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「気をつけて」

 出立の刻限がきた。
 動ける隊士のそのほとんどが揃って屯所を出ていく。幾許かの緊張とそれを上回る固い決意、それらを信念という名の下に包ませ、或いはその背に背負って。
 目指す場所へと彼らは歩いてゆく。
 そうして残留を余儀なくされた山南に呼び出され、広間に出戻る頃には、辺りはすっかりと夜の帳をおろし、二人きりで向き直って佇む空間は、いつもとは違い、ひどく閑散とした寂しげなものに変えていた。
 沈黙が続いた。
 山南が何も喋らず、黙っていたから、千鶴もまた何も喋らなかった。何を言っていいのかすらよくわからなかった。そんな状態であったが為に、余計、ふとした瞬間に「今頃は……」と討ち入りのことをつい考えてしまう。
 頭の中には様々な懸念があった。考えるだけで気持ちを落ち着かなくさせる。どくどくと疼くように鼓動が脈打ち、胸は心配で絶えず波打つ。今夜はとても落ち着くことなど出来ないと思った。
(皆が、無事に帰ってくるまで)
 きっとずっとこんな調子だ。無事でありますようにと再び祈りを重ねる。そんなとき、山南が突然いつもと変わりなくその口を開いた。静かな声で―――もちろん名目上のことですが、と、最初にそれを言い置き。
「私は局長から屯所の守護を仕切るよう仰せつかりました」
 皮肉げな言い回しが気になったものの、ようやくぎこちない空気が動き、一拍置いて、はい、と大人しくそれに頷く。合わせて山南のほうも軽く首を上下させた。その拍子に肩口で切り揃えられた彼の髪がそろりと動く。
 穏やかな面差しだった。何の動揺もその瞳には見受けられない。ただ静かな湖面がそこにあるばかり。そんなふうに千鶴は今の山南を見て思い、
「手薄になった新選組の屯所が何者かに狙われないとも限りません。君は私の眼が届く範囲にいてください。非常時には適宜、私から指示を出します」
 その言葉に少し迷ってからまた頷く。
「それって……、山南さんが守ってくれるっていうことですか?」
 そういうことだろうかと何気なく山南に尋ねた。寧ろそういう意図しかない問いかけだった。言ったあとでそう気付く。しかしそれを聞き、山南はおかしそうにその相好を緩めてみせた。笑う。
「腹痛で寝込んでいる平隊士よりは、私のほうがまだ使いものになりますから」
 その返答に千鶴は胸を掴まれるような心地だった。彼が今笑ったのは他の誰でもない、己自身に向けて。
 笑う山南の顔が、笑っているのにひどく悲しげに見える。その姿が痛ましく千鶴の胸を掴む。
 ……待つことは辛い。
 ただ待つことは、剣客である山南にしてみれば何もしていないことと同じ。辛くないはずがない。自分以上にそれは、辛いことであるに違いなかった。
 それが大切な人たちであればあるほど―――
(山南さんは、辛いんだ……皆が戦ってるのに、自分だけがここで一人待っていることが)
 重たい沈黙だった。
 場に静寂が満ちる。
 その時、音も立てずに広間の襖が動いた。驚く千鶴の視界に、闇のなか、誰かの人影がうっすらと浮かび上がる。
 最初に見えたのは一対の瞳だった。意志の強さを全てそこに押し込んだかのような強い瞳。鋭い眼光に思わず息を呑む。
「山南総長。奴らの会合場所が、池田屋と判明致しました」
 だれ? と思う間もなく、もたらされたその情報に、愕然とした空気が流れた。咄嗟に悲鳴じみた声が零れる。
「池田屋……!?」
 そんな、と渇いた唇が声にならない苦悶を放つ。その脳裏によぎったのは、平助が教えてくれた苦しい新選組の現状だった。
 池田屋には隊士十名、四国屋には隊士二十四名。
 けして多くない人員が二つに割かれ、それぞれに宛がわれた。
 そこに倍以上の差があるのは、本命は四国屋と目されていたからだ。自分の行くほうは池田屋で残念だとそれを嘆いていた平助の言もまだ記憶に新しい。
(それが――!)
 本命は、けれどその逆。
 池田屋のほう。
 向かった隊士は僅か十名のみ。
「……ああ、それは困りましたね。新選組は意外と賭け事に弱いのかもしれない」
 驚愕のなか、軽い口調で山南がこともなげに言う。
 一瞬、何故そんなにも落ち着いているのかと胸に滾るものが湧いたが、だが驚き、見返した先にあったもの――山南の表情は、既にほんの少しの予断をも許さぬ厳しいものへと切り替わっており、
「山崎君。ひとつ、面倒を頼まれてくれますか?」
 静かな声音の中にある、真剣なそれに気圧された。口を出すべきではないと瞬時に判断し、口を閉ざす。
 やがて山崎と呼ばれた忍び装束の彼がそれに浅く、素早く頷くと、続けられる言葉、命令を待って瞳を伏せた。指示は総長である山南が。そんな当たり前の形が自然とそこに出来上がっていて、もうずっと、そんなふうにして新選組は機能し続けていたことを改めて千鶴は目の当たりにする。と、同時に、やはり自分は蚊帳の外なのだとも理解した。
「まず敵の所在は池田屋であると、四国屋へ向かった土方君に伝えてください。そして大変お手数なのですが、その伝令にはその子も同行させて欲しい」
 目だけを動かし、山南が言う。
「――え!?」
 驚きが大きく千鶴の瞳を見開かせた。その子。同行。それだけで自分が今何を言われたのかがわかった。
(もしかして、私……!?)
 向けられた視線に射すくめられるようだった。
 もしかしても何もない。自分しかいない。
 だがそうやって驚いたのは何も自分ばかりではなかった。山崎も驚いたように僅かにその目を見開き、だがすぐに表情を引き締めると、
「お言葉ですが総長。伝令であれば、俺ひとりで事足ります」
 淡々とした物言いであるものの、きっぱりとそう言った。
 冷えた眼差しを無感動に向けられ、思わず震える。けれど千鶴のほうもそれに異論はなかった。もし山崎が言わなければ自分がそれを言っていた。自分が行っても足手纏いなのはわかっている。大した戦力にもならないだろう。
 一体何の為に自分がそこに同行するのか。
 その疑念に対する回答はほとんど思ったと同時にすぐに発せられた。
「伝令に向かう途中、他の浪士に足止めされるかもしれません」
 それは余分なものは一切省いた…端的というに相応しい一言だった。山崎とは違うものの、さらりとした口調のなかに有無を言わぬ圧力が籠もっている。
 だが千鶴にとっては再び疑問の湧く言葉でもあった。それを見越し、制するように、長州側にも援兵の存在する可能性があり、もしも道中その敵と遭遇したなら、一人の山崎は余計な時間をそこで費やすことになり、ひいては土方たちとの合流が遅れてしまう――と、そう。
 全ては可能性。けして必ずといったわけではない。だが懸念すべきものが僅かでもそこにあるというのなら、手はできる限り打っておいたほうがいい。そんな山南の素早い判断に、ようやく千鶴はすんなりとそれを理解した。
「さて……、私の言いたいことはわかりますか?」
 以前のような柔らかい山南の微笑に、山崎もまたそれを理解し、納得したようだった。深く頷き、
「自分が長州援兵の足止めを行い、最悪は彼女だけでも土方隊に合流させよ、と」
 放たれた、その予想だにせぬ山崎の見解に、綻びかけていた千鶴の頬はぎくりと強張った。目を見開いて息を呑む。それではまるで。
(そん…な、それじゃあ、まるで……山崎さんが捨て駒になるみたいな)
 愕然と山崎を見返す。けれどその面には何の動揺もない。欠片たりとも山南の指示を不満に思っていないようで、
「ああ……もちろん、山崎君が失敗するとは思っていませんよ」
 取り成すような、そんな山南の言い足しにも大した反応もみせず、浅く、ただ淡々と頷く。
千鶴だけが困惑して、置いてきぼりを食らったような気持ちにあった。
「我々には人手が足りず、君には仕事が多い。会津藩や所司代への連絡も担ってもらわねば」
 ふと、山南がそんなことを言った。
 確認するようなそれは、山崎にというより、寧ろ千鶴に対して言い聞かせるような響きがあり、今の新選組の現状――山崎一人が土方と会津藩と所司代、それらへの伝令を行わねばならぬといった、人手の足りなさを改めて伝えるものでもあった。
 今から伝令に動ける人間は限られている。
 それは山崎を除けばたった一人、自分くらいしかいないというその現実。だからこれはぎりぎりの選択。他に選択肢がないゆえの妥協であり苦渋の決断で、それは本来人手があれば自分など呼ばれもしなかったことを暗に示してもいた。
 つまり。
(私がたまたまここにいるから――)
 だから必要にされて、というわけではない。けしてそうではなく、たまたまの偶然を利用しようというだけのこと。
(それだけのことなんだ)
 胸の痛みに耐えながら、できるだけそれでも平静を保とうと顔を上げ続ける。そうしていると、ふいに「確か、雪村千鶴君だったな」と山崎の瞳がふいにこちらを捉えた。
 鋭い眼光に、素手で心臓を握り込まれたような気持ちになる。
 放たれる殺気めいた気配に背筋がぞわっと慄いた。
「護身程度の術なら身につけていると聞いたが」
 簡潔な答えを求められ、声を上擦らせながら慌ててそれに応じる。肯定を告げると、視線に一瞬、物言いたげなものが浮かんだ。なんとなくそれは……どこか迷っているふうにも感じとれたが、確かな判断はつかず、戸惑いばかりを宙に浮かせているうちに、やがて静かな声が広間に響き渡った。
「残念ながら君の安全は保障できない。それで構わないと言うのであれば、俺に同行してくれ」
 そうやって決断を促すその言葉には、この期に乗じて逃げようとすればといった不穏当な含みもひしと感じ取れた。
 逃げるならば迷わず殺す。
 捨て駒のように扱う自身の命だけでない。
 それだけでなく、それが任務の妨げになるものであれば、何であれ、排除してゆくつもりの山崎に、千鶴は聞いた瞬間、我知らず胸の奥が震えるのがわかった。
 目的を達成する為であればそこに何の迷いも未練も、およそ私情と呼べるもの全て、一切挟まず切り捨てる。
 彼の信念の揺るぎなさは確かにこの新選組のものだ。
 様々な不安が思考を掠める。色々なこと。その中には自分自身の命のこともあったが、迷っているような暇はなかった。
 今は、迷っている場合ではない。
 思いながら、
「私、行きます」
 懸念を振り払って、自分にも何かできるならと決然と千鶴は顔を上げた。
 山崎のように全てに非情にはなれないかもしれない。
 けれど半年近くも一緒にいて、共に暮らしてきた皆を助けるために自分が何かできると言うのなら、迷ってなどいられなかった。
「自分の身は自分で守りますから大丈夫です」
 一言一句。
 違えることなくそう強く言い切った。すると横で聞いていた山南が微かに笑うのがわかった。その笑みに、やはり若干の寂しさが窺える。だがどこかしら僅かに安堵のようなものも感じ取れた。気のせいかもしれない。
(それでも)
 隊士でもない自分に託すしかない――そんな山南の胸中を思い、自分ができる限り務めを果たそうと改めて気持ちに活を入れた。
「では――。総長命令、しかと承りました」
 山崎がかしこまって頭を下げる。
 礼を尽くしたその直後、「全力で走れ」と。低い声でそれを告げて部屋から飛び出していく。待ってくれるような気配はなかった。それは逆に時間がないことを強く知らしめ、言われた通り、千鶴もまた全力でその場を駆け出した。





「……っ!」
 半年間の室内暮らしは思っていた以上に自分の身体をなまらせていたようだった。
 全力で走れと言われたものの、千鶴の身は走り出していくらもしないうちに早くも悲鳴を上げていた。急な運動をいきなり課された内臓の幾つかが、捻るようにして痛みにそれを軋ませる。苦しさが、そうして呼吸を咽喉に詰まらせる。
 けれど。
「何があっても、この通りを走り抜けろ。……後ろを振り向く必要は無い」
 息を切らしながら走る千鶴の背後からは相変わらず淡々とした山崎の声が届く。無感動でありながら声の鋭さはまるで失われていない。
 答える余裕もなくそんな山崎に感嘆しつつ、その声を信じて、ただひたすら真っすぐに千鶴は前を見た。
 示される道は新選組の元へと続くもの。
 彼らを助けるために、今、自分は走っているのだとふらつきそうになる足を懸命に叱咤し、疲弊するその身を引き摺りながら、
(走――れ!)
 ただただ千鶴は疾走する。
 闇の中。
 この一瞬。
 次の一瞬が、戦いの中にある彼らの何かを繋ぎ止めるものとなりえるかもしれない―――そんな可能性に支えられ、願いを籠めながら。
(私だって……!)
 だが、そんな強い思いを抱えながら十字路に差しかかったときのことだった。
 白光がきらめき、鮮烈な光の筋が視界の端を弧を描いて滑っていく。それにぎくりとした。
 背筋が強張る。
 剣だ、と光の正体を読み取った直後に躊躇いが足を止めかけた。
(援兵!?)
 とうとう。まさか。
 思ったのはどちらであったか。そんな恐怖を一刀両断するかのように背後から次の瞬間、鋭い檄が飛んだ。
「君は惑うな! ――直に合流できる!」
「……っ!」
 力強い一言に押され、戸惑い、止まりかけた足が次の一歩を踏み出した。そんな背後に膨大な威圧感が溢れかえるのを感じる。
 だが――決めている。
(振り返らないって……!)
 必要はないと言った山崎のことを思い出す。彼の声を、彼自身を、信じようと思った、そして自分自身を千鶴は思い出す。
 後方から聞こえてくる激しい剣戦の音を耳に入れながら、だから、と歯を食い縛って走った。
 前に。
 皆の元に。
(早く、――早く!)
 どんなに身体が悲鳴を上げてももはや構わなかった。膝が折れかけ、足がもつれ、転びそうになっても関係ない。気にしてなどいられなかった。
(転んだら立ち上がればいいっ)
 横腹が痛むたびに、思うように動かない愚鈍な身体が無性に情けなくて涙が出そうだった。だがそんな嘆きも二の次。それを嘆くのはあとでいい。
 やがてどれだけの時間が経ったか。
「っ!?」
 不意に横合いから明るい光が差し込んでき、それが灯火だと気付くよりも先に目のほうが眩んだ。
(長州の浪士……!?)
 疲弊した思考に更に最悪の事態が積み重なる。ぐるぐるとその可能性が巡る。思わず身を固くし―――
「何やってんだ、てめえは」
 その瞬間、届いたものに千鶴は一瞬のみ惚けた。耳に馴染んだ、ひどく聞き慣れたそれ。誰と思うよりも前に心の底から安堵した。
(誰、なんて)
 問うまでもない。
 考える必要もなかった。
それは――それは。
「土方さんっ……!」
 今、もっとも自分が会うべき人、会わなければならない人だったのだから。