全てを言い切った直後、気持ちが緩んだせいか、堪えていた涙がぽろりと止める間もなく頬を零れ落ちた。それを皮切りに熱い雫がぽろぽろと頬を伝って滑り落ちてゆく。
「っ、ごっ、ごめんなさ……っ」
 慌ててそれを拭おうとその手を持ち上げ――そこで、
「……まったく」
 呆れ果てた、それでいてひどく柔らかい声を聞いた。
「雪村君。君は……どうも自身以外のことで感情的になりすぎるきらいがあるな」
 頬に、何かのぬくもりが寄せられる。
 驚いて目を見開くと、大きく開いた瞳より、また涙がぽろりと零れ落ちた。けれど頬を転がるそれを拭ったのは、慌てて持ち上げた自身の手ではなかった。それは、千鶴のものではなく、
「だから―――君は、君自身をもっとよく知るべきだと前にも俺は言ったはずだ」
 溜め息混じりに紡がれるそれをどこか夢や幻のような気持ちで聴く――その頬には、山崎の手があった。彼の指先が、溢れる涙を丁寧に、顎に辿り着く前に堰き止めていた。そのまま指の腹で拭われる。それはやさしいと言っても過言ではない、とても落ち着いた手つきだった。
 そのぬくもりが、やがて触れた時と同じく唐突に離れる。
「………知っている」
 と、最後にそう言い置いて。
 それはあまりに説明を省いた言葉であったのに。千鶴には山崎の言うそれが何を意味してのものか、正しく理解することが出来た。
 微かな苦笑が向けられる。そうやって――山崎は、知ってくれている。自分が新選組の皆を、そしてこの場所を、今、とても大事に想っていること。気付けば多くの、とても真っすぐな気持ちを寄せるようになっていたこと。それらの意味。そのすべてを。
 彼は。
「……山崎、さん?」
「さあ、もういいだろう。部屋に入るなら早く入れ。ここは冷える」
 困惑の余韻に浸らせてくれる間もなく、無造作にそう言い放たれ、先を促して追い立てられる。けれど言葉に急かされ、それに添って慌しく立ち上がろうとした千鶴の手を取り、立ち上がらせてくれたのも同じく目の前の人だった。
 あまりに自然な動きで思わずぽかんとしてしまった。
 意識する間もなく気付いたときには立たされていた。
「あ……」
 視線が上下した。
 自身の立っている場所、繋がっているその手を見て。
 これはなんだ?
 思っていると戸惑いが顔に出ていたか、それに目の前で小さく山崎が困ったように僅かに苦笑した。そうしてそんな顔をした後にはすぐに表情を引き締め、手を離すと、
「しかし、君はよく泣くな」
「え…?」
「この前も泣いていただろう。見るつもりはなかったが…任務ではしょうがない」
「――――」
 淡々と。
 こともなげに言い渡されて、驚くよりもまず茫然としたままでその台詞を脳内で反芻した。
(泣い――て、た?)
 瞳が、瞬いた瞬間にぱちりと音を立てたような気がした。それから思い当たる。千鶴のなかにある確かな記憶、それをたった今、山崎が指し示したのだと。


(―――君の監視も実は時々山崎君がしてたんだよね)


 瞬間。
 沖田の意地悪な、それでいて無邪気さも何故か同時に兼ね備えた、それでいて見目だけは悔しいほどに麗しい、そんな笑顔が一つ、ひらりと千鶴の眼前をよぎっていった。
 その言葉には覚えがあった。聞き覚えがある。それはいつかの日、いきなり暴露された自身の羞恥すべき可能性、で。
 そうしてそれは、やがて夕焼け空を見て思わず子供のように泣いてしまった自分の姿を引き寄せた。
 どうして涙が零れたのか。理由は未だもってわからない。けれどあの日、あの時、泣くことをどうしても自分は止められなかった。赤い夕焼け空が狂おしいほどに胸を切なく締め付け、わけもわからずただ父を恋しがって泣いた。
 まるで子供のように無防備に。
 止めることが、少しもできず泣いた。
 泣き続けた。
 それを。
「――――っ!!」
 緊迫した夜に、思わず悲鳴が口をついて出そうになった。空を劈くように放ちそうになる。
 それをすんでで押し殺し、堪えたのは、千鶴にとっては並々ならぬ精神力と忍耐力とが双方揃って必要となるものだった。
 しかしたった一瞬でそうまで激しく千鶴の心を掻き乱した山崎は「どうした?」とまるで気付くふうもなく、怪訝な眼差しを向け、あまつさえ続けて、顔色が急に悪くなったようだが……と、言ってくる。
 千鶴の異変には一向に気付いていない。
 一切それは気付く様子もなく。
「だっ、大丈夫です…っ!」
 顔色が悪いと評した山崎の言葉に、今自分は明らかに、そして絶対真っ赤になっているだろうと思いながら、千鶴は慌てて身を翻すと部屋の障子に手をかけた。勢い良くそのまま真横に引く。
 そして。
「雪村君」
 驚く声が聞こえたが、構わず飛び込むようにして部屋に入った。
(み、見られてたんだやっぱり……っ)
 山崎は、部屋には入ってこなかった。外で待機し、そのままそこで自分のことを監視するつもりなのだろう。――そう、いつものように姿を隠して。
 あの日のように。
 突き付けられた真実の露呈に、衝動的な行為だったとはいえ早々に部屋に飛び込んで本当に正解だった。思い返せばまた頬が熱くなり、恥ずかしさで目の前がぐるぐると廻る。
やがて山崎が閉めてくれたのだろう、障子の閉まる音がした。
 と同時に、ぽつりと呟く、山崎の小さな声が聞こえた。
「……など」
(え?)
 驚いて背後を振り返る。障子が閉められたとわかっていたからそうやって振り返ることができた。開いていたらきっと振り返りはしなかった。或いは振り返って、また後悔していたか。
 そう思いつつ、山崎の口の開く気配を静かに感じ取る。
 そうして。
「切欠など…些細なことだ。今宵、たとえ誰がそのそばにいようと、山南総長を止めることができたのは山南総長ご自身でしかない。君の父君がこの件に関与していたのは確かな事実だが……だからといって君が思い悩むことではない。君が責任を感じることでもないはずだ」
 障子越しに。
 きっぱりと告げられたそれらを聞く。断言するその声に茫然とした。
 まるで――……まるで山崎が自分のことを心配してくれ、慰めようとしてくれてのそれは言葉に聞こえて。
 そう思うのはあまりに虫のいい、おこがましくも都合の良い自分勝手な解釈なのはわかっている。
 彼はただ、そうやって事実を述べたまでのこと。
 わかっている。そんな自惚れ、すべきでないと。
(だけど……)
 障子を見つめていた目を、身体ごと、また翻してそこから逸らす。俯いた。そうすると頬のそばを括り上げた髪がはらりと零れ、千鶴の首筋をくすぐって、視界に一つ、薄暗い影を作った。
 世界が僅かに見えにくくなる。
 けれどそれ以上に、滲んだものがなにより一番に千鶴の視界を揺らがせ、狭めていた。
 足元の畳を黙って見つめる。慣性に従い、そうして透明な雫がぽたぽたと滑り落ちてゆく。それを拭ってくれた先程の手は、今はない。
 けれど近くにはいる。
 いてくれる。
 閉じられた障子から離れられないまま、それから一体どのくらいの時間が経ったか。
 やがて千鶴は小さく口を開いた。
 滲む世界と、堪えきれぬ嗚咽をなんとかその時だけ呑み込んで。
 今はただ。
「……………はい」



 そう頷き、彼のやさしさに応える為に。