「山崎君?」
 不思議そうに見返されて、何か自分はおかしなことを言っただろうかと、ぎこちなく首肯しながら「はい」と頷く。
 するとますます不思議そうな、それでいて今まさにいたずらを思いついた子供のような喜々とした表情で。
「なに、君、山崎君のことが知りたいの?」
 楽しげにそう、重ねて沖田が訊いてくる。
 起き抜けのまだ結いの浅い乱れた髪が、軽く吊り上げたその口角の端にハラリと落ちる。それが花街の花魁よりも余程妖艶な風情を醸しており、思わず軽く息を呑むと、そんな思考を持った己を千鶴は俄かに恥じた。とんでもないことを考えてしまった。思っただけであるから相手にはばれてはいないだろうが、それでも、いくらなんでもそれはない。そして。
(微妙に……目のやり場に困るっていうか)
 馬鹿なことを考えてしまった代償であるかのように、正面から相手を見返せなくて地味に困る。
「どうしたの? ねえ、顔が赤いよ?」
 けれどそんな千鶴の動揺すらも見透かすように、笑んだまま沖田が言う。口調は既にからかい調子だ。
「なっ、なんでもありませんっ!」
「そう? そうかな?」
「そ、そうですっ!」
 今にも折れそうになっている会話を慌てて元に戻すべく、声を張り上げる。沖田相手にここで怯んではいけない。でなければ相手の思う壺なのは目に見えている。
「あ…あの、あのですね。だから、その、つまり、一応半年以上私は皆さんと一緒にいたわけなんですけど……この前の池田屋で、私、初めて山崎さんのことを知ったので……それで、」
 気を取り直しながらぼそぼそと喋る。
 つまり、だから気になったのだということを。
 名は山南との会話で知りはしたが、それ以上の情報は未だ一切自分の頭にはない。まあ、昨日の今日ではそれも当然、そうだろうとは思うのだが。
(でも……それにしたって、そもそも半年も、って)
 彼という、その存在自体を自分はまるで知らなかった。
 それはそれなりに新選組のなかにいて、ある種仲間のような連帯感を覚えつつあった千鶴にとって結構な衝撃的事実だった。
 独り善がりとは思うものの、疎外感が拭い去れない。さみしい、と思ってしまう。
「初めて……ああ、そういえばそうだね。初めて。うん、まあ、間違いではないかな。――で? 君は初めて会った山崎君が気になって、あの人は誰だろうって不思議に思ってるんだ?」
「……はい。そうですけど」
 若干何か引っ掛かる物言いだった。躊躇いを含みながら、しかしその通りだととりあえず沖田へと肯定の眼差しを向ける。
「へえ」
 途端、沖田が笑った。
 くつくつとおかしそうにその咽喉を大きく鳴らして。
(……わ、私っ、何か変なことでも言った!?)
 思いも寄らぬ反応に黙したまま一人千鶴は戸惑う。
 だがいくら思い返してみても特に笑われるようなこと……沖田が笑ってしまうような、そんなおかしなことを言ったつもりはなく、疑問に思ったそれをただ訊いてみただけのことだと重ねて思う。
 昨日のあの彼は一体何者なのだろうと。
 半年も一つ処に暮らしていて、昨日まで彼という存在、姿を、一度として見なかった。
 それはやはりどう考えてもおかしい。
 昨晩の山南の口ぶりから察するに、どうも隊の中でも特殊な、それでいてとても重要な任にあるように思えた。それに土方の信頼も厚いように見えた。
 そのくらい、山崎は他の隊士たちよりもやや一線を隔てた場所にいるように見え……ならばこそ―――自分とは出会う機会がどこかしらにあったようにも思うのだ。優遇されているようでいて、その実、平隊士より隔離され、隊の中心たる幹部たちとおおよそ共にいた自分ならば。
「まあ、そうだよね。普通驚くよね。あんないきなり背後から現われたりなんかしたらさ」
 まるでその場にいたかのように言われ、千鶴は驚きにえっと目を瞠った。
「どっ…どうしてそれ知ってるんですか?!」
(山南さんが言った、とか?)
「あはは。驚いてる、驚いてる。千鶴ちゃん、君、ほんとわかりやすい反応するよね」
 素直だよねと言われ、そこに至って初めて千鶴は自身が沖田によって鎌にかけられたのだということに気付いた。
 失態に顔が赤くなるのがわかったが、瞳に非難の色を浮かべ、猛然と沖田を睨むも、当の沖田は飄々と、特にどうということもなくそれをさらりと脇に受け流す。あまつさえ。
「残念、見たかったな、その時の君の驚いてる顔。……と、あと山崎君の仏頂面もね。山南さんが一緒にって言った時に、彼、きっとものすごく嫌そうな顔したと思うからさ」
「――――」
 本当に。
(な…なんて)
 影でこっそり見ていたとしか思えぬほど的確にその時の状況を言い当てられ、二の句が継げず、言葉をなくす。愉悦に富んだ表情の沖田が、そんな千鶴を見てまた一段と深い笑みを零す。
 もはや何と言って返したらいいのかわからない。わからなかったが……。
「―――もうそのくらいにしておけ、総司」
 そんな千鶴の慌しい心を落ち着かせるよう、ふいに声が室内に響いた。
 広間にもう一人、新たな人物がその姿を現す。
「さ、斎藤さん……」
 目を剥いて驚くも、大した感慨もないように斎藤はいつも通り物静かに広間へと入ってくる。
(い、一体いつから――というか、また!?)
 その光景に、いつぞやもこんなことがあったのを思い出す。
 あの時も沖田にからかわれているとき、やはり今とまったく同じように斎藤が合間に入って助けてくれたのである。
 今回もまさにその流れ。
 自分があまりに学習能力のない子供のように思えて、気恥ずかしさにかっと赤面した。ああ、こんなふうだから沖田にいいようにからかわれるのだ。いつもいつも、こうやって他愛もないことで至極あっさりと。
 居た堪れなさに悶々としていると、
「彼は」
「……は、はいっ?」
 顔色を青くしたり赤くしたりと忙しい千鶴へと、いつの間にか斎藤の瞳が思慮深く向けられていた。そのまま水底を覗くようにじっと見つめられる。その真剣さに、何か、と思っていると、やがてゆっくりと斉藤は口を開き、
「……彼は、新選組諸士調役兼監察の任にある者だ。いつも調査などで多忙にしている。 あまり滅多なことでは表に出てこない。故に、あんたが知らずとも別に不思議なことではない」
「し、新選組諸士…?」
 訥々とだが、丁寧に告げられ、聞き及びのない言葉に目を白黒させる。そんな千鶴へと、ぽん、と今度は沖田がその手を軽く頭の上に置いてきた。
「――調役兼監察。つまり隊の内部監察や諜報活動なんかを主にしてるんだよ、山崎君は」
 咽喉を鳴らしながら、「だから」と、その後を続ける。瞬間、何かひどく嫌な予感が千鶴の胸を引っ掻いた。何を言われるのかと皆目見当もつかぬのに、自然とその頬が沖田の言葉を警戒し、強張る。
 ふっといっそ優しげに沖田は笑った。
「だから、さ。君の監視も実は時々山崎君がしてたんだよね。さっき君は初めてって言ってたけど、本当はもう何度も会ってるんだよね。単に君がそうと気付かなかっただけで」
「――――」
 気のせいであって欲しかったけれど、目前の嫌な予感が見事に的中する。必中したともいえた……というより、それは正しく「会った」と言うのか。
『―――確か、雪村千鶴君だったな』
 昨晩の低い山崎の声を思い出す。
 まるで品定めでもするかのように一瞥され、警戒心を隠すことなく自らの名を鬱蒼と紡がれた。
 だから一応。
(名前、は……覚えてもらってたみたいだけど)
 けれど、そのような前から自分が山崎にも監視されていたとは今初めて知った。
 そうしてみれば、幹部の誰も、監視役として自分のもとに訪れぬ日は確かにこの半年間のなかで幾度かあった。だがそれは自分の視界にいなかったというだけで、どこか見えぬところできっと監視は続いているのだろうと安易にそう考えていたことだった。そしてそれは――その、見えないところで監視というそれだけは――期せずしてその通りであったようだが。
(まさ……か、まさかそれが)
 山崎烝。
 彼であったとは。
 夢にも思わぬ、思いがけぬ事実の露呈に数多の記憶が今になって頭の中を走馬灯のように駆けてゆく。
(へ、変なところ見られてないよね!?)
 姿が見えない、ということで多少なりと気を抜いていた時もあったはず。多くはないが少なからずそれは確実に。
 ――特に。
(こっ、この前とか…っ)
 夕焼け空を見て子供のように泣き出してしまった自分。
 あれを思い出し、内心で大きく悲鳴を上げる。
 顔が見る間に熱くなっていく。あれをもしかしたら見られていたかもしれない。そう考えるだけで、羞恥が我が身を激しく焼いてゆく。内側からも外側からも。夏の日差しにじりじりと照らされ、ありったけの水分を搾り取られるかのように。
「あれ? 赤くなった」
 どうしたの、とひどく楽観的に沖田が言う。それがやたら白々しく耳に届くのはきっと気のせいなんかではない。
 自分が今、何を思ってこんなにも動揺しているのか――。
 観察眼にも長けた沖田のことだ。およそ彼にはあらかたの想像がついている。わかっていて笑っているに違いなかった。
「〜〜〜っ!」
 多大なる羞恥と憤りがないまぜとなって、けれど言うに言えない、そんな激しい葛藤がそれらを全て、胸の内に押し込め、千鶴より言葉という言葉をすべからく奪っていく。何かを言いたいのに、何も言えない。うう、と咽喉の奥で唸るそればかりがぐるぐると巡る。
「総司」
 たしなめるように短く。
 斎藤がふいに声を放った。
 制止めいたそれに、いたずらが見つかって驚いたような顔でぱちりと沖田は軽く瞳を瞬かせる。
 そうして若干の間を置き、「……残念」と、隠すそぶりもなくその二文字を千鶴の前で堂々と晒し、吐きながら、
「――というわけで。知りたいことがあるなら、本人に直接聞けばいいんじゃないかなって、これはそんな話だよ」
 最後にしれっとそんなことをのたまう。
 無論、その顔にあるのはひどく含みのある満面の笑みだった。
「お……沖田さんっ!」
 ようやく声が出た。
 が、思わず甲高くなったそれに、
「ん? なに?」
 そう微笑みながら軽く首を傾げられて。
「っ!」
 馬鹿とか、馬鹿とか、馬鹿とか!
 叫びたいのに、そう思って叫べるほどの勇気はなく、泣きたい気持ちで、「〜〜〜〜失礼します!」と、乱暴に言い放って踵を返す。自分にできたのは実にそれくらいのこと。
 やがて屈託のない笑い声が背後から軽やかに響いてき、そこにやれやれと言わんばかりな溜め息が折り重なる。どちらがどちらのものなどもはや言わずもがな。
(うううっ、もう!)
 またいいようにからかわれたという意識と、どうして意地悪をするのだという、絡まる思いに挟まれながら、身を翻してどこに行くでもなく千鶴はその場より走り去る。敷地内は出ないが、まるでそこから出てゆくような勢いで。
 それを止められない――勝手には出て行かないと信じてもらっている――そのくらいにはもはやすっかりこの屯所と、新選組の面々に自分という存在が認められている、信用してもらえているのかと、そう考えるとそれはそれで嬉しかったけれど、沖田の所業には心中複雑とばかりに憮然とした膨れっ面を作る。
まったく。
(なんて人)
 人をからかってばかり、面白がってばかりで。
「もうっ……意地悪っ!」
 思えば、そうだよ、と笑う声がどこからか聞こえたような気がして、忙しく駆ける足をしばらく千鶴は止めることが出来なかった。