背後からでもそれは見える。




★ 全てが向かう ★

(10年後マフィア話)



 だからなんでオペラなんだと。
 会場を前にし、会場に入ってからも尚、納得がいかないといった風にぶつぶつと途切れることのない不満を零していた彼は、とはいえそれを個人の一存で却下できるわけもなく、趣味でもなければ興味もない人生初のオペラを鑑賞すべくやむなく劇場二階の特等席に座り、少し前の様子が嘘のように―――凪ですら驚きに目を見張ってしまうほどに―――今やそれはもう見事な好青年っぷりを余すところなく披露し、相手のやたら長ったらしい口上にも、ええそうですね、だの、それは素晴らしい、だの、朗らかな笑みで以って相槌を打ち続けている。
 まさかこの青年が実はマフィアのボスであるとは誰も思うまい。知っているのは自分たち、この場にいる三人ぐらいだ。
 そして現状、そんな背景を無感動な眼差しで眺めながら、凪は実のところ少し困っていた。
 本日の会合相手、名前は忘れた、その中年の男性が機嫌よく喋れば喋るほど、自らの仕える彼――沢田綱吉との名を持つ――ボスの機嫌が下降の一途を辿っているのだ。見ていてとてもハラハラする。
 だがどうにかしたいと思うも、目下自分はボスの護衛という任にあり、それを放棄してまで相手とボスとの間に介入するということは、職務放棄、ひいてはボスの面子を汚す事態にもなるだろう。
(……それはだめ)
 ボスを守護する、自分以外の他の重役達ならばそれでも何らかの手段を講じてボスの窮地を救い出すのかもしれない。否、間違いなく彼等ならやるだろう。
 それなのに、それに比べて自分ときたらボスの精神状況をわかっていながらまごまごとこうして沈思しているばかり。
(不甲斐ない)
 役立たずという単語がぐるぐると脳裏を巡る。そうしている間にもオペラの幕は一幕二幕と軽快に開いてゆく。相手の機嫌も上昇気流にのっかったまま、談笑も留まるところを知らない。それはボスもまた同様に。ただしこちらは下降気流の寒冷前線間近だ。
(ボス、ボス……ああ)
 もはやオペラ観賞などそっちのけで朗々とオペラのなんたるかを語り出してゆく相手に、勉強になりますと言って返すボスの笑顔を背後で想像しながら、その背を小さく震わせる。だがそれでも、やはり介入などできるはずもない。
 自分には分不相応すぎるし荷も重い。
 できることといったら一刻も早く、今この瞬間が過ぎますようにと願うことくらいだ。
「いえね、私も若い頃にはあまり興味はなかったのですが、これが意外と奥深く心豊かにしてくれるものでしてね。趣味の押し付けではあるのですがボンゴレ10代目もお若いうちに是非にと思いまして」
「お気遣い、痛み入ります」
「いえいえ。あぁ、それと知っておられますか、ボンゴレ10代目、このオペラはですね――」




 ああ、きっと、閉幕したあとボスの最初の言葉はもう決まっている。



* * *



 そして案の定。

「オペラはもういい。当分いい。寧ろ金輪際いいって、凪、リボーンに言っといて」
 無理だとわかっていても言わずにはいられないらしく、誘っておきながら途中で用が出来たとかでどこからかの呼び出しに劇場から出ていってしまった相手の席、その斜め背後にて、ようやく吐き出すことのできたボスの心の叫びをとりあえずは無言で聞いて、顔を上げる。
「ボス……それは無理」
「……うん。知ってる」
 だって言うくらいしかできないからなー……と、遠い眼差しをしながら、あっけらかんと愚痴を放り投げる姿に自らの力不足を恥じて凪は一礼する。それにいいよとボスは笑って、いつものように凪をやんわりと許す。続く、凪は真面目だねという言葉が少しだけ気恥ずかしかった。
 オペラが終わり、一階席の客がぞろぞろと出口へと流れていく光景に眼をやる。
 けれどボスにはまだ立つ気配はない。
 立たないのであれば自分もまだここにいるだけだ。
 ボスの近くで、何時間でも、何日でも。
 何故なら自分の任務はボスの護衛。骸様から、そして他の仲間達から頼まれた大事な大事な仕事なのだから。立っていろと言われればどれだけ長い時間でもそうすることに躊躇いはない。疑問にも思わない。
「……まあ、でも、意外と面白くなかったわけじゃなかったな」
 不意に、独り言のようにボスがぽつりと呟いた。背もたれにもたれながら、瞳は天井を見上げている。まるでオペラの余韻にでも浸っているかのように。
「一人さ、すごく上手い子がいたし」
「……一人だけ?」
「うん、一人だけ」
 あっさりと言う。
「あの子、きっとこの世界で名を残すと思うよ。端っこの方で歌ってたからあんまり目立ってなかったけどいい声してたし、なにより眼が良かった」
「眼……」
 どの子だろうか。ボスの目に適った歌い手。自分もずっとここにいたはずなのにそれがいくら思い出されない。なぜか呼び覚ます記憶に反応するものがない。どうしてと思ったあと、すぐにその理由が知れた。

 眼も耳もすべて。
 オペラは素通り。

 記憶にあったのは朗らかに、ええそうですね、だの、それは素晴らしい、だの、好青年としか言いようの無い様で頷いてばかりいたボスの姿。ボスを見ていたからそんなもの、意識の片端にも残っていなかった。

「……聴きたかった」

 そこまでボスが褒めるというのなら、せめて一瞬でも記憶に残して留めておけばよかった。俄かに後悔が胸を巡り、ぽつんと小さく呟けばそれを聞きとめたボスが首を回してこちらへとその眼差しを向けてくる。
「…え、あれ? 凪、見てなかったの?」
 そんな驚きに。


「ボスを見てた」


「…そ、そう」
 言えば何故か頬を引き攣らせながら、ボスは空気を掻くような掠れた笑い声を小さく洩らした。ずるずると座席から急にその背が沈みはじめる。……背もたれに隠れて姿が見えなくなった。
「……ボス?」
「そういうとこ、なんでかな。なんで似てくるかなあ……」
 姿は見えず、ハアアーと大きな溜め息だけが座席の向こう側から届けられる。何か機嫌を損ねるようなことでももしや自分はしたのだろうか。
 思った途端、急に不安が胸をよぎり、
「ボス、――ボス、怒った?」
 そう率直に問えば、ひらひらと白い手のひらが宙に舞った。
「や、怒ってないです。つか怒ってるっていうより、寧ろなんていうか、こう、こんなところにも奴の……」
「なに?」
「………………いや、いい。やめた。考えたら余計疲れる。それよりオペラだ、オペラ。うん、話を戻そう。あのさ、凪、またオペラ観たい?」
 唐突な話題変換。
 一瞬だけ沈黙し、それからボスのほうへとそろそろと近付いていく。そして元いた場所からボスの座席、そのすぐ真後ろへと辿り着いて、
「…ボスがまた観たいと思うのなら」
 告げると、窮屈そうに身を横たえるボスが更にもっと窮屈そうにかくんと首を傾け、その顔をほとんど垂直にと上向けた。体勢的にとても苦しそうに見える。けれどどこかぽかんとしていた眼差しがみるみるうちに柔らかく溶けはじめるのが見えたら、もうそれはあまり気にならなくなった。ボスの眼が、それを許さなくなった。
 やがて。
「……わかった、また来よう。凪の好きなときにいつでも付き合うから」
 笑顔で約束され、小さく頬を緩める。それにボスも瞳を細め、返してくれるも、ややあって急にその眼差しに諦観の念を漂わせ始めた。
 まるで何かを不意に思い出したかのように。
「ああもう……凪はこんなにいい子だっていうのに。ほんと、頼むから……凪は凪のまま、そのままでいて。染まんないで」
「……ボス。私は私。変わらない。ボスと一緒」
「――――」
 言うと、大きくボスの目が見開かれた。
 それから一瞬後、何に安堵したのか、すぐに今度は溜め息とは違う安堵の吐息を大きくつくと、天井のシャンデリアへとその瞳をゆっくりとスライドさせた。
 光が吸い込まれるようにしてボスの瞳に収束してゆく。
 キラキラとそれはとても綺麗に。
 そしてそれ以上に綺麗に瞳を瞬かせ、ボスが笑んだのが次の瞬間、自分の世界を色鮮やかに彩ったのがわかり、
「ああ。そうだね、凪」

 吐き出すように紡がれたそれに、ただ声もなく頷いた。



 帰ろうか、と。
 しばらくしてボスが言い、それに自分ははいと応え、背後に付き従っていつものようにその身を守って歩いてく。
 そんな帰り道。
 やがて独り言のようにボスは言うのだ。


 沢山の人がいた、あの煌びやかな世界の中で。
 ただ一人、ボスの眼に留まったひとのことを。



 

 「その子さ、ちょっと凪に似てたよ」









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                         ・
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 数ヵ月後。
 君に似てますと骸様が見せてくれた新聞の切り抜き、そこには希代のオペラ歌手と謳われ、はにかんで映る一人の年若い女性の姿。



 ………退屈な退屈なオペラ鑑賞。
 今度は三人で行きたいとボスに言おう。

fin.









06/10/28
06/10/30(修正・加筆)



■芸術を愛する■お題「オペラに紛れた少年」
(配布:フルッタジャッポネーセ様)

二人きりではなくて三人希望なのは言わずもがな。
というわけでうちの創作は基本すべて骸ツナ前提で、
凪はそんな二人の子供のような可愛い存在で、凪もまた
二人のことをとてもとても親のように慕っているという
捨てられた子犬(或いは猫。若しくはうさぎ)設定でよろしくお願いします。

凪の口調は個人的にこんな感じが希望…と捏造しまくりですみません。
(しかしそれはそうとお題の「オペラに紛れた少年」――10年後設定で書いたら、
もうツナ、少年じゃないよNE☆ と、普段使わない星マークなんぞ使って
お茶目にそう思ったのは、すべて書き終わったあとのことでした)

…………。

いいんだ、ツー君は永遠の少年だから!(痛々しい人がここに