無駄とわかっていても吐きたくなる。
 それが溜め息の本質ではないだろうか。
 真っ白な紙片の中に納められた、五評価中二ばかりが居並ぶ数字を見つめ――その内ものの見事に燦然と輝く体育一には最後に目を留めてから――改めてがっくりと肩を落とすと沢田綱吉は深い溜め息をハアと吐いた。高校も半ば以上が過ぎ、専任家庭教師からはこの夏みっちりとスパルタな教育的指導を受けたというのにこの不甲斐無い成績。そんな捗々しくない自らの成績を前に苦い嘆息しか零せないのはまさしく道理というもの。
「……来年は受験生なのにな」
 手放しに謳歌できた学生の身分は、この冬を抜け、春も過ぎれば必然的に返上せざるを得なくなってくる。
 家庭教師のおかげで落第は免れ、進級こそできたものの、元々勉強は大の苦手で、けして得意な方ではなく、自ら進んでしたいとも思わないのに、来年になれば今以上あくせくせっつかれるようにして勉学に励まなければならないのである。
(憂鬱だ)
 思い返せば高校受験の折にも(およそ全部自業自得であるけれど)、相当な苦難を強いられた。きっとあの時と同じ事をまた繰り返すのだろう。
「母さんはともかく、リボーンの青筋立てた姿が目に浮かぶようだよ」
 二度あることは三度ある……とは、なって欲しくないが、いっそそんな悟りの境地にも至りそうになる来年は、できれば青アザの数は中学時よりは幾分か減らしたいところだと切に思う。
 家庭教師はスパルタな上に普通に容赦なく手まで出すのだ。
 近年、教師の体罰がよくPTAや保護者の間で取り沙汰されているが、うちの家庭教師に限ってそれが問題となることはまずない。そもそも保護者であるところの母親、沢田奈々が家庭教師のことを大いに気に入って、大抵のことは笑ってやすやすと容認してしまうからだ。
 父親からの紹介でエリート出だと言うものの、その素性は一切不明。あからさまに不審者だというのに母は何ら気にせず、「毎日家に来てもらうのも大変ね……うちに住み込みとかどうかしら? 部屋なら沢山余ってるし」との、提案後、賑やかなほうがうちも楽しいわとお人好しにも程がある発言をあっさりと言い放ち、結果家庭教師は本当にそのままなんだかんだと沢田家に居つくことになってしまったのである。このご時勢にありえない同居理由だった。おかげで綱吉は帰宅するとすぐに勉強という切迫した状況にあえなく追い込まれるようになってしまった。なので最近早くに帰るのが億劫で億劫で仕方がない。けれど何の部活動にも入っていない帰宅部の綱吉の帰る時間は嫌でも大体決まってくる。サボることなどまずできない。
 ハア……と今一度肩を落とし、重い溜め息を零して、
「帰んなきゃなー」
 待ち構える家庭教師のシゴキと今後の未来にもう一度深い憂いの溜め息を重ねて、しかしいつまでもここでぼうっとしていてもしょうがないと無残な成績表から顔を上げた――ところで。
 ルルルル――!
 まるで見ていたかのような絶妙のタイミングで駅のホームに電車の到着を報せる音が鳴り響いた。思わずビクっと驚きに身体を震わせる。
 そして。
「あっ」
 ひらり、と。
 視界を白い紙片が優雅に舞った。間の抜けた自らの声までもを攫うように。
 白い紙片の表側に記された文字が見える。

 並盛高等学校 二年三組 出席番号十四番 沢田綱吉――

「ちょっ……!」
 それはたった今まで自らの手元にあった成績表に違いなかった。風に押し上げられ、手を伸ばしてももはや届かぬところにまで早急に持ってゆかれるそれを茫然と見上げる。ひらり、ひらりと、まるで春の日に舞う蝶のように。だが現実、今は冬だ。本当の蝶が舞うのは春になってから。現実では明日から短いながらも学生の歓びであるところの冬休みが始まる。
「まっ……待って!」
 だから――その、蝶のようにも見えるそれは。
 その、お世辞にも良いとは言えぬ自らの恥ばかりが押し込められたそれは。
「オ、オレの……っ」
(成績表―――!)
 待て、と制止の声を上げ、一歩足を前に踏み出した。けれどその途端、ブオンッと強い風が横殴りに頬を吹き抜けてゆき、咄嗟に綱吉は目を瞑ってその場に立ち尽くすことしかできなかった。やがてバサバサと髪や制服を遠慮なしに掻き乱していった突風が落ち着く頃に、停車時間ぴったりに滑り込んできた電車を綱吉はホーム上でぼんやりと確認するに至った。
「…………」
 呆気に取られた。反射で目を閉じたのはほんの一瞬のこと。けれど、その一瞬で案の定白い紙片はもはやとっくに自らの視界より消え失せ、見えなくなっていた。あるのは暮れなずむ前の薄い色をした空ばかり。
「…………嘘」
 愕然と呟いて、足元の抜け落ちるような感覚を味わった。意識が酩酊して、端から真っ白になってゆく。そうしたあと、強制的にといえるような凶悪さで家庭教師のニヒルな笑顔が脳裏に浮かんできた。顔は笑っているのに、けれどその目はちっとも笑っていない。
 あァ? 失くしただァ? テメーなに馬鹿なことほざいてやがんだ
 およそ家庭教師とは思えぬほどの柄の悪い、品行方正とは真っ向真逆の乱暴な物言いがリアルに鋭い牙を以って自らの胸に食い込んでくる。
「………――――っっ!」
 意図していたわけではないが、誰にも見られたくはなかった成績表。それをいくら本当のことだとはいえ、失くしたと言ったら家庭教師はきっと確実に激怒する。他意があろうとなかろうとそんなことは関係ない。失くした事実に家庭教師は容赦なく自分を苦難の底へと叩き落とすだろう。まさに千尋の谷へと我が子を突き落とした親ライオンのように。故にそんな空恐ろしい想像がリアルに思い描けたときには、もうすでに成績表の飛んでいった方向へと向けて、即座に綱吉は回れ右をして走り出していた。
 せっかくの冬休み。
 これ以上無駄に叱られることだけは絶対に避けたかった。



***



「―――あァ? 失くしただァ? テメーなに馬鹿なことほざいてやがんだ」
「ってほらね! やっぱりねッ!?」
 いつもの帰宅時間を大幅に過ぎて家に着いた綱吉を待っていたのは、そんな予想通りの、憤怒のオーラを全開に放出する家庭教師の怒声だった。さすがに玄関先で腕組みをして仁王立たれているとは思いもしなかったが……そこまで想像できていたら寧ろもっと帰りたくなくなっていたからできなくて正解だった。と、思いつつ玄関先でおそるおそる綱吉はその顔を上向けたが、
「な、ん、で、失くしたんだ? おら、答えねーか。答えねェと撃つぞ、テメー」
「だっ!?」
 コルク栓の弾け飛ぶような軽快な発砲音に自らの間の抜けた悲鳴が折り重なり、直後、じんとした痛みが額に走るのを感じた。
「こ、答える前にすでに撃ってるじゃん!?」
「たりめーだ」
「ちょ…っ」
 じゃきん! ぽんっ!
 再び黒光りの銃口より一発の弾が発射され、綱吉の額に直撃した。バチンと自らの額を的にやわらかなゴム弾が正面より飛来し、ぶつかったあと、ぽろりと眼下へと落ちる。玄関先で二バウンドほどしてから弾丸は止まった。
 家庭教師の持つそれは鉛玉の代わりにゴムの弾丸を装填して詰めた玩具の拳銃である。死ぬことはないが、至近距離からの射撃は充分威力があって痛い。危険はないとわかっていても、銃口を向けられれば嫌でも身が竦む。……生来臆病なのだ。
 加えて銃は確かに玩具だが、持っている者の姿はとても真に迫るものがある。威圧感、というのだろうか。醸し出す空気がピリピリと肌のほうを突き刺す。そんな物騒極まりない人物――それこそが沢田家専属の家庭教師、リボーンだった。
 玩具の拳銃が己のトレードマークだという年齢不詳のイタリア人で、態度もデカけりゃ口も悪い。オマケに容赦なく教育的指導と称して手が出る……という極めて性質の悪い性格の持ち主ので、標的である綱吉としては紹介してきた父親を今でもひどく恨めしく思っている。
 詳しく事情を訊こうとずっとメールを送っているが、未だその返答がないのもまた怒りに拍車をかけることの一つだった。あまりに音沙汰が梨のつぶて過ぎて、いい加減母さんほったらかしてどこかで浮気の一つでもしてるんじゃないだろうかと最近ではそんな邪推も頭をもたげてくる。
(なんで母さん、父さんと一緒になったんだろ……)
 こちらは十数年という年季の入った疑問である。訊いたことがないので未だ疑問は晴れない。だが、それでも、沢田家の家計を支える生活費は毎月十五日には必ず指定口座へと振り込まれている。なのでけして悪い父ではないとも思う。良い父親だったこともあまりないので、まあ、思考は延々とループして最初の疑問へと立ち戻るのだが。
 綱吉の記憶の中、物心つく頃には父はすでにしょっちゅう家を留守にしていた。たまにフラリと家に帰ってきたかと思えば、異国の土産を渡して、あとは始終母にデレデレと甘えっぱなしだった。――だからそもそも父親との大した思い出が自分には浮かびようもないのである。
(ていうか国内に出稼ぎって話じゃないのかっていう)
 母からはずっとそう聞かされて育ってきた。ならば毎度貰う、あの読めない言語で埋め尽くされた菓子や本、玩具などの土産は一体何なのかと考えなしにそれを受け取っていた幼い時期が過ぎれば今では猜疑心ばかりが顔を覗かす。
 だがそんな父の挙動不審を母は何ら疑うことなく毎度笑って受け止めている。真相を問い質そうとしたことが今までないわけではないが、それを見ていると息子である自分が迂闊なことを言って母の顔を曇らせるのもどうかと思い、いつも寸でで踏み止まっている。おかげで真相は掴めぬままに、自分の中の父親株は大暴落し続けるばかりだ。曲がりなりにも実の父親なので、べつに嫌いというわけではないのだけれど。
 そんな父親が何の気まぐれかでいきなり寄越してきた家庭教師。
「正直に答えねェともっかい撃」
「引き金に指掛けて言う台詞じゃないよね!? ていうかさっきも言ったように、だから風に飛ばされてどっかいっちゃったんだよっ! それでっ……さ、探したんだけど、全然見つかんなくて……!」
「それで諦めて帰ってきたってか」
「そうだよっ。オレだってあんなの早く回収したいよ。自分の成績表なんて他の誰にも、友達にだって見せたくないのに」
 むしろ誰が見せたいものか。
(あんな)
「―――ということはつまりそんだけ悪かった、ってことだな? ツナ」
「あっ」
 険を含んだ半眼にじいと睨み据えられて、蛇に睨まれた蛙の気持ちで咄嗟にずさりと後ずさる。しまった。思わず口が滑った。
「テメー、この俺様があんだけ教え込んでやったっつーのに」
家庭教師の凄みが更に深くなる。
「だ、だってさっ」
「だってもクソもあるか!」
「ツー君? 声がするけど……帰ってきてるの?」
呑気な母の声が奥の間より聞こえてくる。けれど綱吉は返答ができなかった。
「晩、休めると思うなよ。みっちり、骨の髄まで鍛え直してやる」
「だから銃口こっち向いてるって! 拳銃突きつけながら家庭教師が嗤って言う台詞じゃないよ……っ」
 こうして家庭教師が完全なる悪役へと豹変するのを目の当たりにし、慄くなか、十二月の寒空の下を三時間近く一枚の紙を捜して散々駆けずり回った挙句、結局見つからなかったことで深夜に至るまで延々説教を受ける羽目となった高二の冬休みは―――まさかこの後、その成績表がもとで更に翻弄する日々になろうとは夢にも思わぬまま――こんなふうに騒がしくもどこか平和に始まったのだった。







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