「……わたしは、何ですか?」




夜明けのオリオン

「子供、ふたり」「世界を広げてくれたひと」
「世界の端で想うこと」(Link創作3作収録)




「子供、ふたり」


 耳を劈くセミの鳴き声がする。
 一向に途切れることのないそれらに頭の中を占拠されてから、気付けばもう一時間ほどが経っていた。
 勢いを増すばかりの鳴き声に辟易としつつ、石寺は額から滴り落ちる汗を静かに拭う。ぬるい水滴が手の甲をじわりと濡らし、指の合間を伝って、やがて地面に灰色の染みを作る。
 ぽとりぽとりと丸い水玉模様を描き始める地面を黙って眺め、それから緩慢な動きで頭上を仰ぐ。ジリジリと照り付ける陽光を視界の隅に、白い千切れ雲がゆったりと南のほうへ流れてゆくのが見えた。
 風は吹いている。けれど残念ながら少しもそれを肌で感じない。ただただ容赦なく太陽が肌を照り付ける――それが、本島とはまったく質の異なった、ここリュウキュウの夏だった。
 うだるようなといった比喩がまるで意味を成さないこの殺人的な暑さは、まだ八月本番にも入っていないというのに、すでに非情すぎる暑さをあたかもそれが当然であるかのように石寺の頭上に降り注ぐ。
(帰ったらまずビールだな……)
 八月のことを考えれば考えるほど、今からもう億劫で仕方ない。気を紛らわすために冷えたビールを頭にイメージしてみるも、それを掻き消すように周辺のセミがより一層強く、そして一斉にその鳴き声を共鳴させ始めた。
 うんざりと眉を顰めようとしたその時、ふいに明るい声が耳に届いた。
「ハヤトくーん!」
 その声に鬱蒼と顔を上げる。わざわざ目で確認する必要もない程に――視界に映ったその人物は、間違いようもなく石寺の予想した通りの者だった。
 再度、上空へと目を向ける。
 そうやって気持ちを少しでも落ち着けるべく。
 やがて多少なりと落ち着いたところで坂上から全力で駆けてくるちいさな人影へと顔を向け、
「ハヤトくん、ハヤトくん、大変で……っ!?」
「…………」
 目の前を猛スピードで駆け抜けていった一陣の風に、石寺は早くも淡い溜め息を零すに至る。
 ややあって背後より甲高い悲鳴が上がり、ゆるりと振り返れば石寺の想像通り――土埃を巻き上げながら、子供が一人、見事な大の字で地面に転がっていた。二度目の溜め息を吐く。今度はしっかと、当人にも伝わるように大きく。
「アキラ」
 名を呼ぶとぴくりとその身が反応した。
 更にもう一度。
 呼ぶと、子供は何事もなかったかのように立ち上がり、膝や手足についた砂埃を払って 自分のそばへと駆け寄ってきた。泣くことはしない。ただ掛け値なしに驚いたような表情で。
「びっくりしました」
「……オレもだ……」
 率直な一言に、同じ気持ちで以て言い返す。そうしなければ溜め息だけが零れて終わってしまいそうだった。
 嘆く様子もなければ、寧ろ感動すらした様子で起こった出来事を反芻する瞳は、言うなれば子供らしさとは少々かけ離れたものがあった。おかしな子供だと思えばそれまでの話だが、それだけに留まらぬ理由があることを石寺はよく知っている。
「怪我は?」
「大丈夫です。滑り込む前に前屈して、ある程度の衝撃は殺しました」
「……受け身を取ったのか」
「はい」
 片手を上げながらどこか誇らしげに言う。まるで褒めてとでも言うように。キラキラと輝く大きな瞳に、けれど自分が口にしたのは何の捻りもない、上辺だけの指導の言葉だった。
「次からは転ばないよう、気を付けなさい」
「……はい」
 細い首がこわごわと頷くのを確認してから。
「それで――一体何が大変なんだ」
 元の本題へと戻ると、
「………。あっ!」
 忘れていたなという明らかな沈黙の後、子供が大きく飛び跳ねた。浮いた踵が地面につくと同時に「バッハが!」という新たな情報が声高に付加される。
 脳裏に同居人兼パートナーである青白い顔をした全身黒づくめの男が一人、半笑いで無遠慮に浮かび、嫌な予感がセミに代わって頭の中を一挙に支配した。
 瞳が自然と眇められる。半眼と言ってもいい。
「今度はなにをしたんだ……アイツは」
 何も聞きたくはなかったが、しかし遅かれ早かれ聞くしかない運命に、ろくでもないと呪いの言葉を吐きながら石寺は苦々しく肩を落とす。
 顔を歪める下で、子供だけがハラハラと心配そうな顔をしていた。




「おはようございます」
「もう夕方だ」
 穏やかなほほえみはいつもとなんら変わりないものだった。
 それを切り捨てるようきつめの合いの手を入れると、対する相手はそれはそれは……と、まるで動じることなく優雅に頷いたあと、それ以外には何の反応も寄越すことなく横たわっていたソファーからゆるりとその身を起き上がらせた。その際はらりと男に掛けられていた毛布が一枚剥がれ落ちる。
「おや……。これはもしやアキラの仕業ですか?」
「……はい。バッハ、震えてました」
「フフ……そうですか。それは感謝せねばなりませんね」
 嬉しそうにその手を伸ばすも、当の子供はびくりと震えて慌てて石寺の背後へと逃げ込んで隠れる。行き場を失った両手は若干不憫ではあったが、
「…………」
「…………オレを睨むな、グランバッハ」
 怒りの矛先を理不尽に向けられ、そうまでされて相手に同情を覚えるほど自分もお人好しではない。鬱陶しいと躊躇わず端的に一刀両断する。
「ア……アキラ……何故です……何故ワタシに向かって飛び込んできてくれないのです……」
「だから……オレを睨むなと言っている」
 台詞と表情のまるで一致しないパートナーの鋭い眼光を受け、辟易と目を逸らす。そのままつと視線を下げると、申し訳なさそうに自分の背後に隠れる子供の姿が目に入った。
(またか……何故だ)
 理由はわからないけれど――子供は無愛想な自分よりもずっと友好的で愛想の良いグランバッハに対して、何故か距離を取ることのほうが多く、さほど積極的に関わっていこうとしない。嫌ってはいないようだが、いつもどこかこうして遠慮がちで、相対すると途端に借りてきた猫のように大人しくなる。その理由を幾度か本人に訊いたことはあるが――
『……わかりません』
 震える声でそう告げられ、それ以上のことを石寺は聞き出すことができなかった。けして人見知りをする子ではない。そのことだけは確かであるのに。





「 世界の端で想うこと 」


 そうでなくても夜は苦手なものの一つだった。
(ハヤトくんもバッハも、どうして一人で寝て平気なのかわかりません)
 夜は怖い。一人でいるといつもどこかに連れていかれてしまいそうな気配を感じ、不安が常に付き纏う。それを言えば石寺はただの気のせいだと言い、グランバッハはならば一緒に寝ましょうと両手を大きく広げてみせる。……夜を一人で過ごすのが嫌であるなら、その申し出を自分は喜んで受けるべきだろう。
 だがどうしても無理だった。
 グランバッハはやさしい。
 時々おかしな暴走をすることはあるけれど、いつだってアキラには笑顔で接してくれ、とても親切にしてくれる。今日のゴーヤチャンプルーだってそうだ。あれもお腹を空かしたアキラの為に作ろうとしてくれたもの。普段料理などけしてしないひとなのに。
 それでも、そうやってグランバッハはけして悪いひとではないとわかっていても。
(バッハのそばは……怖いです)
 彼の近くにいることがどうしてもできない。そばにいるといつもなぜだかつい反射的に逃げ出してしまいたくなる。そうなる原因はまるでわからないし、思い当たる節もないのだけれど。
(わかりません……アキラは何も……何もわからないです…)
 だからグランバッハの申し出を受けることはできなかったし、以前訊かれた石寺の問いにも結局よくわからないと答えることしかできなかった。














アキラは夢を見る。

今は叶わなくとも、いつかは叶うそんな未来を望んで。

だから。





次に目覚めるのはきっと朝。