一番の理由が、その先にあるから。




―――空には、

(10年後マフィア/シリアス)



  ピョーイとどこかで笛のような音がした。

 横たわったままで重い目蓋を持ち上げる。するとうっすらと灰色にけぶる空が視界一面に映り、そこに先程と同じ笛の音が覚束無い鼓膜を微かに揺らし、滑り込んできた。
(……何の)
 うまく働かない思考を持て余しながら回答の見つからぬそれへ心の中だけでつと首を捻る。身体は動かさなかった。否、動かせなかった。頬に当たる雑草がほんの少しくすぐったく、身を捻るなり転がすなり何なりかしてどうにかしてそこから離れてしまいたかったけれど、それはとてもではないが無理だった。動かせない。


 ……ィ……ピョー…イ……

 
 なので音に導かれるようにしてツナは眼球だけを今ある場所より更に上へと押し上げ、その視界に映る世界をなんとか身体を動かすことなく眺め見ようと努力した。灰色の不鮮明な空がどこまでも続く。曖昧すぎて雲と空の境界がどこにあるのかよくわからない。……いや、別にわからなくても特に問題はなかったのだが、その広がる空があまりにも今の自分と酷似していて、確認して、咽喉を引っかくような笑い声が微かに洩れた。
 どこまでが空と、呼べないような空―――そんな茫洋とした大気の下で、今、自分は倒れている。ズタズタのボロ雑巾のように。或いは街角の隅で無造作に放り投げられ捨てられている飲みかけのペットボトルのように。
 ゴミみたいだなあと笑いながら何となくそう思った。
(ダメツナダメツナって言われ続けて果てはゴミって…………まあ、納得できないわけじゃないけど)
 多分そう言っても何ら問題なく、何の差し支えもないほどに今ここに在る自分はちっぽけで惨めで、そしてあまりにも寂寥とした存在だった。このままここに居たら確実に自分は人の記憶からも消えてゆく、そんな憐れな末路が待っているだけだった。
 けれど空しい、とは思わなかった。人はいつか必ず死ぬ。死なない人間などどこにもいない。
 いつ死ぬか、どんな死に方をするか、看取ってもらえるかもらえないか、笑いながら死ねるか笑えないでただ死ぬか。
 ……死に関して付随するものはきっと多々あるが、結局人は死ぬとき、生まれた時と同じく独りきりに戻るのだ。だからこそ人は生きているときにその寂しさを埋めるようにして人を追い求める。
 自分以外の誰か、共に在ることの出来る誰かを。
 そしてそんなふうに最期のときまでその相手と一緒に居られたならば、それはとても幸せな人生だろうと思う。たとえすぐそこに孤独へと回帰する死が迫ってきているのだとしても。
 ……まあ、自分にはあまり関係のない話ではあるが。
「あー……昨日……電話す……るって……」
(だってそんな簡単な約束すら、守れないでいるんだから、それも当然だ)
 精一杯の力をこめて、無気力に放り投げていた腕を持ち上げようと試みてみる。途端、鈍い痛みが腕のみならず全身に走り、襲い掛かる苦痛に思わず顔が歪んだ。
 ギシギシと何かが軋む音、じくじくと内部を突くようにして掻き乱す疼痛。垂直に在る空を、仰ぐようになんとか腕を持ち上げきったときには、心拍数が跳ね上がって、荒い息が咽喉の奥から幾つも幾つも零れだしていた。
 そして瞳からは熱い、胸の奥に潜んでいた衝動が滂沱のように今にも流れ出そうとしていた。
 じわじわと滲む視界に灰色の空がますます朧げに、儚く消えてゆきそうになりながら瞳に映る。その果てはどこにも見えない。
「ご……めん……俺……」
 約束を、守れない。
 きっと、自分は守れないで独りこのまま逝くのだろう。
(……お前を置いて)
「だ……って、だってさ………ほんと、必死、だったから…………携帯……どっかで落としたの…気付くの遅くて………気付いたら……付いたで…もう、この有様でさあ……」
 死ぬつもりはなかった。ただ必死だったのだと言えば、少しは許してくれるだろうか。
 うっかり連絡するタイミングを逸してしまうくらい、いつの間にか連絡する術を失ってしまっていたことにこんな絶体絶命の危機に陥るまで、まるで気付かぬほど必死で。ただ必死に、マフィアとしての務めを果たそうとしていたと。
 言えば、多少は大目に見てくれるだろうか。
 思って、すぐに無理だろうけど、と細かな霧のような血を吐きつつ、笑いながら思い直した。
 一瞬の気の緩みが生命に関わる職業であると充分わかっていたのに、なのについ気が緩んでしまったのだ。大目に見てもらえるはずがない。
(でも、助けてくれって言ったんだ。脅されてたんだって、子供がいるんだって、泣いて……泣いて帰りを待ってる子がいるんだって。怖くて怖くて、仕方なかったんだって)
 その必死さに絆された結果がこれだ。
 銃弾は急所は逸れたが己が身に食いつき、嬉々として辺りに大量の血を撒き散らした。持ち上げた手は先ほどまでその傷口を押えていた所為でもあって、恐ろしいほど真っ赤な様相を呈していた。ぬらりと光る、自らの鮮血。…自分が死んでしまえばこれもやがて黒く変色してしまうのだろう。そしてそんな無残な死体を自分たちの部下は見ることになって何を思うだろう。
 不甲斐無いボスだと思ってくれればいい。
 脆弱で愚かなボスだったと見切りをつけてくれればいい。
 決して。
 ――――決して嘆いたりは、しないでほしい。こんな……こんなにも愚鈍な人間の為には決して。
(俺は……やっぱり弱いんだよ。……肝心なところでばっかり…失敗する、人間なんだ……こんなボスでごめん。ごめん……ごめんな、みんな……)
 それでも地面に額をこすりつけ、何度も何度も助けてくれと懇願した男の涙が嘘だったとは思えない。こんな目に合ってもまだ、あの男を憎む気持ちは欠片も生まれてこない。
(だって……やっぱりこれが俺だから)
 誰を恨むつもりもない。恨むようなことでもない。
 ただ。
「……選んだんだ、俺。それだけ…なんだ」
 あのとき、自分は幾つかの選択肢の前にいた。
 そして居並ぶ未来の中で、これを選んで、今のこの現在を自ら引き寄せたのだ。結局はただそれだけのこと。そんな自分のしたことでどうして他人を責めることができようか。……責められることはあっても責めることなど、自分には到底出来はしない。
「ごめ……ん……ごめんなあ……」
 だから約束をやっぱり守れそうにない。
 そんな俺にお前は怒ってくれていいから。




(…大丈夫ですか。あなたは肝心なところで甘いんです。そのスパイだって男を追跡するのはいいですが、何があっても自分がファミリーのボスなんだということを、どうぞ忘れないでいて下さいね。勝手に軽率な行動をしたらあとで怒りますよ)

(ああ、うん…まあ、でも大丈夫だよ。追跡してちょっと向こうの様子を見てくるだけだから)

(その発言自体がどうも軽く思えるんですが……くれぐれも慎重に。いいですか、もし傷の一つでも作ろうものならあとで本気で怒りますからね)

(……あー、肝に銘じておきます。でも、ま、と、とりあえず。明日、片がついたら一度電話するし。大丈夫だって、お前ちょっと心配しすぎ)

(それはあなたがそんなだからですよ。……ああもういいです、言ってもどうせ直らないでしょうから。一先ず終わったらすぐに電話して下さい。いえ、終わってなくても即行で電話して下さい。)

(いや無茶言うな)

(無茶でも何でも、いいんです。いいですか、ボンゴレ。必ず終わったら僕に――――)




 電話、

 
 ……するって言ったんだけどなあ。


 ピョーイと頭上でまた笛の鳴るような音がした。鼓膜を揺らし、記憶を廻し、回想する間、何故だかそれが無性に切なく痛む胸を更に締め付けた。帰らなくてはと思い、帰れないことを自覚させられたからか。
「……ごめん…………ごめんな……むくろ」
 空は灰色だ。
 自分を冠する大空は今そんな色をしている。ああ、まったく、天気までもが自分の失態を責めているようじゃないか。おあつらえ向きにも程がある。
 滲む視界で空を仰げばそんな世界をくるくると軽快に巡る数羽の鳥が、ピョーイと軽やかな鳴き声を洩らしながら飛んでいるのがその目に映り、
「――――それで、」
 頭の後ろから低い、いやに落ち着いた声が辺りに響いた。
 驚いて身を起こしたかったが、無理のきかぬ身体は僅かにびくりと肩を震わせただけで、他に何の動作を取ることもできず終わった。視界には尚も薄墨の空と遠い母国の子供の頃を思い出させるような、笛の音と、螺旋を描き続ける鳥の姿。視界にはそれだけ。たったそれだけだった、他には何も映らない。それでもそれは新たに網膜を大量の水滴で浸した。


「もう、君は見つめる方向を決め終えたんですか? 僕に電話をすることもなく、――――生か死か」




 約束したでしょう。

 顔のすぐ横にぽんと見慣れた携帯を放られる。逆さまに映ったその姿に、一体それはどんな手腕を用いて自分の居場所を突き止めたのか、ましてや本人ですら落とした場所のわからぬそれをどうやって拾い、回収してきたのか……色々、諸々。訊きたいことは沢山あったけれど、ようやく顔を覗かせたそのふてくされた迷い子のような瞳を見たら、何を置いてもまず真っ先にこいつを抱き締めなければならないとギシギシと痛む腕を更に空高く伸ばして、擦り抜けようとする何かを必死で掻き寄せ、触れたその熱を離さぬようにと力一杯抱き締めた。






 今にも泣きそうな迷い子と、死にたくないと泣き出しそうな自分の為に。


fin.








06/11/09
06/12/10(拍手より再アップ・加筆なし)

■立ち上がる■お題「見つめ続ける方向は決めたか?」
(配布・フルッタジャッポネーセ様)

……にて、骸ツナ+10年後マフィア話でした。
たまにはこんなのも有りかと思い。
なんであれ、追うことを追い求めることを止めてしまったら、
きっと人は生きてゆけないと思います。