四 屯所の引越しはまだ肌寒さの残る、けれど春の始まりを予感させるようなそんな青空の日に行われた。 だがその日は風の方も強く、軽い荷が吹き飛ばされてしまわぬよう注意するのにてんやわんやと朝からひどく忙しく、びゅうと時折強めに吹く風に髪を巻き上げられ、袴の裾を煽られながら、 「え、ええと……あ、あと、何か忘れ物とかないですかっ!?」 いきなりの突風に負けてしまわぬよう、声を張り上げ、千鶴は懸命に荷造りへの最終確認をしていた。 「大丈夫なんじゃないの」 一番に返事を寄越してきたのは沖田だった。 やる気があるのだかないのだか……すぐに応えてくれたものの、その声は妙にあっけらかんとしていて、どうも真剣味に欠ける。とても真面目に答えてくれたとは思えない気軽さで、見慣れた笑みがその口許に意地悪く刻み込まれているのに思わず頬を膨らませる。 「もうっ、ちゃんと答えて下さい、沖田さん!」 「ええー」 だってねえと含みのある眼差しで、そのまま自らの肩越し、背後へと視線をやる。動きにつられ、千鶴もまた彼の視線を追った。そして。 「…………」 それを認めると同時に思わずげんなりとしてしまった千鶴に、 「……あれはあまり気にしないほうがいい」 沖田の傍らにいた斎藤がそっと静かな一言をくれる。だがだからと言って放ってはおけまい。ばさばさと頬に当たる、地味に痛い髪の攻撃に耐えながら、 「な、永倉さん……っ!」 怒声に近い、そんな声を張り上げる。 相手はこちらに気付くと、おっ! と楽しげに笑った。 大きく手を振る。それがどう見てもこっちに来いと言わんばかりな動きをしており、思わずひくりと頬が引き攣った。…別にそんな反応が欲しくて声をかけたわけではないのだが、それがちっとも伝わってないのは一体どういうことだろう。 思いながら、 「なんだ、お前もやりたいってか」 「………いえ、あの……違います」 誰もそんなこと、一言たりと言っていないのに、近寄っていった先――永倉に、気付けばそういうことにされていた。遠慮するなって! と、バシバシ背中を叩かれる。一応加減してくれてはいるのだろうが、それでも痛い。叩かれるたびに身体が前のめりになってうっかり転びそうになる。 「千鶴〜、助けてくれよ〜〜」 そんな千鶴に同じくらいどんよりとした様子で声をかけてきたのは、幹部の中でも一番年若く、そして割合と貧乏くじを引きがちな平助だった。石臼に倒れ込むようにして両腕をかけ、そこに顎を乗せて、若干潤んだようにも見える、そんな瞳でこちらを見る。 泣きそうだった。 とても今にも。 「な、永倉さん……ええと、な、何…やって、るんですか?」 そんな平助を可哀想に思いつつ……一応見ればわかったが、それでも敢えてそう訊いた。自分が訊かなければ誰も――この場合は沖田と斎藤の二人だが――意気揚々と杵を担いで佇む永倉の暴走を止める者がいないのだろうと思って。 「ん? 何ってそりゃあ……」 ああ――聞きたくない。 思った直後。 「餅つきだ!」 明るく、そして夏の日に浮かぶ太陽のような燦然とした笑みで永倉が笑ってそう答えた。あまりに見事な答えっぷりに、全身から思わず力が抜けた。 (だ、誰か……っ) 止める人はいないのか、この暴走。 思えど、幹部二人はやはり揃って素知らぬ顔だ。どうもこの一件にはこのまま我関せずを突き通す模様。いや、らしいといえば確かにらしいのだが。 「……餅つきなのは、あの……、見ればわかります」 「なんだよ。じゃあわざわざ訊かなくてもいいじゃねえか」 「いえ、だからっ……そうじゃなくてですねっ」 「千鶴〜〜」 餅をこねる合い取り役となっている平助が再び嘆きの声を上げる。―――大丈夫。その気持ちは充分わかる。 眼差しで応えつつ、 「だから……その、なんで餅つきなんですか…って思って」 もう一度そう問い質す。 「ん? そりゃまあ、引越しだからな。せっかくだから景気良くいきてぇじゃねえか」 今度も予想以上……否、ある意味予想通りな返答だった。 「……意味がわかりません、永倉さん」 浮かんだ気持ちをそのまま口にして告げる。すると、なんでだよ、と同じく永倉は唇を尖らせ、何故わからないんだといった顔でこちらを見返してくる。二人して、わからないのは何故だという顔で互いに互いの顔を見合わす。 もはや言うまでもなく実に滑稽で奇妙な光景だった。 「おい、どうだ、そっちのほうは?」 その時、天の助けとばかりに原田が姿を現した。 「左之さ〜ん!」 「もう終わったのか…って……おい、そりゃあ……何してんだ?」 「見ての通りです」 「餅つきだ!」 後を引き継ぐように高らかに永倉が叫んだ。そこに示し合わせたかのようにぞろぞろと他の幹部たちも揃って姿を現し、集合し始める。 「おぉ、なんだ、餅つきをしてるのか、永倉君。やあ、懐かしいなあ」 「だろ? 試衛館にいた頃はよく皆でしてたよなあ」 笑顔の近藤が、あっと言う間に永倉と意気投合し始める。何故餅つきかといった疑問はそこに一つとして浮かんでない。 浮かばないらしい。 顔を上げた。 「土方さん……あの……いいんですか?」 「俺に訊くんじゃねぇよ。あぁ……ま、近藤さんはこういう明るい行事もんが好きだからな。気にするな、あんまり」 言外に放っておいてやれと言われたような気がして、呆れ顔の土方をもう一度そっと窺い見、そして鬼の副長がいいと言うのであれば、それでいいかと黙ってその光景を眺めるに到る。 気付けば井上も島田も近くにいた。 そうして皆で引越し前の餅つきという―――おかしな事態に笑っていた。 賑やかな空気に千鶴も同じようにつとその頬が綻ばせかける。 だが途中でふと、 (あれ?) と、首を傾けた。 ぐるりと辺りを見渡す。 けれど――いない。 その人物の姿が千鶴の視界のどこにも映らない。常であったのなら不在でもしょうがないと思うところだが、今日は、彼もまた引越しの手伝いに駆り出されていたのだ。もう他もあらかた終わったようなのに、彼だけがこの場に姿を現さない。それがどうにも気になった。 「ん? なに、どうしたの?」 「あ、いえ……あの」 視線を彷徨わせたのはほんの一瞬のことであったのに、沖田がひょいと声を掛けてくる。 「へ…部屋に少し忘れ物をしてきたみたいで……その、ちょっと取りに行ってきますね」 本当は山崎を捜しにいくつもりであったが、言えば必ずからかわれるだろうとわかっていたので、適当な理由をでっちあげて慌ててその場より離れる。だがどうしたって聡い沖田のことだ。もしかしたらもうこれから自分が何をしに行くか、とっくに見当がついていたのやもしれない。 「……ふうん?」 何気なく打たれたその相槌にハラハラと胸を騒がせながら、 「じゃ、じゃあ、いってきます!」 と言って、もうすぐ離れることになる屯所の中を足早に走り抜ける。行く先は特に決めていなかった。……が、沖田に部屋に行くと言った手前、せめて自身の姿が彼らの視界より消えてしまうまで、これまで一年間、ずっと使用させてもらっていた部屋の方へと向かうしかない。 (……もうすぐ此処ともお別れ、か) 見慣れた風景を突っ切っていると、引越しという確かな実感、俄かな現実が急に強く胸をよぎっていった。 切々としたものが心にぽっかりと小さな穴を作る。 (寂しいな) やはり引越しは寂しい、と思った。もうこれは決まったことで、しょうがないことだとはいえ……この場所を離れるのがこんなにも寂しいと、改めてズキズキと胸が痛んで、ああもう、と振り払ったはずの感情に情けなく柳眉を下げる。 「こんな時、もし、山崎さんだったなら」 (どうするのかな。どう思うんだろう) 考えて、何の違和感もなくそう思った自分に驚いた。 だがだからではなかった。 驚いた――から、その困惑が自身の足をその場に縫い止め、立ち止まらせたわけではなかった。足が止まったのは、あてがわれたかつての部屋、その前の小さな中庭――そこに自分の捜し求めていた人物の背を見たからだった。 小さく息を呑む。 それから。 「山崎さん…?」 何故――そこにいるのと、囁くようにして名を呟いた。 すると山崎はまったく驚くそぶりもなく、 「……ああ、君か」 と、振り返ってこともなげに言ってくる。その様子を見るに、すでに気配で自分が来たと察知していたのかもしれない。 何かがパタパタと空を駆け上がってゆく…そんな音に反射で目を向け――あれは、と口を開いた。虚空を横切る、小さな小さな影。 「……鳥?」 それはいつかどこかで見たような光景だった。いつであったか。瞳を閉じて、頭の中の記憶を探る。 それを正しく探し当てることができたのは、「引越しが終われば……もうここにも来なくなるな」と。どこか独り言じみた声で呟く、そんな山崎の言葉を聞きとめた時のことだった。 思ってもみなかった言葉に驚いて首を巡らせる。 まさかそんなふうに山崎が引越しについて言うとは思わなかった。どう思っているかは確かに知りたいところであったが、それでも、そんな風に空を見上げ――、 「山崎……さん?」 そんな声で、言うとは夢にも思っていなかった。寂しそうだと思った。寂しそうに見えた。そう思うに足る、確固たるものなど何もありはしなかったが。 それ、でも。 「好き…だったんですか? 山崎さんもこの場所が」 彼は今とても寂しいのだと。飛んでいった鳥の行方を追うようにして空を見上げる山崎が、千鶴の言葉にゆるりと首を巡らせた――その瞬間に、なんとなくそう、確信的に思えて。 視線が交わる。そうしてから、短い肯定の言葉を聞いた。 「鳥の、世話を……少しばかりしていた。君の監視をしていた時、ふとした拍子に何故かそんなことになって。だが、やはり……寄せるべきじゃなかった」 何を、とは思わなかった。寂しげなその横顔は、千鶴に何を語らずとも全てをやさしく物語ってくれていたから。 これから引っ越す先に、そんな山崎が世話をしていたという鳥たちはこないだろう。一度は心を寄せた。それなのに、もう、自分たちはここを離れなくてはならない。それは仕方のないことだとはいえ、やはりとても寂しいことだった。……山崎の中の、別れを惜しみ、悲しむ気持ちがひしひしと千鶴に伝わってくる。 それは何気ない一瞬であったが、ひどくはっとする一瞬でもあった。今までどこか遠くに感じられていた山崎が、このとき初めて自身の間近に……とても身近に感じられ、何かを惜しみ、悲しむ気持ちは、たとえどれだけの時間であっても同じなのだと―――目の覚めるような思いで山崎をひたと見つめる。 (変わらない。山崎さんも、私も…) 思った時、遠くのほうで重たげな音が一つ、ドンと響いた。 一転してはっと我に返る。 「あれは?」 訝しげに山崎が言う。 ドン、ドン、と鈍く空を駆けてゆく音。続けざまに打ちつけられるそれに千鶴は一瞬だけきょとんとしたが、すぐにその正体に気付き、苦笑いを浮かべてみせた。 合い取りは果たして先と同じ人物だろうか。 思いながら、 「行けばわかりますよ」 尚も怪訝とする山崎に、笑って言った。詳しい説明は意図して省いた。それにしばし山崎は困惑していたようであったが、 「……そうか」 ややあって、わかったと小さく頷き、もう空は振り仰がず、背後を振り返ることもなく歩き出す。 凛と背を伸ばし、前だけを見て。 それにずっと……何気なく思っていたことだが、山崎のその姿はどこか斎藤と通じるものがあるなと思った。自分がそれに気付いたのは本当につい最近のことであるのだが。 (……やっぱり似てるかも) 二人は。だから気が合うのだろう。思って、また少し苦笑いを深める。そんなことにいつの間にかに気付いている自分がなんだかおかしかった。 「皆、待ってますよ。行きましょう」 苦笑いを笑顔に変えながら、だがどれだけ……どれほど斎藤と山崎の二人が似ていようとも、彼という人はこの世に一人しかいないのだと考える。 たった一人。 山崎烝という人はこの世にただ一人だけで。 そんな彼の名を、今、ここにいる自分だけが口にしている。 それは別段大したことではなかったが、そんな些細なことが何故だかひどく胸をあたためた。だからつい。 「雪村君……君が笑っている理由が、よくわからないんだが」 堪えきれず、つい声を洩らして笑い出した自分に、言って山崎が隠すことなく眉根を顰める。わけがわからないと、その表情が如実に彼の心情を物語っていた。当然の反応だ。しかし正直に答えるにはあまりにそれは説明しがたい。そう考えて、咄嗟に違うことを口にした。これもこれで、さりげなく気になっていたことなので。 「いえ……あの、ええと……ただちょっと思っただけです。西本願寺に行っても、私、また 山崎さんや他の皆さんに監視されるんだろうなって」 「当然だろう。君は新選組の…」 秘密を見たのだから、と。きっとそれはそう続く言葉であったのだろう。自分がここにいるのはそんな理由があってのこと。 けして聞こえのいい理由ではなく、それは寧ろ悪いと言っても過言ではない。けれど構わなかった。初めて構わないと思った。その理由があるからこそ、今、自分はここにいられる。 「だから」 山崎の言葉を遮り、先に口を開いた。そうすると胸を突く寂しさが大気に溶けるようにしてふっと消えてゆくのを感じた。 視界上部、僅かに映った空に、何かが横切り、流れてゆく。 鳥かと思ったが、結局千鶴はそれを最後まで見届けることをしなかった。 そうする前に、 「よろしく――お願いしますね。山崎さん」 空よりも、何よりも。 目の前の世界へと顔を向けた。 面食らったように山崎が驚きにその瞳を見開く。 それがおかしくてまた笑った。 今はただ、それだけで充分だった。 それだけで、いいと思えた。 (了) |