10





 朝がきた。

 噴火前の活火山と評した山本の見解は実に見事に的を得ているものだったと、綱吉はカーテンの隙間から眩しく零れる光にそっと溜め息にも似た吐息を零して、腰掛けていたベッドから重たげに身を起こした。
 射し込む朝日を受け、きらきらと黄金色の輝きを放つ空気中の粉塵が眼に映り、窓辺に寄って、これから空高く昇っていこうとする太陽の姿に首を傾けてそれを視認した。
 眠ることなくスペインでの二日目を迎えてしまったのは予定外の出来事であったが、それ以上にもっと予期せぬ出来事に見舞われてしまったせいで、正直もう朝になる前から早くイタリアに戻りたくてしょうがなかった。これでやっと堂々この地を発つことが出来る――と、考えたところで、
(あ……返事)
 なんだかんだと保留中のままであった見合いの返事を未だきちんと返していないことを思い出し、折角晴れた気分がまた微妙に翳りを帯びて、降下してしまった。それがこの旅の目的ともいえることであったのをすっかり忘れていた。
 昨晩の会食時にも相変わらずあれこれ娘の美点を懸命にアピールし続けていたクルゼアが、これではさすがに可哀想で報われなさすぎる。いくら断るつもりではあっても、ここは人として誠意ある態度で対応すべき場面であるというのに。
(……しっかりしろ。あともう今日だけなんだから)
 しかしそんな晩餐時のクルゼアの調子を見るに、娘の、一歩間違えば十分ファミリー間の抗争の引き金となる手荒い歓迎のことはどうも知らない様子だったのが今になって気にかかった。積極的に売り込む父親とは対称的な娘の素っ気無い態度。
 不審といえば不審であるし、単に自分との見合いが嫌なだけという単純な理由があってのことなのかもしれない。
 正確にはわからないが、相手がもしそうならば断るこちらの気も多少は楽になるというもの。……それでもまあ、三階から人を突き落とすというのはやはり行き過ぎた、過激すぎる行為だと思うのだが。
(あれじゃ骸でなくても怒……)
 浮かんできた名前にはっとし、次の瞬間、胸の痛みを堪えるように下唇を噛み締めて俯く。ズキズキと、そうしていると胸だけでなく次第に頭のほうも痛くなってきた。睡眠不足が祟ってのことだろうと容易に予想でき、疼痛の響くこめかみを煩わしく思いながら痛みが止むのをしばしその場に佇み、黙って待つことにする。
 けれど引くどころか額に脂汗までもが浮かび始め、徐々に痛みが鋭くなってくるのに、再び顔を上げ、亡羊と窓ガラスに映った自分の姿を確認した。とてもいいとは言えぬ顔色で、どこかぎこちない表情……ファミリーの体面上、ボスとしても相手にあまり不甲斐無いところはみせたくはないのだが……
「仕方ない…か」
 朝、食事が終わったら頭痛薬でも言って貰おう。顔色の悪さはさすがに誤魔化しようもないが、それまでは出来る限り平気そうな顔をしていよう。
 気苦労の多い我が身に、つい沈鬱に肩を落としながら部屋を出る。だが出て数歩行ったところで視界に自分以外の者が廊下の壁に寄りかかっているのが見えた。
「よう、ツナ」
 明らかに人数を欠いた守護者が一人、笑顔で立っているのを確認する。
 認めた拍子にズキリとこめかみが痛み、唇の端が引っ張られるように頬が僅かに引き攣った。…頭が痛い。視界を揺らすように眩暈も起こり、いよいよ体調不良を強く自覚せざるを得なくなってくる。けれど表面には出さない。決めたばかりの決意を崩すにはあまりにそれは早かった。
「……山本、だけ? 骸は?」
「それが朝からちょっと姿が見えなくてなー。他の任務中でもたまにあることだからそれはそれほど心配はしてないんだが……連れてきたほうがいいなら探してくるぜ。多分近くにはいるだろうからな」
「…いや、いいよ、大丈夫」
 他の任務中にもという一言が多少引っ掛かりはしたが、近くにいるだろうという山本の予想はその姿がないと知った時点で実は綱吉のほうもしていたので大した問題ではなかった。
 好意と自虐的な憐れみを同時に寄せながらも、自分のことを諦めるとはけして言わなかった男のことだ。
 きっとどこかで見ている。
 昨晩なぞられた首に手をやり、一呼吸置いてから、歩みを再開させる。
 もやもやと気分の晴れぬ複雑な思いに寝不足と頭痛が折り重なって、自覚したら重い足取りがますます重くなったように感じた。





「―――で、まあ…それ見た獄寺の奴が十代目の目に触れされるわけにはってまたえらい剣幕で怒り出してな、後始末が結構大変だったんだぜ」
「そ、そう、またそんなデンジャラスことがあったんだ。っていうか報告書にはそんなの一言も書いてなかったような気がす…」
「まーまー、あんまり細かいことは気にするなって!」
「いや、ていうかそれ大事なこ……」
「な、ツナ!」
 快活に笑う山本にバシンと豪快に肩を叩かれる。
 それはけして明るいばかりの話題ではなかったが、頭痛で変に歪みそうになっていた表情が明るい友の様子に助けられ、しばらくそんな他愛もない会話を交わしつつ昨晩の会食時と同じ部屋へと二人並んで歩いていく。やがて突き当たった分厚い柱の角を曲がると、開け放たれた扉の前で幾人かの使用人がかしこまって室内への出入りを繰り返している光景が見えた。
 その人の林の隙間からテーブルとその奥に位置するクルゼア、背後に控えるウェンの姿を認める。角度が悪いのか、それとも単にまだ来ていないだけなのか、ライの姿だけがそこに見えず、
「……あれ?」
 と、首を傾げて不思議に思っていたら、扉の外側で給仕している使用人たちの中に彼女がいるのを発見した。
 えっと目を疑う。
 思わず立ち止まると、「ん、ツナ? どうした?」と、まだライの存在に気付いていないらしい山本が横目に問いかけてきた。
「いや……ちょっと」
 よくよく見れば混ざっているというより寧ろ恐縮しきりの使用人たちが彼女を取り巻いて、止めるよう何か懸命に働きかけているふうでもあった。声までは聞こえない。首を捻りながら、しかし、まあそれもそうだろうと思う。
 綺麗に結わえられた髪に美しく着飾った彼女は、この住まいの令嬢――その場から浮いて当然の肩書きを持つ。
 それはどうみても不自然な光景だった。けれど当のライはそれを気にするそぶりもなく、俯きがちに、ただ淡々と、自身の思うように動いている。
 自ら進んでやっているにしても、使用人にしてみればそっとしておいて欲しいというのがその正直なところだろう。迂闊に手を出し、下手なことをして叱責を買うのも怖いだろうが、あとから何かを言われて責任を追及されるのも怖い。たとえ言動の責任は当人にあってもそれが正しく働くとは限らないのが、主従関係というものだ。最もその考え方を綱吉自身はけして由とはしないが。
 普段からこうなのだろうかと室内のクルゼアを見やり、それにしては使用人の狼狽の仕方が変だと思いつつ、もう一度視線を元に戻してそこでぎくりと綱吉は肩を強張らせた。
 それは見間違えなどではなく―――
(…っ!)
 当のライが見ていた。
 伸ばした背と同じくらい燐とした強い眼差しを真っすぐにこちらへと向け、そうかと思えば一瞬で外して、また視線を地へと下げる。
 綱吉が気付かなければそれで何事もなかったかのように終わる、たった一瞬の出来事だった。
 彼女はもう、綱吉を見ようとはしない。
 それがただの偶然であったのかどうなのかはわからなかったが、けれど彼女が束の間見せた、真剣な眼差しに綱吉は強い困惑を覚えた。
(でも多分…気のせいじゃない)
 証拠はないがそこに作為的な気配を感じた。
 気のせいと断じるにはあまりにインパクトがあり、加えてボンゴレの血の成せる業である、超直感が疼くようにしてこの胸を震わせた。長年付き合ってきた自身の心だ。確証はなくとも自分を信じるにはそれで充分だった。
「ツナ?」
「あ、ああ、…うん、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「ふうん。なんだ、あの子、見てたのか?」
「え、気付いてたの?!」
「おう、たった今だけどな」
 にっと笑って内緒話をするようにして山本が顔を寄せてくる。その眼差しは遅ればせながら給仕の輪の中というべきか、外というべきかにいるライのことをしっかりと捉えていた。
 背の低い自分に合わせてはっきりと猫背になる相手の長身を羨ましく眺めながら、見咎められたばつの悪さに焦りの表情を浮かべる。その最中に、なんとなしに今この場にいないもう一人の守護者の反応についても軽い想像が頭をよぎった。
 多分こんな他愛ない会話ですら、骸は、居たらきっと不機嫌を隠そうともしない仏頂面か、或いはそうとはまるで感じさせないポーカーフェイスのどちらかで、背後からまた嫌なプレッシャーを投げかけてくることだろう。この地に来ることになって、すでに何度その感情の棘を身に受けたことか。
 いたらいたで面倒事を引き起こしかねない言動のあれこれにハラハラとしてしまうけれど、いなかったらやはりそれはそれで何処かで何か余計なことでもしていないかとそんな物騒な懸念でまたついハラハラとしてしまう。
 どっちにしろ、結局そうやって自分は男のことを常に気にかけ、最後には心配するに至る。
 一体いつの間に六道骸に対して自分はそんなふうなスタンスを取るようになってしまったのだろうか。もはやどのくらい前からか判然とはせぬが、気付けばそんな概念が固定化して出来てしまっている。
 ―――なるほど、これでは雲雀さんに過保護と言われてもしようがない。
 確かに自分は骸のことを気にしている。手のかかる子供を相手にするような、そんな苦労の籠もった理解とともに。
 そう思うと、その理解を下地に、きっと気持ちが落ち着いたらまたいつもみたいに何食わぬ顔でそばに戻ってくるような気がして、澱んでいた気持ちがそれだけで随分と楽になった。
今回の荒れ方は少し過度ではあったが、おそらくは状況がそれを促しただけに過ぎない。行きからしてすでに波乱の予兆はあったのだから。
 これはある意味、予定調和ともいえる。そう思ったところでふいに隣の山本がトンと肩を小突くように触れさせてきた。一旦思考を止めて、視線を向ける。
 何? と眼差しで問えば、
「ツナ。もしかして気に入ったのか、あの子のこと」
 と、突然言われ、流れ的にみればごく自然な会話がいつの間にか成立しているのに、ぎょっとして身を引いた。他に思考を飛ばしていたので気付かなかったが、見ようによっては見惚れていたと思われても仕方が無いくらいライへと視線を飛ばしていたことに今更ながらにようやく気付く。
「違っ!? ちょ、山本まで何言って……! こ、断るよ、最初に言ってた通り!」
 そうだ。それでイタリアに戻ればきっと全て元通りとなる。…そうならなければいけない。
 頭痛薬を貰おうとしていたことも忘れ、真っ赤になりながら焦って叫ぶと、途端に置いてきた痛みがそのすぐ後を追ってこめかみをダイレクトに直撃した。ズキンッと突かれるような痛みが走り、眼裏を駆け抜けた閃光に思わず「痛っ」と声を洩らして目を閉じる。軽く身体が前後に傾いだ。つんのめりそうになる身体を山本が咄嗟に手を出し、助けてくれる。
「大丈夫か、おい」
「あ、うん…平気。ちょっと朝から頭痛が引かなくてさ」
 病は気からとはよく言ったもので、思い出すと今まで沈静化していた痛みがまた唐突にぶり返してきた。ズキズキとこめかみを集中的に攻撃してくる。我慢できないほどではないが、しつこい痛みについ辟易と顔が歪んだ。
「朝食止めとくか?」
 心配そうに覗き込んでくる瞳に、けれども、いいよ、と言って首を振ってみせる。
 小さく笑い、その身を起こした。
「だって早く…見合い、断らないといけないしね」
 長引けば長引くほどこういったものは相手に変に期待をもたせてしまう――そのことは、もう何年も思いきることが出来ぬ事柄と我が身を以ってせちがらく体験済みだ。
 見合いは断る。
 リボーンが何を考え、そこにどんな思いを寄せて取り付けてきたものであるか未だ理解できぬ事柄ではあるが、骸に言われるまもなくそれはもうすでに決めていたことだった。
 その旨をきっぱり告げると、
「…わかった。ツナがそう決めたんならそれでいいさ、オレは」
「うん…ありがとう、山本」
 頷くと、それでもやはり幾許かは消沈しそうになる気持ちを励ますように、仕方ないさ、と軽快に友が笑ってくしゃりと頭を撫でてきた。もう一度、深く頷き返す。
(断って、それで、帰る頃にはきっと行きと同じだ)
 どんな時でも自分のことを緩やかに肯定し、見守ってくれる友の優しさがいつもの如く身に染み、自然と笑みが浮かんだ。
(何も変わらない)
 だから、何も変わらないままでいられるはずだ…と、頭の隅で低く囁く何かを強引に振り払って、綱吉は止まっていた歩みを再開させる。
 やがて静かに佇むライの横を一瞬躊躇い、通り過ぎたあと、「つーか、イーピンを知ってるせいでか、彼女、なんかどっかで見たような気がするんだが……」と、一枚膜を隔てた世界の向こうで首を捻りながら微かに呟く友の声が聞こえた。
 それに先程見た眼差しが強く、星のように綱吉の思考を掠めていった。







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