きっとこの空の下、
今もリッケンは任されたおつかいを全力で果たそうとしているのだろう





かわいいリッケンバッカーには旅をさせろ。








 猫のように縦に光彩の走る大きな瞳に、紫色をした細く長い尻尾。それがパタリパタリと左右に揺れ、室内の床をリズミカルに叩いてその面差しの中央にあるものをキラキラと輝かせている。
 それに気付いた時からそんな予感はしていたのだ。
 元々理性よりも本能を優先させるのが通常仕様の彼らナイトフライオノート。好奇心は青の世界の住人のそれと比べるべくもなく、興味が湧けばあっという間にその虜となり、一も二もなく欲望の渦へと飛び込む。その結果となる、後のことなどきっとあまり考えたこともないのだろう。
 欲望に忠実。
 己に正直。
 ごく普通に、呼吸をするようなありふれた自然さで、頭をもたげた自らの欲求を満たすべく彼らはひたすら前へと突き進む。
 そういった際、頭痛の種を無造作且つ無邪気にバラ撒かれたり、予期せぬ事態に突然陥らされることもある。
 しかし混じり気のないその熱心さは、彼らの純粋さをストレートに表現するものであり、けして悪意あって発露するものではないのだ。そういったことから、あまり深く追及し、詮索しても、彼らの希求行動を制限することは極めて難しく、それこそ彼らに呼吸をするなと言っているようなものなのだという結論に至って、現在ほぼ放置状態となっている。
(まあ、共存する為に多少の抑制力は働いてると思いたいんだけど)
 人も、世界も、新たな局面を迎えるにあたって、様々な変容をその未来に受け入れた。だから――あまりそうは見えないが――そんな可能性があっても別に不思議な話ではない。
 けれどこの日アキラが対峙したのは、そうしたなかでの、あまりそうは見えない出来事のほうだった。
「え、あれ? リッケン?」
 シュンと扉の開く小さな機械音のあと、誰もいないと思っていた室内に何故かこんな朝早くからリッケンバッカーの姿を見つけ、アキラは驚きの声を上げた。
「リッケン、こんな所にいたの? 今朝どこにもいないから散歩にでも出ちゃってるんだと思ってたんだけど」
「………」
「リッケン?」
 話しかけてもまるで反応がないことに、あれ? と、瞳を瞬かせる。自分とリッケンとの間は距離にして約二、三メートル程のもの。声が届かなかった? と、首を捻りつつその近くへと寄っていく。するとそこでぎっしりと中身の詰め込まれた宝石箱のようなキラキラと輝く二つの瞳と出会い、それから忙しなく左右に揺れ続ける尻尾の動きにもようやくその意識が向いた。
 リッケン? と、もう一度その名を呼ぶ。
「………………」
 反応はやはり無い。
 リッケンの瞳は、目前のテレビへと今も一心不乱に注がれ、釘付けとなっている。一体何をそんなに……と、好奇心を煽られ、アキラもまたチカチカと白く瞬くテレビ画面へとその目を向ける。
 画面から零れる眩い明かりが、起き抜けの網膜にツキリと沁みた。思わず目を閉じたそんなアキラの耳に、賑やかなドレミファソラシドのメロディが軽快に届く。
 子供が好むようなアップテンポな曲調だった。
 そんなイメージにそろそろと目蓋を持ち上げると、雨上がりの石畳を赤い傘を折り畳んだ小さな女の子が勢いよく走り出している光景に遭遇した。四歳ほどだろうか。まだ幼い。そんな子供の前や後ろで、なんとも不揃いな格好をした大人たちが、実に不自然極まりない様子でバタバタとあとを追いかけている。
「……?」
 思わず何事かと瞳を瞬かせたが、すぐに見つめるテレビ画面の斜め右上――そこに簡素な文章で子供が一人でいる理由についてのアナウンスがされていることに気が付いた。
「初めてのおつかい?」
 声に出してぽつりと呟く。するとそれまで規則正しく揺れていたリッケンの尻尾が、ぴくりと小さな乱れを生じさせたかと思うと、やがてそのまま、……ぱたり、ぱたーり、と緩やかな動きで以ってアキラの様子を窺うような気配を漂わせ始める。
(な、なんだか……ウズウズしているように見えるのは気のせいかしら)
 もちろんリッケンは何も言わない。
 だが気のせいではなくそんな気配を感じる。
 録画再生ボタンの明滅をチラリと確認しつつ、ひとまず「ずっとこれ見てたの?」と訊いてみる。リッケンが録画したのかとは訊かなかった。というよりもはや訊くまでもない。
(リッケン、こういう機械の操作には全く興味ないみたいだし)
 使いこなしていると思うほうがいっそ難しい。じゃあ一体誰がこれを撮ったのだろうと軽い疑問を胸に、
「リッケン、おつかいが気になるの?」
 首を傾げてもう一度。問うと、ぴょこん! とそれまで黙って画面を眺めていたリッケンの長い尻尾が勢いよく垂直に立った。





「で、それでなんで僕たちまで集められるわけ? まったく意味がわかんないんだけど」
 と言っても呼びつけられたおおよその予想は、おそらくもう付いているのだろう。かくがくしかじかと事の経緯を説明した途端、不機嫌そうにヒロに言われ、
「おい、んないきなり拗ねるなって、ヒロ」
 陽に焼けた大きな腕を、細く華奢なヒロの肩へと回してユゥジがいつものようにごくあっさりと笑いながら言う。それを見て、アキラと残るメンバーたちはさりげなく己が耳にと両手を当てた。
 ―――直後。
「べっ、べつに拗ねてなんかないよッ! 勝手なこと言わないでよねっ!」
「えー、いや、さっきまで久々にアキラさんに会えるーってはしゃいでただろ」
「はっ、はしゃい……バッッカじゃないのっっユゥジ!」
 子供っぽいことを指摘されるのが何より嫌いなヒロの、限りなく率直な怒声が塞いだ耳を通り越して次々と飛び込んでくる。
 聞きながら、ユゥジくん、強気だなあ……と思ったが、敢えてそうすることがユゥジなりのヒロとのコミュニケーションの取り方であるのはもうよく知っている。そしてヒロには申し訳ないと思いつつも、良くも悪くも変わらないそんな二人のやり取りが、アキラとしては見ていてどこか懐かしくほっとする。それは懐古するほど昔のことではないはずなのだが。
「…………なんでアキラさんは笑ってるわけ?」
「え?」
 こっそり微笑ましく思っていたつもりが、うっかり見つかってしまい、拗ねたヒロにそのままジト目で睨まれる。冷たい眼差しがあまりに本気すぎて、慌ててアキラは居住まいを正し、
「つ、つまり話を元に戻すとね? みんなだったらリッケンのこともよくわかってるし、安心してサポートを頼めるかなって思って。でも嫌なら無理にとは――」
 言わないから、と。それはヒロの機嫌を気にしながら付け足そうとして。
「…………僕、べつに嫌だなんて一言も言ってないけど」
 そっぽを向いたヒロが先に口を開いてそう呟く。それを聞き逃すことなく拾い上げ、ゆっくりと脳内に浸透させてから、
「……いいの?」
 ぱちりと目を瞬かせる。それにますますヒロが仏頂面となった。
けれどそれは不機嫌とは違う。うっすらと赤く染まった頬がそうアキラに確信に近い判断を促し、
「あ、ありがとう、ヒロくん!」
「べつに……いいよそんなの」
「うん。でも言いたいの。本当にありがとう」
 嬉しさに思わず相好を崩すと「それで俺たちは具体的にはどんなことをすればいいんだ?」と、後を引き継ぐようにそれまで黙っていたヨウスケが口を開いた。
「つーか、することつったらもう大体限られてんじゃね?」
「……そうなのか?」
「おいおい、ヨウスケ。お前まさか見たことないとか言うんじゃないだろうな? おつかい番組」
「ない。テレビは料理番組で足りている」
 いや足りているとかそういうことじゃねえしとヒジリが呆れながら覇気なく突っ込む。すると驚きに驚きを重ねて、困惑すら覚えたような真剣な面持ちで、
「……そんなに有名な番組なのか」
 と、当のヨウスケが愕然と呟く。驚愕内容は件のテレビ番組を見ているか否かといった、実にそんな些細なことであるのに。
「それはカズキも知っていることなのか」
「ホワット? ミーかい?」
 矛先が今度はカズキへと向かう。どうなんだと無言の眼差しで真剣に詰め寄られ、
「イエス、そうだね、リトルチャイルドたちのレッツチャレンジに、大人たちがライトにゴーして、レフトにゴーして、ラストにハッピー&スマイルでベリーにクライしたりハグしたりする、ドキドキドキュメンタリー番組ってことくらいは知っているよ」
「おっ、カズキ、うまいこと言うなー。確かにあれは子供よりも大人のほうが振り回されて右往左往する番組だよな」
「まあ……そうだね。急に方向転換とかするし、心細くなって突然泣き出したりしちゃう子もいるしね」
「そーそー。見てて結構ハラハラするっつーかグッとくるっつーか……ヨウスケ、お前、マジ知らねーの?」
「…………。今度見る」
 意外と負けず嫌いなところのあるヨウスケの、そのぼそりと零された呟きにみなが笑う。そうして。
「で、それはいいとして、だ。さっきからその存在感を半端なく押し殺して黙り込んでるメンバーが約一名ほどいるんだが……」
 ユゥジの言葉に誘われ、全員の視線が窓際で黙然と一人佇み、その気配を断つ、最後の傍観者――霧澤タクトへと向けられる。
 みなに見つめられてもチラともその視線を動かさない。
リノリウムの床を見つめたまま、何故か無言を押し通す。同室にいてこの会話が聞こえないはずはないだろうに……と、思ったところで昨日のリッケンが脳裏を掠め、
(もしかして)
 ほとんどただの勘でそれを呟いていた。





「カズキくんは……なんでリッケンがおつかいをしたがってるか、なにか思い当たったりするの?」
「ミーかい?」
 カズキはかるく首を傾げ、
「ミーは……リッケンのしたいようにすればいいと思っているから、あまり理由についてはディープに考えたりしナッシングかな」
「…………」
 聞きながらその返答がおかしいことに、アキラは気付いていた。
 カズキの言いたいことはわかる。当人の自主性に任せるといったその考え方、見守り方は、とてもカズキらしいもので、真摯な返答だ。だが、と思う。だがこの場合、ここで重要なのはカズキがアキラの問いかけにわからないとは言わなかったことだった。
 つまりそれは知っている可能性を指す。
(カズキ、くん?)
「ああ、噂をすればだよ、ティーチャー」
「え? あ……」
 その時、ピアノの音がフッと止んだ。
 指を止めたカズキがそのまま窓の方へと目を向ける。それを追ってアキラもまた同じように外へ目をやった。
 夕暮れのオレンジ。刺し貫くような鋭い光ではないものの、一転する視界に思わず目を瞑ってその手をかざす。光は遮られ、そのまま小さな影が自らの顔にひとつの淡い影を作るのを感じる。
 やがてそろりと目蓋を押し上げれば、眩しかった光はあたたかなものへと変わり、アキラの視界に校内の中庭をひとり出歩く、リッケンバッカーの姿を映し出した。
「……リッケン?」
 仲間たちはおらず、完全に一人きりで歩いている。
「……あれ、何してるのかしら?」
 まじまじとその光景を見つめ、呟いた。空を見上げているところまでは理解できたが、ぴょこぴょこと長い尻尾を揺らしながら飛び跳ねている理由がいまいちわからない。
「どうやらバタフライを追いかけてゴーゴーしてるみたいだね」
「蝶?」
 カズキに言われ、注意深く空を観察してみると、確かにリッケンの頭上には一匹の蝶がいた。ひらひらと、リッケンの陽気な追従から逃れるよう空を舞っている。
「ベリーに楽しそうだね、リッケン」
 夢中になって追いかけている姿に胸の苦味が薄れ、自然と頬が綻んだ。おそらく蝶のほうはそれどころでなく、生命の危険すらもしかしたらその身に感じているのかもしれないが。
「……うん、楽しそう」
 けれど蝶と戯れるリッケンはあくまで楽しげで、その光景に対しそれ以外の感想を持つことはなかなか難しかった。そのうちカズキのピアノがさりげなく再開され、今度は子供のおつかいを励まし後押しするような陽気なメロディではなく、夕暮れどきに似合いの、そんなやさしい、穏やかなメロディが流れ始める。
 言葉よりも雄弁に状況を物語るその音楽を聴きながら、アキラはやっぱりカズキくんはずるいなと思った。
 結局なにも言ってくれないまま話は終わってしまった。けれどそんな不満を口にしてもきっとカズキは笑って言うだけだろう。
 ただいつものように、微笑んで。
 ツリーのせいだよ、と。





「ヨウスケくんから見て、私ってやっぱり何か変わったように見える?」
「? どういう意味だ?」
「あ、別に大したことじゃないのよ。ただちょっと気になって」
「………元気がなかったのはそのせいか?」
「え?」
「さっき、歩いてるあんたの姿にいつもの元気がなかった。だから腹でも減っているのかと思ったんだが……」
 そうじゃなかったんだな。独白のように呟いて、そのままリュウキュウの海のような青く澄んだ二つの瞳をじっとアキラのほうに注ぐ。見つめられて、その物静かな瞳に、言ってもいいものかどうか、アキラは僅かに迷った。けれど自分のことを変わったと言ったデュセン。そうかなと曖昧に答えた自分が脳裏を過ぎり、
「……ちっとも変わったように見えないの」
 気付けばぽつりと、途方に暮れたように呟いていた。
「何が……あんたがか?」
「ううん、……カズキくんが」
 ヨウスケの問いかけに首を振って答える。
 それに、ああ、と納得したようにヨウスケが頷いた。迷うことなく同意する。それを耳にしながらアキラの目蓋の裏にもいつもと変わらぬ、穏やかな笑みを浮かべて佇むカズキの姿が思い浮かんだ。こんな想像ですらそうなのだ。笑ってしまう。けれどそうした光景を、その想像を、力なく笑いながらアキラは一欠片だって疑いはしていなかった。
 青の世界と紅の世界、二つの世界が互いの存続を賭けて戦っていた時ですら、カズキは赤い月が綺麗だと言って、申し訳なさそうに笑っていたのだから。
「戦いの前も、最中も、その後も……。カズキくんはちっとも変わらない。なのに私は変わったって言われる。べつにそれが嫌なわけじゃないんだけど……でもなんだか」
「アキラ……」
 いつでも思慮深く、そうやって見守るようにして傍にいてくれるやさしいカズキ。そんなカズキに不満などけしてない。
 だがリッケンのことを話した時に感じたような、なにか不公平だと思ってしまう自分も確かにいる。どうしてこんな風に思ってしまうのか、自分でもよくわからないが。
「……ごめんなさい。こんな話するつもりじゃなかったのに」
 重苦しい空気に苦笑いで顔を上げる。
 見上げれば澄んだ青が自分のせいで微かな翳りを帯びていた。






 子供は子供なりにいつでも必死で、それはきっと大人の持つ必死さともよく似ている。







必死であればあるほど、それはとても大事なものとして。












「ティーチャー……どうかツリーにしないでくれるかい。これはミーの、ただの情けない独り言だから」






( だから、あの日の君の『選択』に感謝を )