そして――。
「あれ?」
 はた、と。
 我に返って千鶴がその足を止めたのは、ちょうど屯所の裏門、その近くに揺れ動く人影を見い出したときのことだった。
 不審者、或いは侵入者かと思い、ぎくりとする。一応千鶴も護身程度には剣は扱えるつもりだが、それでもこの屯所内にいる面々ほど優れた腕は持ち合わせていない。
 それはこの場所に入り込もうとする、そんな人間に対してもきっと同じことが言えるはずで――でなければ軽々しくこの場所に忍び込もうとするものか。そして仮にそうした相手と対峙したとき、自らが敵うはずもないことを千鶴は自身でそれをよく理解していた。それゆえに自然と足が竦んだ。
 しかしここで怯え、反応が遅れてしまったことでもしも屯所内に何か取り返しのつかぬことが起こったらと考えたら、尻込みしそうになる己を精一杯叱咤することしかもう千鶴の頭にはなかった。
(だっ、大丈夫…!)
 そのまま息を詰めて慎重に歩を進める。
 相手に気取られぬよう、気付かれぬよう。
 そうやって音もなく―――
 と。いきたかったが、こわごわと足を前にやった途端、床板がギイと軋む音を立てた。
(っ!)
 隠しようもない耳障りなそれにざっと血の気が引いた。
(な、なにも、こんな時に鳴らなくてもっ)
 泣きそうになりながら千鶴は件の裏門へと慌てて首を巡らした。どうか相手が気付いていませんように。そう、一縷の儚い望みをかけて。
 けれど。
「――――」
「――――」
 目が、合った。
 共に無言で。
 相手も若干驚いたような様子で。
 真っすぐに、虚空で互いに互いの視線が確かに絡み合う。
 そうして向かい合っての、一呼吸後。
 不審者がまだ年若い男だということに気付き、そんな悠長にしていられる場合でもないのに、千鶴はその事実に目を丸くし、驚いていた。
 なにせ、もっと屈強そうな男の姿を想像していたのだ。
 ここに忍び込もうとするのならばそのくらいは普通にありえると。だが相手は寧ろ痩身とさえ言える、そんな細身の体型で、屈強とはとても言い難いそんな体型…。
 なにか肩透かしを食らったような気分のまま、しなやかな新芽色の着物を羽織る、相手の姿を言葉なくじっと見つめる。
 男は身綺麗な格好だった。
 不審者と疑ったのが俄然、失礼に思えてしまうほど。
 咄嗟に誰かの小姓かと考えた。けれど小姓がついている人間などここにはいない。近い立場にあるのはせいぜい自分くらいなもので……、となればやはり不審者か。
 意志の強そうな、それでいて少し冷たさが窺える鋭い目元が、千鶴を見て細められる。まるでそれは見咎めるように。或いは、睨むように。
(え……え?)
 それに驚きながらも何か引っ掛かるものがあった。
 何か。…何だろうか。このもやもや。心のなかで何かの琴線がピンと弾かれ、前に引っ張られる。どうにも判然とせぬまま、まんじりとした一瞬がしばし過ぎ、
 やがて。
「だ――誰ですかっ、あなた」
 振り絞った勇気を軒並み注ぐようにして、ぐっと相手のことを睨み、千鶴は声高に叫んだ。いざとなったら脇に差した太刀を抜く、そんな覚悟を胸に潜ませて。
(怖いけど……でも、でも――!)
 本当の本当に、いざとなったら私だって!
 そんな決意を改めて固めていたら、ふいに場の空気がふつりと緩むのを感じた。……いや、途切れたと言ったほうがそれは正しいか。気付けば鋭かった相手の眼光がひどく呆れたふうなものに変わっていた。
 思わぬ反応に躊躇い、え、と困惑していると、
「君に……誰と咎められる覚えはないと思うが、雪村君」
「……は?」
 嘆息まじりに何かを言われた。
 理解するよりも早く、相手が再び口を開く。
「それに問い質したいのはこちらのほうだ。何故こんなところにいる? 君に宛がわれた部屋はこことは別の、反対方向だろう」
「…………」
 若干。
 声に聞き覚えがあった。
 しかもつい最近。ごくごく最近。……とても身近で、そしてとてもとても切羽詰った状況下で。
『雪村君』
 自分をそう呼んで――呼んだ人が、記憶の一番真新しい所に。
思った直後にあっと息を呑んだ。途端に強烈な記憶が頭の中の疑問符を蹴散らかすように転がり込んでくる。
「や……っ」
 それは覚えがあって当然。千鶴の記憶に残っていなければ確かにおかしい。でなければ、本当に―――
「山崎さんっっ?!」
 自分、は。
 なんて薄情者なのか。
 やっと相手の正体に気付き、悲鳴じみた声でそう叫ぶと、山崎が不機嫌そうにその眉根を潜めた。刻まれる皺にうっと怯む。
「そうだが……君の声は耳に突き刺さるな」
「――――!」
 呆れた返しが容赦なくざくりと身に食い込む。だがしかし何の反論もできない。否、できるわけがない。いくら相手が忍び装束だったとはいえ……昨日の今日で、すぐに正体に気付けないというのはあまりに失礼がすぎる。あまつさえ、誰か、と偉そうに誰何までしてしまった。山崎が気分を害するのも至極当然だ。新参者が生意気な口を利いた。ひどい罪悪感に見舞われながら、頭を低くし、千鶴は慌てて謝罪の言葉を口にした。
「す、すみません、山崎さんっっ! あのっ、わたし!」
「……別に謝らなくていい。それよりも俺の質問に答えてもらいたいのだが」
「は、はい…っ!」
 その物言いにやはり山崎は任務をなにより優先し、大事にする人なのだと揺らぐ思考の端でそんな認識を何気なく固める。改めてそう深く思った。男の身に纏う空気の固さ、鋭さは、千鶴と接する今の幹部たちにはあまりないものだ。いや、元々あったものが、今は少々彼らの中で薄れてしまったというべきなのだろう。
 だがしかし山崎は違う。
 背負う肩書きがそうだからそうしているのではなく、単純に彼は自分を部外者と見なし、警戒している。だからこうも素っ気無いのだ。気付いたその事実に僅かに心が軋む。
 もう半年。
 まだ半年。
 皆の信頼を得るほどの時間が経ったとは確かに言い難く、その曖昧な立ち位置に張られた境界線には、未だ若干の苦さがある。自分の立場を思えば、山崎の反応は特に何も間違ってなどない。
 多分、これが普通。
 本来はこうあるべきなのだと、納得を胸に、千鶴はおずおずと控えめに口を開いた。質問に答えるべく。
「さ、さっきまで……あの、広間にいたんです。そこで沖田さんや斎藤さんと少し話をしていて、」
 それで……と言いかけ、そこでもう一度はたと気付いた。
 この先、自分は何と言ってそれを説明するつもりなのかという、遅すぎるその理解に。
(や…山崎さんのことでからかわれて、逃げ出したら、ここにきちゃったんです、って?)
 端的に言えば嘘偽りなくその通りなのだが、しかしそれを当の本人に直接言えというのは、
(は、恥ずかしいんですが!)
 言えるはずがない。
 わざわざ、そんな、気恥ずかしいこと。
 別に含むところは何もないが、巡った羞恥に思わず口ごもり、戸惑う視線を意味もなく宙に彷徨わせる。すると何気なく放った視線の先に山崎の一つ括りにした長い髪が映り、かねてより新選組の人たちは髪の長いひとが多いな、と思っていたことがふいに意識に浮上してきた。
 それは取りとめもなくぼんやりと思っていたことだが、山崎もそうであることに昨晩はどうして気付けなかったのか。
(昨日の……夜は)
 暗かったのと、ただもう必死であったのとで、それに気付く余裕、余地など一切なかったのだと、考えてみればだからこそ自分は目の前の彼のことを知りたいと思い、衝動的な行動に出たのだということをぐるりと思考が一回転したのち、唐突に思い出す。
 それが、最初の出発地点。
(知りたいことがあるなら、本人に直接聞けば―――)
(これはそんな話だよ)
 愉しげな沖田の声が脳裏で重奏を奏でる。
 ああ、その通りだ――今、そんな「本人」がまさしく自分の目の前にいる。質問があれば言えと言わんばかりにそこに佇んでいる。昨日まで……この半年もの間、一切その姿を見せなかったひとが。
 今、こんなにも簡単に。
「……どうした? 気分でも悪いのか」
「え? えっ、あ、いえっ、大丈夫です……っ」
 考えながら、どうも髪を凝視しすぎてしまっていたらしい。
 山崎の不審の眼差しに慌ててかぶりを振って何でもないと口にする。
だが怪訝そうな光はすぐには消えない。じっと見返され、ますますもって窮地に立たされたような気分になる。早く、早く何か言わなければと一層焦燥が募った。
 けれど。
(な、なんて言えば……?)
 わからない。
 思ったとき。
「気分が悪いのではないのか」
 胸の内をするりと滑り落ちてゆくような、穏やかな一声が千鶴に向けて放たれた。特に尋ねているふうでもない。強いていうならば確認を取るかのような。驚いていると、
「…何も問題がなければそれでいい」
 まるで自分のことを心配するような言葉を続けて聞いた。
 そして千鶴が突然のことに唖然としている内にそのまま踵を返し、その場より去ろうとする。
 それはひどく自然な流れだった。千鶴の驚きも、戸惑いすらもそうして攫ってゆくように。山崎の動きに空気が揺れ、大気がその道筋を作る。
 その背が、歩み始める。
 遠ざかる。
(あ…――駄目、)
 何故そう思ったのか。わからないままに、流れて、遠ざかろうとしていた空気を半ば強引に掴み取る。
「あのっ! 山崎さんっっ」
 自らの身に。近くに。強引に引き寄せて、千鶴は素っ気無い背がやがてゆっくりと振り向いてくれるその光景を目に入れる。
 無視されなかったことにほっとするも束の間、こちらを見返す瞳は当然のように多くの不可解さを宿すものだった。
「なんだ」
「え……ええっと」
 端的に問う声、眼差しに、ざっくりと射抜かれ、言葉に詰まる。
 けれど…今を。
 振り返って、自分の言葉を待ってくれているこの瞬間を、逃してはならないと胸の奥で木霊する声がある。まるで本能のように。
 なんとか気持ちを振り絞って千鶴は口を開いた。昨晩からずっと。今朝からずっと。山崎のことを聞いて回っていたことの一つに。
 どうしても。
「きっ、昨日は! あ…ありがとう、ございまし、た。山崎さんのおかげで、無事土方さんたちとも合流できて……皆、多分すごく助かって……あの、私も……いろいろ山崎さんには助けてもらって、本当に…本当に…、あ、ありがとうございました!」
 この礼だけは―――必ず伝えなければという思いが、強く心にあった。
 勢い良く頭を下げると足の裏で再び床板の軋む音がした。
 ギシリと老朽化した廊下に物々しく響く割れた音。そのあとにはしばしの静寂――、
沈黙が降りた。
 それは何と形容していいのかわからない、戸惑いばかりを多く含む沈黙で、山崎がどんな人間なのかも未だよくわからない千鶴にとってはとても反応に困るものでもあった。
 そこにどういった、どんな気持ちが横たわり、置かれているのか。山崎のことを知らない千鶴がそれをわかり得るはずもない。
 ただそれでも。
 軽く、ああ、とでも言われ、これはそれで終わるようなものなのだろうと心のどこかで思っていた。
 そのくらいのことだろうと。
 きっとそうなる。
 そう思っていたのだが。
「……あれは」
「え?」
 ふいに。
 ひそりと囁くような静かな声を聞いた。思わず顔を上げる。
 その途中。そうする間に。
「あれは、君のおかげだ」
 はっきりと断ずる、凛とした声を聞いた。
 瞬きをしながらそれを耳にする。何かを認めるようなそれ、まるで感謝するような柔らかいそれを。
「あ…の?」
 何を言われたのかすぐにはわからなかった。
 理解が追いつかず、逆に一瞬思考が止まる。けれど山崎はそんな千鶴の様子にもなんら構わず先を続ける。訥々と、淡々と。静かに。それでいて芯の通った声で。
「君は……隊のことを思い、頑張ってくれた。昨晩のことで礼を言えというのならばそれは俺のほうだろう。……ありがとう、雪村君」
 しんとした言葉に、ようやく理解が脳に辿りつき、じわじわと浸透してきた。途端、一気に冷汗が背筋を伝った。
「え…! い、いえッ、あの、そ……そんな、こと」
 真摯な瞳を真っすぐ手向けられ、その強い視線にしどろもどろに口ごもる。もはや自分でも何を言っているのかわからない。
 あまりにも突然のことに、とめどない緊張が津波のように押し寄せてきていた。気持ちばかりがやたらと急く。
 早く――、ああ、早く何かを言わなければ。
 先ほども思った、そんな衝動が再び千鶴の咽喉元を震わせる。
 何かを、早く。彼が待っている――だが何を? 一体、何を言えばいいというのだろう。
(だって)
 安定を欠く思考に、先と同じく、恐れ多いばかりの言葉と動揺が押し広がってゆく。褒められて嬉しいと思うよりも慄く気持ちのほうが俄然強かった。気持ちが沈む。だって、のあとにそれは続くものによって。
「そ、んな…………頑張った、なんて……言えません。そんなことないです。私は何も、池田屋に行ったときだって、ただ傷付いた隊士の皆さんをみて、励ますことしかできなくて」
 何も助けにもなれなかった。
 俯いて呟く。そうして胸元で握り締めた、そんな自らの手を見返した。綺麗な手だ。礼を言われるようなことなど何一つしていない手…。
 人並み以上に剣が扱えるわけでもない。
 抜きん出た体力があるわけでもない。
 剣は、出来てせいぜいが護身程度。体力は人並みより僅かにあるかないか、その程度の微妙なもの。新選組の中においてこれらの事実は何の役にも立たぬものだろう。役立たずとまでは自嘲的すぎてさすがに思わないが、危機に瀕して足手纏いになることはあっても、役に立てるような技量など自分には何一つない。持ち合わせていない。そのことだけは確か。
 それを山崎も知っているはずだ。だから安全は保障できないと言った。昨晩。千鶴の身体能力、それらを全て理解し、推し量った上で。
「雪村君」
 名を呼ばれて導かれるようにして顔を上げた。声が、そうするように千鶴を呼んだ気がした。
「……はい」
 澱んだ気持ちのままに返事をする。
 瞳を向けると、揺るぎない、強い意志の光を映し込んだ山崎の眼がこちらを向いており、それは新選組においてほとんど足手纏いでしかない自分に対し向けるものとしては、あまりに分不相応なもののように思えた。
 自分は、そんなふうな瞳を向けてもらえる人間ではない。それは、確かだ。今言った通り。何もできなかった。そんな自分を、誰より自分自身がよくわかっている。
 だが。
「君はどうしてそんなことを言う」
「え?」
 向けられた目の前の瞳には、そういった、千鶴が自分自身を切なく思うような諦観の翳りはまるで見当たらなかった。
 ただただ真剣に見つめ、
「君は、昨晩自ら進んで俺達の力になろうとしてくれた。君が頑張ったことは、共に行動した俺もよく知っている」
「でっ、でも。そんなの、だって……大したことじゃありません。山崎さんがずっと背後を守ってくれてたから、だから出来たことで……私一人だったら……きっと土方さんたちに追いつくことさえできなかったはずです」
 その確信は自らの胸を真っすぐに貫いた。
 言って改めてそれを痛感する。いくら力になりたいと思っても、結局自分のそれは、誰かに守られていなければできなかったことなのだと。
 自分だけの力ではけして成し得なかったことなのだと。
 皆の役に立ちたいと切に願っているのに、願うばかりでけして叶わない。
 目の前の動かし難い現実がそれを固く阻む。
 そんな歯痒さや悔しさが、やがて自らへの失望となって心に降り積もってゆく。自分はこの十七年間、ずっと父に守られ、周囲の優しさに助けられ、労わられて日々を安穏と過ごしてきたのだと……昨夜、初めてそれを自分は強く意識した。この世界では彼らのように死と隣り合わせに生きている、そんな人が数多くいるのに。
(でも……それでも私は)
 そうやって気付いてさえも、結局無力な自分はどうしようもないのだ。
 どうにもできない。ただ願うばかり。思うばかりで、何一つ、戦う彼らの力になれていない。それは助けではないだろう。役に立ったとは言わない。……到底言えない。
「だから私は何も…」
「――――していない。と言うのであれば、君はそもそも屯所を出ていなかったはずだ」
 思考を遮るようなその強い口調に、反射で顔を上げ、相手を見る。そこにあったのは先といくらも変わらぬ山崎の顔だった。
 その面差しの厳しさは変わっていない。
 変わっていないけれど…。
「君が、一体何を気にしているのか知らないが……物理的な力、剣技だけを差して言えば、確かに君は強いとは言えないだろう。戦いの中において苦しい戦況に置かれれば、それを突破できるほどの強さは持ち合わせていないだろう。だが、君に剣の才がなくとも、昨夜君はそれでも屯所を出て、隊の為に尽力しようとしてくれた。最初はどうなることかと思ったが……今では感謝している。君のおかげで助かったと」
 再度の感謝に絶句に近い勢いで目だけを大きく見開いた。そうしなければ、今聞いたばかりの言葉が全て夢の中の出来事のように思えてしようがなかった。
 驚いた。
(山崎さんは……任務が最優先の、どこか冷たい……そんな人だと思ってた)
 けれど――今。
「それでも……それがわからないと言うのであれば、君は、君自身をもっとよく知るべきだ。この世に人を強い、弱いと定めるものが数多くある、そういった剣を持つことだけが力の全てではない、君自身の持つ強さ、尊さを」
 たった今。
 とてもではないが、そんなふうには思えぬばかりの言葉が大量に彼の口から飛び出してきている。言われるたびに、じわりと指先に仄かな熱が灯る。
「君は、君を知るべきだ」
 聞きながら、何も言えなかった。相槌すらも打てない。聞いて、ただ立っているだけで精一杯だった。
「…どうした? 顔が少し赤いようだが……まさか熱でも」
「いッ、いえ! なんでもっ、なんでもないですからっ」
 そんなふうに、あまりに惚けていたからだろう。
 ふと気遣わしげな眼差しを唐突に山崎が寄越してきた。心配する光に慌てて居住まいを正し、大仰なほど手を振って、平気だと告げる。だがどうしても顔だけは直視できず、すぐさま視線は逸らした。
「あ、あの……」
 ややってあってから蚊の鳴くような声で。
「色々……ありがとう……ございます」
 ぼそぼそと、けして聞き通りが良いとは言えぬ、そんなはっきりとしない声で改めてそれを口にした。それ以外に他に何も言う言葉が浮かばなかった。あまりに沢山の言葉を受けて、消化することで必死だった。だが対して山崎はというと。
「ああ」
 と、あっさりとただそう一言だけ。
 言って、それ以上深くは何も言ってこようとはしなかった。
 けれどその一言が思う以上にあたたかく千鶴の身に染み込んでいった。山崎は確かに言葉少な人間である。だがそれでも、今、確かに自分が彼によって励まされたことだけはわかり、
(これが……山崎さん)
 この人はなんて真っすぐに人を見、語るのだろうと、千鶴にそんな理解を一つ、促した。