選ばなくてもいい権利が最初からあったことは火を見るよりも明らかで、綱吉がライに会う以前からすでに選ばぬほうを決めていたことと同じように、それはクルゼアのほうもおそらく覚悟の上であっただろう。
(気にしすぎると逆に相手に失礼か)
 思ったところで「この話はもうこれまでにして朝食にしましょう。―――用意を、」と、クルゼアが指示を与えた途端、座り込んでいた綱吉の周りをまるで小波のように人の手が滑らかに前後し、見る間にテーブルの上が色鮮やかに彩られていった。
「見合いの件は別にしても、ボンゴレ、スペインにはどうぞまたいらしてください。リボーンさんにもオススメした、素晴らしいスペイン料理の店があるのですよ。もうしばらくご滞在願えるのなら若きボンゴレにもご案内したいと思っているのですが…」
「お心遣いありがとうございます。ですが、夕刻には迎えの旅客機が到着する予定ですので、また機会のあるときに是非よろしくお願いします」
 沈んだ空気を払拭させるかのようなクルゼアの陽気さに、確かにこれがただの観光であったのならもっと気楽にスペインにこれたのかな……と。思ってすぐに無理だと断じられるクルゼアの社交辞令に、綱吉は愛想笑いなそれを出来る限り柔らかく浮かべてみせながら、初めてクルゼアへと微かな不審を覚えた。
 つい今さっきまでは全面的に家庭教師への不満でいっぱいだったが、考えてみれば目の前で好々爺と笑うクルゼアにもその責任の一端、自分の不満は適用される……ことに気が付いたのだ。
 そこに互いの合意があったのはこの際さておき、彼がリボーンにその話を持ち込まなければ――或いは乗らなければ?――元々はただの観光であったはずの家庭教師の旅は、そのまま「ただの観光」で終わるはずだったのだ。打算があったという点では、多分、どちらも似たようなものなのかもしれない。
 そうして当事者だけを置いてきぼりに、判然とせぬままに事態は終わりを告げた。
(掻き乱すだけ掻き乱された気分だ…)
 やはり朝食にも顔を見せる気配のない骸のことを思い出して、綱吉の笑みがつい翳りそうになる。けれどすんでのところで身に染み付いた愛想笑いを精一杯その頬に張り付けた。
 あれこれ考えるのはとりあえず帰りの旅客機の中でいい。
(そのときにはさすがに骸も姿を現してるだろうし)
 でなければそれこそほんとの置いてきぼりだ。まさかそんな失態をあの骸が犯すとは到底思えないが……と、ぼんやり思いながら目の前に置かれた、濃厚な甘さを漂わせているチョコラテのカップの中へと揚げたてのチュロスをこうやって食べるのだと教えられた通りに斜めに差し入れ、
「―――?」
 ぐ、と。
 思いがけず固い感触を捉えたチュロスの先と、微弱に跳ね返ってきた正体不明の弾力に、綱吉は不思議に思いつつ視線を下へと落とした。カップの中を見る。
 スペインの朝食では、主にボージョと呼ばれる甘パン類と一緒にコーヒーやカフェオレを飲むのが一般的であるのらしいだが、こんなふうにあたたかいチョコラテに渦巻状のチュロスや太い棒状のポラス――小麦粉を油で塩揚げした、日本でいうところのドーナツめいたものを浸して食べることもあるのだという。正直、朝からこれほど甘く、胸にくる濃いものはあまり綱吉の得意とするところではなかったのだが、
「っ!」
 郷に入っては郷に従え。
 素直にそれに順じていた綱吉は、次の瞬間、大きく目を見開いて油の浮いたチュロスをその指先からびくりと取り落とした。
 あっと思ったが防ぐ間もない。
 チュロスに染みたチョコラテが細かく宙を飛び散り、白く、清潔なテーブルクロスに不恰好な茶色の染みを幾つも作る。そうして一度はカップに収まったものの、落とした勢いを借りてそのまま場外へと出たチュロスは慣性に従ってテーブルの上を無造作にころころと転がってゆき、
「…………、」
「どうしました? ボンゴレ」
 自らに集中する幾つもの視線を感じ、怪訝と問うクルゼアの声に「……いえ」と震える声で一度断ってから、
「すみません。あの、こういった朝食は初めてだったもので……つい手が、滑―――」
 気付かれる前になんとか適当に場を誤魔化してしまわなければ。何でもないふりを装わなくては、と、そんなことばかりを焦る思考に詰め込み、動揺を抑えようと人知れず試みていた綱吉だったのだが。
 結局、最後までその自らの出した言い訳に付き合うことが綱吉には出来なかった。
 複数の視線に晒された自身のたった一つの視線の下で―――乳白色の湯気を緩やかにあげながら、どろどろに溶けたチョコラテの中央部分が不自然にぷかりと盛り上がっているのを見る。
 何かが、あった。
 本来そこにあるべきものではないようなものが。
 見えて、
「――――ぐっ」
 出来うる限りの我慢をしていたが無理だった。
 鼻腔に纏わり付く甘い香りに胸焼けがする。べったりと重たいチョコレートの香りはそこに悪意があるにせよ、ないにせよ、そこにもう一つの存在を異質に浮かび上がらせて、どこまでも茶色い物体を無情にも眼下に映し出していた。
 泥沼のようなカップの中でその匂いの一切を放つことなく、溶けたチョコレートによって尾まで丁寧にコーティングされ、ぴくりとも動かずにただただ浮かんでいるラットの姿を。
 生まれたてかというようなその小さな身を、無残にも、甘くどろりと密に濡らしながら。
ラットがカップの中で死んでいた。
 チュロスによってあばかれたその生理的な嫌悪をもよおす光景に、眩暈が本気で綱吉の目の前を横切っていった。
(な、んで)
 意識が激しく掻き乱される。平生であればまだなんとか持ち堪えることができたかもしれない。だが魅入られたかのようにその光景から視線を外せず、じわりと足元から這い上がろうとする悪意という名のそれを綱吉はそのとき払い切ることが出来なかった。
「……ツナ?」
 胃の腑の持ち上がる切迫した感覚に、自分の意思とはまったく別のところで、呼吸器官が大きく乱れた。熱い塊を抑えこむようにして咄嗟に片手で胸元を握り締め、きつく掴む。しかしズキズキとこの絶妙すぎるタイミングで再び頭痛までもが蘇ってき、
(最……悪)
 眼下にある、小さなラットの死骸が二重三重に、まるでエコーがかった声のようにダブって視界に映り込み、人間の死を嫌というほど見てきて、時にその身を傷つける間接的な命令を下したりもしながら―――この程度で揺らぐ、そんな自分をひどく情けなく思いつつ、「ごめ……ん、山本……あと」適当に、できたらフォローしておいて。
 意識が飛び散る前にそれだけを息も絶え絶えになんとかギリギリのラインで捩じ込んで伝える。わかった、と耳元ですぐに返事が囁かれるのに、ネジの緩んだ思考のどこかでこういった場面における友の有能さにいたく感謝した。
 出会って十年、自分はいつだってこんなふうに頼もしい、幾つもの手に支えられながら日々を過ごしてきた。そのことを誇りに思うし、彼らなくしては自分という人間はここにはいなかっただろうとも心底思う。
 だから。
 ―――いや、それなのに。
 ぎゅっと拳を握り締め、吸い込まれるようにして落ちてゆく意識の狭間で、
(なのに、どうして)
 今、この瞬間に、いて然るべきもう一人の連れはいないのだろう―――と。
そんな場合でないのは充分にわかっていたが……いて当然といった態度でいつも自分の近くに泰然と構え、不敵に笑って控えている男がいないことのほうが何故だかひどく気になった。確かに始終自分のそばにいるわけではない。自分の頼んだ任務で他に出払っているときもある。そんなときは呼んでもすぐに来れるわけもなく、
 ……けれど今は。
 今は、そのどこかに。
(気配だってあるのに……なんで)
 どうして、姿を現さない?
 最後に見た、自らを傷付けて笑う、それなのに相手ことを思いやる優しさばかりを詰め込んだ哀しげなオッドアイが脳裏にちらつき、頭痛などよりももっとずっとひどい切ない痛みが胸に広がってゆく。どうしてこんなことになっているのだろうと胡乱な頭で再度自問する。
 ずきずきと果てのない痛みにそんな余裕はまるでなかったのに、それでもそうやって考えることを綱吉はどうしても止められなかった。
(……どうして)
 淡い燐光を放って。
 薄闇の中で、ひっそりと声もなく佇む何か…人影が、そんなふうに不思議に思う自分こそをおかしく思うように首を傾げる。何故わからないの、とでも逆に問いかけるように。ぎくりと心を震わせたのはほんの束の間のことだった。――そうだ、本当はもうとっくにわかっている。
何を複雑に考えることがあるか。
 かつて言った男の言葉を思い出せ。
 守護者という肩書きでそばにいるのではなく、六道骸という個人としてそこにいるのだと……それを覚えていろと言われた。
 ならばいない理由など他に考える余地もない。
 答えはシンプル過ぎるほどにシンプルだ。
(骸、お前……)
 守護者としての制約に何ら囚われぬ身であるのなら、自身の拘る理由さえなくなってしまえば男がそこに留まる必要など何もありはしない。その理由がなくなるのだからそれは当然だ。つまり自分のそばを離れるのは実にそんなふうに、気持ちのたった一つが欠けてしまえばとても脆く揺らぐ、簡単なことで、
(もう……いいってこと…か?)
 なんでオレなの。
 まだそんなことを言ってるんですか。いい加減何度も言っていますが、君が君だから、ただそれだけのことですよ。わかりませんか?
 ―――わからない。と、応えた、これはその曖昧なままの答えを己の安堵の為に保ち続けた結果、自分とは違う骸がついにその答えを出してしまったということか。
 六道骸は沢田綱吉の守護者ではないから。
 そばにいる理由を諦めてしまえばもうどこへ行こうとそれは男の勝手で。気長にいきますと言ったことも、望むままに力を貸しましょうと言ったことも、別にそれ自体は何の保証もないただの口約束で、確約された未来を織るものではなかったというだけのこと。
 ただ、一方的に綱吉がそう思っていただけのことだ。
 骸はどこにも行かない。
 骸は、自分のそばにずっといてくれるのだと。
 とても自分勝手に。
 傲慢にも程がある、たった一言の謝罪とともに自分が勝手にそう思って、思い込んでいただけ。たったそれだけのこと。簡単なことだ。
(だったら……もう、お前は)
 滑り落ちる意識に、一つの理解が遅ればせながらようやく追いついてくる―――ならば報われぬ想いに決着をつけようとしている今、そんな骸を引き止めるだけのものを自分がまるで持ち合わせていないという、それこそ拍子抜けするくらい呆気のない、しかし改めて考えるまでもない、その理解が。
 ほんの数十分前までこれからも何も変わらないのだと思っていた自分があまりに愚かで、笑いが止まらなくなるくらい滑稽だった。本当に間抜けすぎる。
 だから重さに耐えかねるように下ろした目蓋の下で、じわりと熱いものが眼球の表面に滲み始めたのも、そんな馬鹿な自分を情けなく思ってのことだと半ば以上無理矢理、綱吉はそう自分自身に納得させた。そんなふうに認識しながら自らの薄くなる意識にしがみついていられたのはそこまでだった。
 もしかしたら次、目覚めたとき、今は微かに窺える男の気配はなくなっているかもしれない。
固く、誓いのように握り締めていた拳からふっと力が抜け、途絶える意識の最後の方で、そう思った途端、闇にある人影がまたかくんと斜めに首を傾けた。
 先程とは反対方向に。
 その意味を、今度は掴む暇すら与えられなかった。


 ――――本当に綱吉はわからない?







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