そんな些細な倖せでも。




* 順応ロマンス *
#02 薫風




 いつもの通学路をいつものように歩いていた。いや、そのつもりだったのだが指摘されて初めて傍から見たら実はそうでもなかったらしいことに気づかされた。
「なんだか最近とても気持ち良さそうですね」
「ええ? そうかな。別にそんな特に何かあったわけじゃ……」
 思わず瞳を瞬かせて考え込む。
 けれど昨日の抜き打ちテストは相変わらずのダメダメな成果であったし、体育では運悪ければ骨折してもおかしくはないくらいのハチャメチャな波乱に満ちた授業内容に、いいところなんて当然一つもなかった。あわやというところで不運をなんとか回避することができたのは、一重に今自分の隣を歩く友人が咄嗟に動いて庇ってくれたからだった。けれど感謝はしてない。そもそもそのトンデモナイ騒動を起こしたのは他ならぬそいつ自身だからだ。
「ていうか何かあったって言うなら、お前が昨日の体育の授業、ドッジボールで無茶したことくらいだけど……ああ、思い出したらまた胃がキリキリと……」
「おや、可哀相に。さすってさしあげましょうか?」
「いい、要らない」
「じゃあ舐めてあげます」
 もっといいから。
「つか、誰の所為だと思ってんだ、誰の……お前があんな無茶なことしたからだろ。おかげで俺は骨折どころか危うく窒息死までしそうになったし」
 呆れながら突っ込むと、楽しげに笑っていた骸の肩眉が不思議そうにひょいと浮き上がった。ああ、こんちきしょう。こいつほんとに覚えてやがらねえ。
 そんな予想は見事に当たり、
「はて? そんな怒られるようなことを僕はしましたか……? 意識混濁中の君を助けたのは覚えてますが」
「どの・口・が! それを言ってんだ!!」
 意識が混濁したのは、最初はまともだったドッジボールで敵味方関係なくお前が俺以外の奴を狙いだしたからだろうが!(しかも一切の手加減なく)(そして怯えたクラスメイトたちがこぞって安全圏へと逃げ込む為に俺の周りに急激に集まりだして、ギュウギュウギュウギュ……意識混濁というより寧ろ人波に圧迫されすぎてむしろ死にかけた)――指摘し、怒鳴るも奴は平然と、涼しげな顔でそれを軽やかに受け流すと、
「おやおや。言いますねえ……では確かめてみますか?」
「確かめるってどう」
「言ったほうがいいですか?」
 そう言って、形の良い唇からクフフと怪しげな笑みを零した。ていうか俺の文句は一切合切すべてスルーかい!
「絶対、ほんと、死んでもイヤ。」
「……綱吉君は相変わらずつれない人ですね。いい加減楽になったらよいのに。我慢は身体に悪いですよ?」
 してないし! と、うっかり油断していた隙に腰に手を伸ばされて、朝から何の躊躇いもなく堂々と自信に満ち溢れたセクシャルハラスメントを行使してくる骸の、ついでに近寄ってくる顔をのけぞりながら片手でぐいぐいと引き離す。お前ほんと怖いよ!
(あああああ、ていうかマジだってわかってるけど!)
 冗談めかして迫ってくるが、隙あらばといった感じで奴がいつでも本気なのを、俺は知っている。…ちゃんとわかってはいるが、でも俺はそれを許容できない。奴が俺に世間で言うところの恋慕の情をあけすけなく寄越してきても、俺は結局それに友情しか返せないのだ。
 俺と骸。
 そんな平行線がいつだって二人の間にある。普通ならばそれで互いに離れていってしまうのが普通なのだろうが、そうならないのは限界ぎりぎりのラインを奴も俺もどこかしらで守っているから。均衡を崩さないように。まだ崩せないとでも言うように。
(なんだかんだ言って、俺もこいつに甘いんだ。だから、)
 突き放せない。
 この微妙な距離感を保ったままで、せめてまだあともう少しと願ってしまうのだ。そんな女々しい俺を、骸もまたやはりどこかで理解している節がある。
(実際、許容してるのはこいつの方なんだよなあ)
 突き放すことも、近寄ることもできないどっちつかずの俺を、俺の為に許容してくれている。――と、思うのは単なる俺の傲慢か自惚れか。でもまだ本当に離れたくはないのだ。この安心できる距離を、居場所を、俺は手放したくないと思っている。
(いつか、離れなきゃいけない時がくるんだとしても)
 まだ。
 ――――今はまだ、このままでと願う。まるで星の願いをかけるような、甘ったるいロマンティストみたいだ。
「綱吉君? そんなに呆けてるとほんとにしちゃいますよ? いいんですか。いいんですね? とりあえず足腰立たなくなるくらい濃厚なのでこの僕の思いの丈を技が及ぶ限りぶつけてみようと思いますが、いかがでしょうか」
「却下。」
 一瞬の躊躇いもなく断言すると、ひどいです、と恨みがましく半眼で訴えかけられた。……あ、拗ねた。ついでに言うと話がどんどん歪曲していっていることにもようやく遅ればせながら気づいて、こめかみへと思案するように指をかける。溜め息。ええと、何の話をしてたんだっけ。そう、最初は―――
 ふと、ふわりと薫った……というより鼻先を掠めていった香りに導かれるようにして顔を上げる。そこにあるのはいつもと変わらぬ通学路。まだ朝も早いせいか(というかこいつが迎えにくるのがやたら早いせいで)、人の姿もまばらで、空気がシンと澄んでいるのが肌を通じて直に感じられる。そして秋から冬へと切り替わるこの微妙で曖昧な季節特有の清廉な空気に入り混じって薫ってくるこの香りは………
「あぁ、そっか……金木犀だ」
 すとんと眼が覚めるように理解した。
「何ですか、藪から棒に」
「いや、ほら、どこかな……どっかから金木犀の香りが……」
「それならあそこの家の塀の向こうからじゃないですか」
「…………俺見えないんだけど」
 骸の指し示す先を愕然と見返して小さく零す。
「僕には見えます。庭の隅に確かに植えられてますね。綺麗に咲いています」
 相変わらず人体の限界を無秩序に無視した奴だといつものように呆れながら、もう一度、首を巡らす。けれどやはり塀に阻まれ、金木犀は欠片も視界に映らない。
「要るなら取ってきてさしあげましょうか?」
「盗ってくるの間違いだろ。――いいよ。別に。花盗人なんて洒落にもなんない。ちょっと良い香りだなって思っただけだし。ああ、でも、そっか。もうそんな時期だったんだな……」
「それで機嫌がよかった?」
「あー…そうみたい。無意識だったけどさ、やっぱり良い香りだし、朝から気持ちいいわけだから」
 鼻につくような強烈な芳香でなく、金木犀は花弁だって特にこれといって目立つわけでも、華美な様相を呈するものでもない。存在を強調しない、控えめな印象のある花だ。華やかな春や夏にはとても似合わないだろう。秋と冬の最中にあるからそれはゆるりと目立つことなく人の心を和ませる。少なくとも俺はそう思っている。
「綱吉君は金木犀がお好きなんですね」
 ふうんと独白するようにして言う骸をふと見返す。
 なんだかとても、唐突ではあったけれど。
「お前、似合いそうだな。金木犀」
「……今日は驚かされてばかりです。僕にですか? 似合いませんよ、それを言うなら君でしょう。地味なところがよく似ています」
 せめて控えめって言えよ。
 しかも似てるってなんだ。
「あと見ていたら和むところとか」
 …………。
「おや、どうしました、綱吉君。顔が赤……」
「――お前今絶対わざとだろ。今の絶対わざとだ! うわーうわー! もう信じらんねえ!」
「照れてる君も可愛いです」
「否定もなしかよっ!」
 しろよ否定っっ!
 ぞわぞわぞわ、と。俄かに鳥肌が立って、大仰に声を荒げて叫び倒す。そうやって悔しいが不覚を取った自分をさりげなく隠しているつもりであったのだが、クフクフと小刻みに笑う奴にはどうにも色々見透かされているようで、頬を引き攣らせる。
「おや? もうおしまいですか、綱吉君」
「つーか、突っ込む気も失せた……」
 ああ、ああ、どうせ馬鹿なことを言ったよ、認めるよ、ダメツナだもんよ、と思うも、素直に認めるのはそれはそれで癪に障る。
 ので。
「前言撤回。お前が金木犀に似てたら少しは好きとか言えたんだけどなぁ」
 少し意地の悪い笑みを浮かべてそう嘯くと、途端に訂正させて下さいと目の色を変え、神妙な面持ちで迫ってくる骸がいて、その必死さにささやかだがほんの少しだけ胸のすく思いを味わいながら、やがて風にまぎれて脇を通り抜けていった金木犀の香りに今はまだやっぱりこのままがいいなと頬を緩めて小さく笑った。





 それはそんな秋と冬の、狭間の季節に。

fin.






06/10/13
06/10/15(修正・加筆)


あの花がなってるようには思えない枝葉から漂ってくる
オレンジの金木犀が大好きです。でも元々、
骸と金木犀のツーショットが見たくて書いた話でした。

次の日、ツナが学校行こうとしたらにこにこ顔で手に
金木犀の枝葉持って玄関先で立ってればいいじゃない、とか思います。

(そのあと骸連れてぺこぺこあの家に謝りにゆけばいいと思…以下略)