三 屯所の引越し。 西本願寺への移転。 そして時同じくして新しく隊に入隊してき、大幹部となった伊東甲子太郎参謀。 目まぐるしく、そして性急に過ぎようとした時間は、その駆け足を促した分だけ、誰かの大切な時間を拾い損ね、取り零しながら進んでしまったように感じられた。それはもう全てが終わった後、ようやく知った後でのことであったが。 春になったらきっと全てがうまくいく。 荷造りの手伝いをしに皆の元へ訪れた。その時までそう思い、信じていた自分が今となってはあまりに愚かで滑稽であった。 何も知らなかったから、では済まされない。 それはそういう爪痕だった。 そんな胸の痛む事実ばかりがそこにあって、 「どうして……」 山南さんが「薬」を飲んだ、とのそれは千鶴に様々な真実を教えることにもなった。それらは全て同じ日の中でのことだった。 「父様」 薬のことは屯所に身を寄せるようになった当初に耳にし、どんなものであるかは知らなかったが、ずっと気に掛かっていたことの一つではあった。 僅かに知り得た情報から察するにあまり使い勝手の良いものではないということ。自分がそれを知ると命が危うくなる、とても物騒な代物であるということ。 その二点しか自分は知らなかった。何も知らないまま、ずっと蚊帳の外にいた。 新選組の皆がそれを自分に知らせないようにしていたのは知れば本当に危険で、そして幕府の高官――外国より流れてきたというその薬の開発に自分の父、綱道が思う以上に深く関わっていたからだろう。 薬は人間の筋力と自然治癒能力を爆発的に高める渡来の薬物である、と斎藤は言った。 単純な腕力は普段の数倍にも及び、脳や心臓を破壊されない限りは延々と活動できる。だがその代償として人としての精神を破壊される。 薬にはそんな消しようのない副作用があるのだと、そう教えられた。 だから、薬を使うと血に狂う。 新選組でありながら新「撰」組となる。 『こうも血に狂うとは、実務に使える代物ではありませんね』 『……頭の痛ぇ話だ。まさか、ここまでひどいとはな』 京に着いた最初の夜、土方らが交わしていた会話を思い出し、あの時覚えた恐怖の根源はこれだったのかと改めて千鶴は身震いした。 「新選組の隊士を実験台に、【薬】の改良を進めていたのが綱道さんだ」 飲んだ瞬間に狂うような劇薬を人に使えるよう薄めて使っていた。 隊士を…生きている人間を実験台にして。 そうやってずっと秘密にされていたことを斎藤より明かされたが、晒されたその事実は千鶴にとってあまりにも重いものだった。目の前が真っ暗になる。 (どうして、そんなことを) そんな非道なことに父が関わっていた。 そしてそんな非道な薬とわかっていながら、それを飲んだ山南。いくら改良を重ねていたとはいえ、狂うかもしれないそれを躊躇いもなく。 何がその起因と、決意させる切欠となったのかは考えるまでもない。明白だった。きっと伊東参謀のことがなくともいつかはと山南も考えてはいたのだろう。 (だけど――) 今朝のやり取りがその時期を早めたのは火を見るより明らかだった。 ふと空を見上げれば、少し前に見えた夕焼け空がすでに漆黒のそれに移り変わっているのが見えた。 こんな短い時間の中であまりにもあっけなく。あまりにもそれはあっさりと成されてしまった。 山南の悲愴な決意に少しも気付かなかった非は、いくら直接薬には関与していないとはいえ千鶴の胸を切なく締め付けた。 たとえ自分が関わっておらずともこの一件には父が関わっている。娘だからといって関係ないとは言えない――否、娘だからこそそれは目を逸らすことのできぬ現実だった。 血に触れない限りは、薬を飲んでも隊士たちは大人しくしていると原田がそんな気遣う言葉をくれる。 だがそれでも全ては現実なのだ。 目を逸らすことはとてもできなかった。 したくない、と思った。 全ての話を言い終えたのち、薬は、山南自身の手によって更に幾らか改良されており、だから必ず狂うと決まったわけではないと土方が感情を抑えつけながらそう言った。 やがて永倉は薬の投与者らがいる前川邸へ。 斎藤は伊藤一派をこの秘密に近づけない為に、中庭にての待機が命じられ、原田は他の隊士たちの監視をするべく八木邸の外に出た。幹部の皆にそれぞれ役割を与えられ、広間には土方だけが残ることとなった。 そんな中、自分はというと、幹部の誰かと一緒にいろと言われた。 警戒されているのだとはすぐにわかった。広間を出る際、永倉が寄越してきた視線を思い出す。何かを明確に告げられたわけではない。だがそれはひどく物言いたげな眼差しだった。居た堪れず、結局中庭に行くふりをして自室へと引き上げた。 そして――。 「どうして……父様」 一人きりになったところで、そんな悲しみがあとからあとから湧き上がってき、薄く胸を覆うそれらにひどく泣きたくなった。泣きたい。どうしてそんなことをしたのと、手を貸したのと、理由を父に訊きたかった。 父が優しい人間であるのは娘の自分が誰よりよく知っている。 なのにあの父が。あの心優しい父が、どうしてこんな非道なことを手伝い、許容したのか。 問い詰めたいわけではなく、ただ聞きたかった。どうしても、父の口から聞きたかった。自ら進んで協力したとはとても思えない――その思いに安堵を重ねて欲しかった。 (父様を信じてる……信じてる……っ) 固く思うも……けれど、泣きたいと思って本当に泣いてしまっていては、その思いは嘘のように思えた。 そんな自分がひどく情けなかった。震える肩を両腕で掻き抱き、その場に蹲る。部屋まであともう少しのところであったが、あともう一歩が出なかった。立ち止まって動けなかった。 無言でかぶりを振り、そんな気持ちを精一杯、外にと追い払おうとする。 (きっと、何か理由があって……それで) 止むを得なく。 仕方なく。 だから。 (――――) 思った瞬間。 思考が停止した。身体の一部が俄かに深く沈み込んでいったのを感じる。馬鹿なことを考えたと一瞬にして深い後悔の念が生まれた。これは変えられない現実なのだと、ついさっき、ほんの少し前にそれは自分で思ったばかりのことだ。なのに咄嗟に、自分にいいようにそれを正当化しようとしていた。 「私――」 いくら幕府に要請されたこととはいえ、これが正しいことであるはすがなかった。そうと頭ではわかっているのに、けれど横入りする感情がどうしても私情を捨てきれなくて迷走する。 たとえどんな理由があっても、父には人の命を救い続ける、誇りある立派な蘭方医でいてほしい。自分勝手な理想を押し付け、我が儘を言っているのは百も承知。事情も知らず、勝手なことばかりをそうやって並べ立てている。その自覚もあった。 子供じみた理想論だけが人を救うわけではない。時に苦しい選択を強いられ、辛くとも持論を捻じ曲げなければならないときだってある。わかっている……蘭方医の娘なら。けれど、それでも、そういて欲しかった。 生かすか殺すかの辛く苦しい選択ばかりを突きつける戦場においては、それはあまりになまぬるい見解だったとしても。 けれど、それでも。 (私、は) 「雪村君」 「っ!」 押し殺したような声にびくりと肩が跳ねた。 慌てて両腕の戒めを解き、座り込んだままで背後を振り返る。 すると闇の中に、暗く、空気に溶け込むようにして佇む――まるで闇そのもののような一つの影があった。 「確か君は幹部の誰かと共にいるよう土方さんに言われていたはずだが」 「山崎、さん?」 まじまじと目を見開き、相手を見やる。 声を掛けられる直前まで何の気配を感じなかった。だがそこにその人物は確かにいた。 信じられない思いでこわごわと呟く。 「や……山崎さん、どうしてここに……?」 そこでようやく事の重大さに気付いた。 頬を強張らせながら土方の言葉を思い出す。命令を無視したこと。一人きりになったこと。それは周囲の不審を買うに充分な行動だ。 「――――」 無言のまま、スッと山崎が動く。 一歩、足を前に踏み出した。 それは本当に歩いたのかといったとても静かなもので、床板がキシとも鳴らぬのが、こんな時なのに、千鶴には不思議だった。そんな意識の果てでこのまま自分は彼に処断されるのだろうかと考える。 そう考えたらやっと胸にぎくりともひやりとも判別できぬ、冷たいものが通り抜けてゆくのを感じた。たとえ同じ屯所内にいるのだとしても、今、自分は明らかに土方の命に背き、逆らっている。彼に従事する山崎がこれに気付いたのであれば見過ごすはずもない。 山崎は鬼の副長と呼ばれる土方をとても尊敬している。 態度がいつもそれを強く示していた。 だから。 (あぁ、そっか…私は) やっぱり。 落胆が冷たさを押しのけて千鶴の胸を鋭く穿つ。 苦笑した。 やはり自分は、輪の中に…皆の中には未だ入れていないはみだし者なのだと。それを嫌というほど痛感する。ならばこれは罰せられて当然のことだとも素直に思った。寧ろ父のことがなければとうに失っていたかもしれぬ命だ。それが運良く先延ばしにされていただけのこと。 (やっぱり一年なんて……短いよね) 皆はもっとずっと長く共にいたのだ。急に割って入った自分がたった一年足らずで仲間になれたと思うのは、随分とおこがましい。図々しいにも程がある。 ずっとそれは心のどこかで思っていたことだった。わかっていた。なのに泣きたくて堪らない。父のことも、新選組のことも、そして…自分のことも。全てが悲しい、泣きたくなることだった。 だから、 「俺がいよう」 静寂の中で届いたその一言の意味を完全に理解するのに、千鶴は随分と時間を要することとなった。 「……?」 何を言われたのか、すぐにはそれを受け止めることができなかった。 ただ何か、思いがけない言葉を聞いた気がした。 顔を上向け、……え? と、その目を瞬かせる。 山崎はすぐ近く、手を、軽く伸ばせばすぐ触れられるところにまでいつの間にかに来ていた。 惚けたままの千鶴を置いて、自身の膝を折る。また少し、近くなった。けれど目線を合わせられても、まだ自分は何も言えなかった。言葉が放てるほど、その事態を呑み込み、噛み砕けていなかった。それを感じ取ってか、 「誰のところにも行かず、このまま部屋に戻るというのであれば、俺がいる、と言った。聞こえなかったか?」 「…………」 聞こえた。 それは多分、とてもしっかりと、己の耳に。 今度こそその意味合いを正しく引き連れて。 もう一度、困惑に瞳を瞬かせる。訊かなければならないことがあった。 それはつまり。 ……だから? 「や…山崎さんが、ですか?」 「そうだ。他に誰がいる。君をこのまま一人にしておくことは出来ない」 きっぱりと告げられて、鼓動が一つ、大きく跳ねた。どきりとする。けれど――、 「それは………私を警戒して、ですよね」 よせばいいのに、自ら傷口に塩を塗り込めるような言葉が空しく滑り落ちていた。言いながら自然と顔が歪む。空しさが悲しみに変わる。それがわかるほど、じくじくとした痛みをそこに感じた。 「こういった時だ。それも仕方ない」 「……そう、ですよね」 真摯な眼差しがこちらを見据える。 相変わらずそこに何の躊躇いもない。ただありのまま、思うまま、研ぎ澄まされた空気を重々しく背負って、自らの成すべきことを成そうとする。 (ただそれだけ。それだけだって…、わかって…るけど…) 仕方ない、と。 たった今、山崎が口にしたその言葉を反芻する。 考えれば考えるほど胸が痛んだ。 泣きたい気持ちが降り積もって心が痛んだ。 「雪村君?」 「――――」 一年間。 皆と過ごした日々の中には、笑えることも驚くこともそれなりに数多くあった。けれどそのずっとずっと奥、底のほうにはいつも消えない寂しさがあった。ぽつんとそれは、着えずに置かれていた。だから自らの居場所を、ここにいる意味を、いつからか必死になって見つけようとした。見つけたいと願った。 (……だけど) だが、今夜のことで、自分がここにいること、それによって新選組の皆が得られる利というものは、あまりに少ないというが判明した。 新選組の彼らを好きになればなるほど。 彼らのいるこの場所を好きになればなるほど。 自分がいくらそう思っても、結局そんな自分は彼らの仲間ではないのだ。仲間にはなりえない。いつだって蚊帳の外。 「私は……」 (それでも) 床についた手をぎゅっと固く握り締める。そうした端から、脆い己の心が折れて、挫けてしまいそうだった。 そこに言葉があって、声があっても、形ないものを説明し、口にすることはとても難しい。とても怖いことだと、本能が自らを守って、咽喉を熱く震わせた。それを言えば傷付くかもしれぬと咄嗟に警告してくる。けれど告げなければならないと思った。それが、今この瞬間においてもけして自らの中で揺らがないことであるなら。 私は…、と最後にほんの少しだけその声を震わせて。 「皆さんのことが―――好きなんです」 はっきりと言えば山崎が驚いたようにその目を瞠るのが見えた。そんな姿を見るのはあの夜の、池田屋事件以来のこと。 気持ちを奮い起こすよう拳に力を籠める。そうして今一番、自分がここで何を言うべきなのかを考える。父のこと。新選組のこと。薬のこと。言うべきことはたくさんあった。けれどその中から、自分の譲れぬものは何なのかを必死に考えた。 そこからただ一つ、今一つ、 ――――心を、選び取れというのなら。 「私は……新選組の……ここにいる皆さんのことがとても好きなんです。好きだから……父がどうして、何を思ってこんなことに関わったのかはわからないけど、それでも……」 強い視線を感じた。それに導かれるように自らもまた真っすぐに顔を向けた。そうしながらやはり自分の選ぶ言葉はこれしかないと思い、合っていると思った。何も間違っていない。 今思うこと。 自身が願うこと。 それらはすべて。 「私は、皆が好きです。だから山南さんもどうか無事であってほしいと願ってます」 ここにいる皆を。新選組を。 たとえ自分の独り善がりであろうと仲間のように思って、大切に想っているから、その言葉に嘘偽りはないと導き出したものに精一杯想いを籠めて言葉にする。拒絶されてもいい。そうされても構わない。 (だって) 「私は、皆さんが好きなんです」 その気持ちは変わらない。…変わらないのだから。 |