元治二年 二月――


 そんなことがあっての、それはまだ寒い、ある冬の日のことだった。

「八木さんたちにも世話になったが、この屯所もそろそろ手狭になってきたか」
 土方の提案により、急遽新選組は屯所の移転――即ち、引越しを行うことになった。
 移転先は西本願寺。
 告げられて周囲がざわめく。それを聞きながら千鶴だけが一人きょとんとしていた。騒然とする空気の中で、笑う沖田や、確かにあの寺なら充分広いなと納得する原田の声を聞く。だがそのどれも一様に相手先に嫌がられるだろうとの見解を異口同音と述べていた。
 あまりに確信として紡がれるそれに、理由がわからず千鶴は軽く首を傾けた。
「……そんなに、嫌がられそうなんですか?」
 先だっての禁門の変。
 そのときとはまた違ったざわつきようにどうにも気になり、おずおずと尋ねる。そんな落ち着かぬ千鶴の胸中を見取ってか、最初に応えてくれたのは斎藤だった。
「西本願寺は長州に協力的だ。何度か浪士を匿っていたこともある」
「ええっ」
 淡々とした口調でさらりとそんな驚くべきことを言う。
 西本願寺は長州の味方をしている。
 それはつまり、新撰組にとって西本願寺はある意味敵地、ということだろう。そんな場所にわざわざ厄介になろうと言うのだ。確かにそれは西本願寺側も嫌がるに違いない。
(長州の味方をしている場所なんて、なんだか居心地が悪そう……)
 なのにどうしてわざわざ。
 周囲の動揺にようやく追いついたものの、新たな疑念がふつりと湧く。黙ったままでそう不思議に思っていたのだが。
「……向こうの同意を得るのは、決して容易なことではないだろう。しかし我々が西本願寺に移転すれば、長州は身を隠す場所をひとつ失うことになる」
「あ……!」
 そこに更に斎藤の言葉が続いて、その解説に思わず目を見開いた。その勢いですごい、と続けて素直に感嘆した。西本願寺に移転すれば、広く、立地条件が良いというだけでなく、そういった敵側の動きも自然と抑えられるということに。
 周囲を見渡せば他の者はすでにそれを承知の上で聞いていたらしく、特にこれといった反応らしき反応もなく、黙って斎藤の話に耳を傾けていた。
 考えの深さに改めて驚きながら、それから苦言を呈する山南や、新たに新撰組へと入隊してきた伊東参謀、土方らの肝の冷えるやり取りの後、最終的に引越しは執り行われることとなった。
 一年ばかりの時間を過ごした場所との急な別れ。
 それはもう決まったことで、覆ることでは決してないのだろうが、最近では自分の居場所のようにも思えてきた屯所よりの引越し。
(そうか……此処とももう)
 慣れ親しんだ場所を離れるといった事実は、しようのないことだとはいえ、千鶴の顔を僅かに曇らせた。
(そっか……)
 寂寞としたものに身を埋めながら、周囲に気付かれぬよう、そっと淡い溜め息を吐く。
 引越しは明後日。
 それまでに各自準備を整えておくようにという土方の指示が、俯く千鶴の耳に至極はっきりと聞こえてきた。





「よし。これで、いいかな」
 早々に出来上がった荷を部屋の隅に置き、ふうと一息つく。
 それから、一年近く一つ処で過ごしてきたというのに自らの所持品の少なさに千鶴は小さく苦笑いを零した。
 年頃の娘であるなら、そこに化粧箱の一つ、そして簪などの装飾品の幾つかも加わり、荷に華を添えていたのだろうが……。
 隊の規律を守る為に未だ男装中の千鶴にはそんなものは無用の長物でしかない。
「まあ、あっても嵩張るだけだしね」
 つくづく、辺りを歩く町娘とは完全にその道を違えてしまったように思う。
 そんな現実に更に苦笑いを深め、
(だけど父様……私、後悔はしていません)
 父を見つける為に単身江戸から出てきた。出てきたその日に土方らに身柄を拘束された。今思えばそれも運命だったのかもしれない。そのおかげで、未だ消息不明の父を追うことができている。
 皆が励ましてくれなければ、もうとっくに、自分一人では諦めていたかもしれない。皆が大丈夫だと声を掛け続けてくれたからこそ、自分も父との再会を願い続けることができた。
「あれから一年、か……。早かったな」
 気付けばあっという間の一年だった。
 男として過ごすことで多少の不便、不自由は確かに過ごした日々のなかにあり、それは今でもあることだが、そのどれもが結局は自分が望んで、選んだ道である。最初はなし崩しであったものの、納得は、もう大分前に済ませている。
「さて、と。あとは他の皆のところに行って、何か手伝いでもしてこようかな」
 平隊士の前にはあまり長々とその姿は晒せないが、素性を知られている幹部の面々と過ごす分には特に何の問題も無い。
 立ち上がって呟きながら、おそらく永倉や平助らの二人は、未だうまく荷が纏まらず、喧々囂々とした悲鳴を上げているのではないかと考える。そうしてそつの無い他の幹部たちは、それを見て、助け船を出すどころか、からかって楽しんでいるような気がする。
(主に沖田さんや原田さんが)
 そんな光景が自然と頭のなかに浮かんできて、
「やっぱり、仲が良いよね」
 親愛の情があるからこそ遠慮がない、他愛もない想像にくすくすと笑い声が洩れた。
 手をかけ、襖を開けるとそんな千鶴の視界に赤々と燃えて広がる、大きな夕日が飛び込んできた。
 幼い頃は不安のままに見上げることの多かった夕焼け空。
 だが今見ると恐ろしいと思うようなものは、どこにも、何もないように見えた。どうしてあんなにも恐ろしく自分は思っていたのか。ただその不思議ばかりが今は胸を揺らす。
「綺麗な夕日……」
 呟けば、寒さはあれど、その空に自然と頬が綻んだ。
 一年近く過ごしたこの場所を離れるのはとても別れがたく、寂しいことであるが、皆と共に――一緒に行けるということはとても嬉しいことでもある。それは監視という制約があってのことで、自分がついていっても、隊にとっては大した役にも立たぬことだとは重に承知しているが。
(それでも)
『……ありがとう、雪村君』
 そう言って、自分を認めてくれたひとがいる。
 雪村千鶴という個人に言葉をくれたひとが。そういった諸々の事実は、自分に前に踏み出す勇気をくれた。
 例を挙げてしまえばつい最近の禁門の変がそれに当たる。
 あれも山崎と話していなければ、きっと行きたいとは、思っても口に出しはしなかっただろう。足手纏いになるのがおちだと早々に諦めていた。
(……うん。山崎さんの一言がなかったら)
 あの一言があったからこそ、役に立たないとわかっていても力になりたいと動くことが出来たのだ。
 思い出して小さく微笑む。
 そしてその笑みを浮かべたまま、ありがとうございますと胸のなか、そっと小さく囁き、今ある目の前の一歩を踏み出す。
 ギイ、といつぞやと同じように足の裏で床板が軋む音を立てた。老朽化の進んだ床がギイギイと続けて鳴き声を上げる。そうして千鶴の歩みのあとをまるで追いかけるようについてくる。
(なんだか新選組の皆と私みたい)
 自分はこの床板の音で、彼らの行く先を必死で追いかけている。その理由は、きっともう、父のことだけではない―――。
(春になれば……)
 ギイと床板が鳴る。ギイギイと追いかけてくる。歩む自分の、進む先を求めて。それがこれから一体どこに行き着くのか。まだそれはわからないけれど、
(春になればきっと父様も見つかる。新しい屯所でも今みたいに皆と楽しく過ごせるよね)
 赤い空に笑みを浮かべたまま千鶴は歩みを進める。
 夕焼け空は本当にとても綺麗な色をしていた。