やがて誓いは果たされず、ただただ涙まじりに、
抱き締める腕に力を籠めて、君とその明日を迎える。




―――明日を迎える

(標的116より10年後)

 見縊るな、と。
 思えばこんなにも語気を荒くして人に食ってかかったのは人生これが初めてのことだったかもしれない。いや、記憶にある限りは確かにこれが初めてだった。たった一度きりの、まだ半分すら終えていないのであろう自分の人生なのだからそれははっきりと言える。でなければ……

「君は馬鹿ですねぇ」

 ああ――――でなければ、こいつには何も通じない。
 今自分がどんなに悔しい思いでいるか。どんなに拳を握り締め、殴りたいのを我慢しているか……たかだか一度きりの人生を満足に思い返せないのであれば、そんな希薄で曖昧なものを信じろとは到底こいつに言えるわけもなかった。そんなやさしい言葉、だってきっと言ってもこいつには通じない。
 幾度も幾度も転生を繰り返し、その度にそのときの残酷な記憶を有し続け、幸福という幸福を擦り抜け、悪夢という悪夢を享受し続けてきたこいつには。
 そんな易しい言葉、通じるわけがないのだ。
「本気ですか」
「ああ」
 だからこそはっきりと俺は頷く。
 これはもう決めたことなのだと。
「何の得にもならないのに、損をするだけですよ」
「損とか得とか、関係ない」
(ただ俺は)
「クフフ」
 ただ、
 ただ。
「……もう嫌なんだ、お前がそうして平気そう笑ってるのを見るの。本当に嫌なんだ。お前には迷惑な話かもしれないけど、俺はお前を助けたいよ。仲間として部下として、そして家族として。お前という一人の人間を助けたい。だって俺は、お前がそうやって何でもないことのように自分の境遇を笑うたびに、ずっと、いつだってずっとそう思ってきたんだ」
「十年も、ですか……まあ、ご苦労なことですね」
 クフフとまた奴は笑う。
 小さく、小さく。消え入るように。
「そうだよ、十年もだ。十年も、お前はずっとあんなところに閉じ込められてて、それでも、本意じゃなかったかもしれないけど、こんな俺にずっと力を貸し続けてくれた」
 そして消え入る声と共に次第にぶれてゆく奴の身体を、無駄とわかっていて、必死で手を伸ばして、その頬を握り締めていた拳を開き、両手でしかと掴んだ。
 柔らかい。
 ぬくもりがある。
 けれどその身は決して当の本人のものではないのだと、意識が安堵しかけたそれらすべてを跳ね返して胸の痛みをまたキシキシと生む。
 残像。まぼろし。形なき躯。
 それこそが奴自身の幻術が生み出した類稀なるひとつの奇跡。
 けれどその奇跡と対峙するとき、自分の頭には常にそれが現実ではないことを知らしめる警鐘が絶え間なく鳴っていた。もうずっと、十年間、それは鳴り続けていたのだ。何故ならここにはいない、奴の現実は今もまだ全身を無数のコードで拘束され、大量の羊水に浸されながらあの無機質で残酷な機器の中に在るのだから。ただ独りそこで世界が終わるのを待っているのだろうから。

 指一本。
 睫毛すら動かせず、ずっとあれから、十年も。

「俺は行くよ。やっとお前を助けられるだけの準備が整ったんだ。俺は絶対、お前をそこから引き摺り出す。それで、」
「………そろそろ時間切れのようです。次にお会いできるのは、そうですね、半年後くらいでしょうか。それまでは凪があなたのことを守ってくれるでしょう」
「骸。なあ――骸」
(だから信じろよ)
 ちゃんと人は救われるんだってこと。
 伸ばしたその手はちゃんとしあわせを掴めるんだってこと。
「―――さようなら、綱吉君。また半年後に」
 言って視界に二重に映った奴の――骸の顔がするりと消えて、その下にやはり骸と同じ、綺麗としか言いようのない少女の顔が艶然と映し出されてゆく。けれど一瞬、その唇の端が柔らかく笑んだような気がして、
「骸……っ!」
 待てよと叫んだ、けれどそこにあるのは身体を貸し終わったあとの凪の切なそうな瞳だけだった。色違いではない、眼帯に覆われた片方だけの瞳がじっと自分を見つめてくる。そしてふわりと肩を優しく抱かれた。
「………ボス? 泣いているの?」
 柔らかな首筋にそのまま深く深く顔を沈めた。
 泣いているの、とまた凪が耳元で呟いた。それからすぐに、泣きたいの、と言い直してきた。
 その、凪の言う通りに、そのとき、俺の眼にただの一筋も涙はなかった。何もそこからは零れない。涙一つ浮かばない、閉じたその瞳には奴への憤りが溢れんばかりに渦巻いているだけだった。
「あんな意地っ張りの為に、俺は絶対泣いたりなんかしない」
「……怒っているの、ボス」
 凪がほんの少し、声を落として訊いてくる。まるで叱られた子犬のようなその優しさが、ああ、凪、だけどあいつには勿体ないよと束の間怒りを忘れて苦笑した。
「ごめん。…ごめん、違うんだ、凪」
「ボス……ねえ、ボス、骸様は自分の為にボスが無茶なことをしないよう、本当に、ただそれだけを伝えたかったの。迎えにきてほしくないって言ってたわ。来ればきっとボスは傷付くだろうから……」
 はらはらと肩に落ちる凪の小さな雫、その優しさに救われる。幼子のように、ただただ自分と骸のことを今でも慕い続ける凪は、きっとこんな自分勝手な男二人に挟まれて本当にいつもいつも神経をすり減らし、あれこれと困っているのだろう。

 だけど、だけどね、凪。

「……それでも、やっぱり俺は行くよ。凪。さっき怒っているのかと訊いたけど、違うよ。そうじゃない。俺はね、ただ心配してるんだ」
「ボス………」
「あいつのことを、もうずっと、心配してる」
「でも、ボス。骸様もそう。ボスのことを心配して……」
「だから来るなって? ―――冗談、こっちは十年間ずっと心配どころか我慢もし続けてるんだ。もういい加減、我慢も限界だし、正直そろそろキレたっていいくらいだと思うんだよね。あぁ、そう、そうだ。それでさ、凪」
「……なに、ボス」
 不穏当な密事を感じ取ったか、涙まじりの声で、それでもいじらしく健気に返答をくれる凪に、けれどその顔を更に震わせるようなことをはっきりと俺は告げる。
「うん。あのさ、とりあえず助け出したら骸の奴、思い切りぶん殴ってやろうと思ってるんだけど、それ、凪が見逃してくれると嬉しい」
 案の定、言えば凪の顔色がさっと白く色をなした。そして何かを言いかける凪に誓いを立てるよう、力強く笑って、その細い身体を静かに抱き締めた。
「ごめん。でもやる」
 だってそうやって思い知らせないと駄目なんだ。自分勝手で意地っ張りな、アイツは誰よりも誰よりも、優しい救いを欲している奴だから。
「―――ボス」

 行くの、と背後からの小さな声。
 それにはもう返す言葉はなく、足を前へと踏み出した。
 それは遙か、彼の地。
 彼のいるその場所へと向けて。









( 待ってろ。きっとその手に幸福を与えにいくから )

fin.








06/10/12
06/10/14(修正・加筆)

ツナの誕生日に合わせて。
生きとし生けるもの、
どうか皆、しあわせでありますように。