(それはたった一つのことを、多くのことを)


【君を知る 】






元治元年 六月――

 気付けば暑気のうねりが徐々に我が身へと及びはじめる、そんな時期になっていた。
 誰もいないその部屋でどこか亡羊と座り込んでいた千鶴は、ある瞬間、ふいに眉根を下げると、はあ、と淡いながらも重い溜め息を零し、
(…………暇)
 自らの置かれた状況がそのたった一文字で表現されてしまう、そんな物悲しさに顔をしかめると、何も時間に追われていたわけではなかったのだから、こんなにも早く仕事を終わらせるのではなかったと俄かな後悔を募らせた。
 そうして後悔が幾度も頭をもたげるなか、苦々しく、そんな今朝から今に至るまでの自らの行動……否、工程について改めて思い返してみる。
 まず朝には食事の用意と片付けをした。
 そして次は昼食の用意。と、そのまた片付け。
 昼を過ぎてからは暑気あたりに気を付けつつ、中庭の掃き掃除をした。その後、夕餉の下ごしらえ。
 ……どれもこれもそれなりに手をかけ、時間を費やして頑張ってみたが、はたと気付けば今度は夕焼け空を見るよりも早く、予定していたことをすっかりと片付けきってしまい、いっそ清々しいまでに何もすることがない己、というものを作り上げてしまった。
「…………暇、だなあ」
 言って、そのまま表情を鈍く曇らせる。
 実際には他にやることがない、というわけではない。
 細かな仕事はわりとそこかしこに転がっているし、やりたいことも多くある。
 だが、「雪村千鶴」という個人の置かれた状況においては、いくら気になっても目を瞑って自粛という形を取らざるを得ないのである。溜め息はそのことについてもつい零れてしまった自らの嘆きとも言えた。
 京で人斬り集団と畏れられる新選組のもとへ、理由あってその身を寄せることになり早や半年。
 月日は鈍く、それでも疾く過ぎ去った。
 千鶴が京に出てきた本当の……本来の目的は「連絡の途絶えた父親を探す為」、であったのに、気付けば何の因果か、突き当たったのは父ではなく新選組の隊士たち。
 運悪く、ガラの悪い浪人たちに絡まれ、追われて逃げていたところを彼らによって助けられたのだ。
(まあ……結果としてみれば、だけど)
 本当の本当は浪人たちに絡まれただけでなく、新選組の隊士たちに殺されそうになり、そこを助けてくれた幹部の面々にも更に危うく殺されかけた――が、説明としては正しい。
 その後、なんとか命は奪われずに済んだが、新選組の三番隊組長こと沖田総二と、同じく一番隊組長、斎藤一、そして隊内で鬼の副長と呼ばれる土方歳三―――この三人らによって有無を言わせず拘束され、そのまま軟禁生活を余儀なくされるといった末路を辿ることとなったのである。
 保護という名の拘束と監視。
 そうされる理由は彼ら三人と出会う前に遭遇した新選組の平隊士たちの凶行―――を、自分が見てしまったからというものらしく、詳しいことはよくわからなかったが、それでも見てしまったという事実だけで自分はこうして拘束されるに至った。
 しかしそういった不幸な状況下でも、幾らか自分にとって喜ばしいことはあった。
 彼ら新選組は父のことを知っていたのだ。
 行方まではわからなかったが、それでもそういったひょんなことから判明した父と新選組との予期せぬ繋がり。
 初めはひどく戸惑った。
 けれど途中からは父との再会を果たせる切欠になればと、そう期待して受け止めることにした。……まさか半年近く敷地内から外に出してもらえず、こうやってまんじりと時間を過ごす以外、することがないとはさすがに夢にも思わなかったので。
 日がな一日、することと言えば、掃除、家事、掃除、家事、またそして掃除。延々、その繰り返しである。
 毎日、それだけ。
 雑用ばかり。
 監禁されているという悲観的な事実は緩やかな日々のなかで徐々に薄れ、あったはずの危機感とともに一緒くたになってそこから見事に消え失せてしまったけれど、
「……暇」
 おかげで今。
 思わずそう胡乱げに呟いてしまうほど、毎日自分は暇を持て余し、困っている。
 もう何十、何百と、身を寄せてからのこの半年というもの、自分はそれを口にしてきただろうか。別にゆっくりと時を過ごすのが嫌なわけではない。寧ろそれは歓迎したいほうである。けれど自分を取り巻く環境が半年前と比べものにならぬほどすっかり様変わりしてしまった――その、わりとしては。
「……いくらなんでも」
 指折り数えて早や半年。
 いくらゆっくり時を過ごすのが嫌ではないとはいえ、さすがに半年は少々長すぎる。
 監視込みで衣食住ともにお世話になっている……そのような身で今更何を言ってもそれは詮無い、おこがましいことだとはわかっているが……しかしそれでも、これではそもそも自分が京に来た意味があまりない。一日も早く父に会いたくて堪らないのに、ただただ時間と焦燥が積み重なって、募ってゆくばかり。
「……父様、無事でいるかしら」
 突然連絡を断った父はおそらくこの京のどこかにいる。
 そのはずだ。
 そう信じて江戸から出てきた。
 着いた早々、追剥ぎじみた浪人に絡まれ、追われて、こんなことになってしまったのは予想外のことで、自らの運の悪さにはもう諦観の溜め息しか出てこないけれど。
 京は、今治安が悪い。とても悪く、今でもあの絡んできた浪人たちの最期を思い出すと、その手は震え、恐怖に身を竦めてしまう。
 夜闇のなか、冷たさとねっとりと肌に絡みつく重さを内包していたあの凝った空気。
それを煽るよう鼻についた濃密な血と死の気配。空に迸っただけでなく、縮こまった千鶴の心臓をも引き裂いて、削り取ってゆくようであった空恐ろしいあの絶叫―――そんな魂からの一声を、隊士たちは哄笑し、狂喜しながら受け止めていた。
 彼らの足元で無残に斬り殺され、滅多斬りにされながら転がる人間は、人間ではなかった。
 もはや「人間」ですらなかった。殺された浪士も、それをやった、
(新選組の……人たちも)
 否、それは、新撰組の、と。
 知る限りの情報において言うべきだろうか。
「…………」
 障子に遮られた、外の世界を透かし見るようにしてその目を細める。白い半紙に紅葉色の陽光が映り込んで、まるで極楽浄土の入り口のようにも輝いてそれは見える。だが現実に、千鶴がそこを開け、囲われたこの場所より逃れようとしたら、障子に映り込む色よりももっとずっと鮮やかな、それでいて鈍い血の色で半紙は無情にも赤く染め変えられてしまうのだろう。
 いくら気が急いても、父を探そうとすれば全てがあっさり危険に変わる。その理解が正しくある以上、だからこそ千鶴は迂闊には動けなかった。
 今はただ無事を信じるしかない。
(ぼんやりしていたら……もう夕方)
 物思いに耽っている間に、普段はやたら長く感じられる時間が、今日は珍しくそうやって嘆いているうちに終わりを告げようとしている。
 ほっとする反面、このまま――今日もまた、何もないままに一日を終えるのかともどかしい思いで、唇を噛み締め、項垂れる。視線は自然と下に落ちた。
「一体いつまで……私」
 見れば、手のひらがあった。
 非力な自身の手。紛れもなく女の手だ。たとえ男装をしていようとこの手に男のような力強さが宿ることがない以上、出来ることなどおおよそ限られている。そしてその通りに、今は掃除や食事の準備に使われるばかりの手。
 この手は何の役にも立たない。
 立っていないのだ。
「…………」
 その事実にやるせない思いが滲んだ。
「……たい……会いたいです、父様」
 そっと瞳を伏せ、囁くようにして呟く。
 新選組に身を置くこと。監視状態で拘束されていること。それらに今更不満を述べる気はないが、それでもやはり思うことは多くある。
 そんな物思いに沈んだとき、ふと、何かの音が耳を打った。
 ゆるりと顔を上げた一瞬後、何のことはない、鳥の囀る音だと気付き、頬を緩めた。すると和やかなその音に、今度は誰かの喋るような気配が重なった。
「……、……、…………」
 ぼそぼそとした言葉に何も聞き取れない。だが確かに人の声だった。人の声が聞こえた。
(でも誰の……?)
 聞き覚えのない声に内心で軽く首を傾げる。
 多くの隊士たちの中で自分が知っているのはごく一部、組長を任される幹部の者たちばかりで、ここに住まう者の全員の声など、全てを記憶し、把握しきっているわけではないのだが。
(だけどこの辺りにいるってことは……)
 その前提だけで、少なくとも一介の平隊士ではないとの見当をつけることができた。
 ここは屯所に女がいては規律が乱れると、他の隊士たちより性別を隠す為、距離を保つ為と、あてがわれた千鶴の部屋だ。
 平隊士はみだりには近寄れぬし、当人にもあまり近付かぬようにとそういった暗黙の了解めいた空気が屯所全体に流れている。だから、ここに――千鶴自身に近づける者は本当にごく一部の、限られた者たちばかりで。そしてその該当する面々の声ならば、ほぼ毎日聞いている千鶴はよく知っていた。
「……誰、ですか?」
 それゆえにわからなかった。驚きが内に籠もり、先ほど胸で呟いたばかりのそれを今度は声にして言い放つ。自分としては至極はっきりと言ったつもりであったが、出してみればその声は小刻みに震えていた。胸の上で拳をぎゅっと握り締め、導かれるよう障子の近くへと歩み寄っていく。
「誰か…、いるんですか?」
 自分の聞き間違えであってほしかった。だが不審感がそう思っても拭い去れない。聞いたことのない声だった。幹部の皆の声ではない、初めて聞く、見知らぬ誰かの声……。
(誰かはわからないけど……でも声は、確かに)
 屯所内なのだから隊の誰かだろうとは思う。そうしながら目の前の障子に手をかけると、千鶴の不安を読み取ったようにキッと木の軋む、か細い音が手のひらの下でした。少しだけ力を入れると、僅かな軋みを上げて、障子はなんなく開いた。
「――――」
 そして次の瞬間。
 ぱちり、と千鶴は瞳を瞬かせた。身に落ちた驚きを示すよう、困惑を乗せ――終いにはその目を丸くして。
 そうする以外にむしろ反応のしようがなかった。
「え、あ……あれ?」
 白く抜けた声を茫然と出しながら、きょろきょろと辺りを窺う。だがどう見ても結果は同じ。誰もいない――その理解にやや惚けた眼差しとなった。それから三呼吸ほどの時を介して、チチッと再び鳥の囀る音を聞く。
 反応してそちらへと首を巡らせた。
 ―――その時、千鶴の目に、夕焼け空を小さな影がスイと斜めに横切っていくのが見えた。
「あ……」
 小さな鳥が二羽。色を変え始めた大空のなかを、仲睦まじく、じゃれ合うようにして飛んでゆく。思わず視線をやってその行く先を追いかけ、それから反射する陽の光に眩しさを感じて、咄嗟に手を空へとかざした。そうして閉じた目蓋をそろそろと持ち上げる頃には、広がる空から先の鳥たちはもはやその姿を完全に消しており、そんな光景をただ自分一人ばかりがぽつんと眺めていた。
 空だけが見えた。否、空ばかりでない。そこには夕日があった。けれど夕日のほうはあまり見たくなかった――陽が沈む、その光景は昔からひどく千鶴の胸をざわつかせ、心を落ち着かなくさせるものであったので。
 どうしてそんなふうに思うのか、その理由は未だ以ってよくわからない。だが昔からそうだった。物心ついたときから、まるで空から墜ちるように沈む太陽、燃える夕日が、千鶴には何故かとても禍々しいものに見えてしょうがなく、いつも心のどこかで恐ろしさばかりを感じ取っていた。
 今となっては大分落ち着いて見ることができるが、今よりもずっと小さな頃、幼いときには、見るのも嫌で、夕方になる前にはいつも家の中に引き篭もって父の後ろで怯えてばかりいた。
 父はそんな自分を呆れるでも、厭うでもなく、ただ困ったように笑って、やさしく、そしていつまでも頭を撫でていてくれた。自分が落ち着くまでそうやってずっと。それが喩えようもなく嬉しかった。その手があることにひどく安堵した。
 だが分別がつくようになってからはそんな自らの甘えが嫌になり、怯える心をなんとか正そうと努力するようになった。
 原因がわからないだけあって、克服には何年もかかったが、しかし今ではその甲斐あって、見てもほんの僅か、少しばかり胸の上部が揺らめくだけで、怯えるほど強い感情を覚えることは殆どなくなった。
なのに。
「……っ」
 今日に限ってはそれがふいに甦ってきたように、胸を震わせ、目頭までも熱くさせた。
「……とうさま……」
 知らず知らずの内に声が洩れる。まるで年端もない、小さな子供のような頼りない声が。…どうしてか。どうしてだか。急に、不安になった。まるで身体の一部をどこかに置き去りにしてしまったかのような、そんな心許ない喪失感に身を守る間もなく襲われる。見ていたのは鳥だ。意識して見ていたのはけして空でも夕日でもなかったはずなのに。
 消えた鳥に、長らく会えぬ父の姿を重ね合わせ、恋しがってそう思ったのだろうかと考える。だが違う。これはきっと違うと即座にそれを切り捨てる思考が横合いから滑り込んでくる。
 思う理由も根拠もよくわからないのに、何故かそんな確信ばかりが強く浮かび―――耐え難い喪失感と深い後悔を伴って千鶴の胸をズキズキと疼かせる。
 一筋の涙が、止める間もなくスッと頬を滑り落ちた。
 不安が消えない。怖い、怖いと泣きじゃくる子供のように気持ちが波打ち、荒れていた。
(父様)
 視界一杯の夕日。けれど千鶴の目には揺らめく陽炎のように、目の前の夕日の向こうにもう一つ、夕日が寄り添って見えた。
 その夕日が燃える。燃えている。赤く、赤く。まるで燃え堕ちるように。
(……違、う……違……そんなの……らない)
 浮かび上がってくる何かの断片を、強くかぶりを振って否定した。そのまま手のひらを爪が食い込むほど強く内側に握り込む。流れる血潮がいやに熱く、熱を持ったようにどくどくと湧き立っていた。圧倒的な既視感に、胸が苦しくなる。
「父……様」
 耐え切れず、返らぬとわかっていても、呟かずにはいられなかった。
 独白にじわりと視界が滲む。
 嵐のように胸に去来するもの。それを、あのやさしい父の手で遠ざけてほしかった。昔のように、大丈夫と言ってその手を差し伸べてほしかった。
(父様)
 震えながら、固く手のひらを胸の上で握り締め、逃げるようにして夕日から目蓋を下ろす。真摯に願った。
 今は。
 今だけは。
「早く……会いたい…です」
 父に会いたい。それだけを心から。