高校を出るまでの日々を。
 共に過ごしたその街は、けして綺麗とは言い難い、不良グループが風紀委員なんて堂々と 名乗ってしまえるような、人の欲望が複雑に交じり合っていた場所で、でも言ってしまえばどこの街でもそんな人の思惑がやはり抜け目なく複雑雑多に入り混じり、渦巻いているのだろうと思い起こさせるに充分な、平凡な街でもあり、
「ごらん、綱吉」
 けれど細長いその指が、すっと、闇に溶ける星空をまるで遠い何処かの国か何かのように 荘厳に指差した光景は、けして綺麗とは言い難い街の中で、混沌と渦巻いていた自分の胸の内までもを払うかのように、それは美しく、限りないもののように輝いて見えたのです。




「 寂果ての地(せきはてのち) 」

(卒業後)



 カーテンとガラス板に仕切られた窓辺へと寄り、それを引いて開けた眼下を見下ろす。すると屋敷の中庭で警護の番にあたっている部下達数名の姿が目に映り、春先とはいえ寒いだろうにと俄かな同情に、つと眉間に軽い皺を寄せた。と同時に。
「…沢田殿」
「―――え?」
 どことなく渋味のある、耳に聞き馴染んだ声がするりと鼓膜を通っていった。振り返りながら確認する前にその名を舌に乗せる。やがて振り返った先にまだ若干の幼さを残すバジルの姿を見つけ、予想通りの人物の登場に大した驚きはなかったものの、こんな夜更けに来訪するという彼の行為の意図に思い当たるものがなく、そちらにはきょとんと瞳を瞬かせるに至った。首を傾げながら静かに向き直る。
「あれ…? どうしたのバジル、何か緊急の用事?」
 いやその前に、ノック、あっただろうか。漠然とそんなどうでもいいことを考えていると、まるでその思考を読み取ったかのようにバジルが口を開き、自分の疑問に素早い回答を寄せてきた。渋面に、また少しその深みを増しながら。
「拙者、通りかかっただけなのですが…………」
「う、うん?」
「……開いておりました」
「ん?」
 何が? ―――言う前に。
「扉が。」
「……………」
「扉が開いておりました、沢田殿。」
 ずずっと詰め寄るようにして言われ、眉間の皺がやがて非難するような色をみせはじめる。いや、実質バジルは今このとき、自分のことをわかりやすく責めていたのだ。
 言いたいことはよくわかる、わかる故に、「う」と小さく呻いてのち、
「…いや…あの、多分それ……あー…目の錯覚だよ。うん、そう、目の錯……」
 視線を横に泳がすと、それについては追うものはなかったけれど。
「沢田殿」
 声の深みが俄然増し、思っていたよりわりとご立腹だったらしいことが知れた。うわあ、藪蛇、と背筋に冷たいものが走る。
「…ご、ごめんバジル」
 観念して謝罪する。
 改めて。
 心を籠めて。
 誠心誠意、正直に。
 そうしたところでバジルの肩から不意に力が抜けた。
 脱力したのだ。
「…………どうして沢田殿はそう危機感に欠けるのでしょうか。そうやって容易に窓辺にも寄り、躊躇いもなくお姿を露にしたりして……危険です、とても。いつどこで狙撃されるかもわからぬ大切な御身なのですからどうか、できればもう少し自重して頂かなくては……」
「え、でも、ここ、防弾ガラスだし、大丈」
「では声をかける前に鍵の方にとかけていらっしゃった手は、拙者の目の錯覚だったと申されますか?」
「…………」
「目の錯覚と申されますか、沢田殿」
「…ご…………ごめん、あの、ごめん、バジル、えええええ笑顔のまま怒らないで怖いから!」
 元々自分と似た気質に近い穏和なバジルであるが、そんな彼とイタリアにて日々を過ごすようになって早や二年。彼の心配性すぎるきらいは大袈裟と呼べるような部類に多分に含まれることもはもはや気のせいでもなんでもなく理解するところであり、大丈夫なのになあとぼんやり心の片隅で思うも、真剣に、親身に心を砕き傾けてくれていることもわかるので、こんこんと子供のように注意されたあと、洩れるのは大抵微かな苦笑といつもいつもありがとうという感謝の念だった。
 更には今回言っていることは確かに正論で、声を掛けられなければ自分はバジルの言う通り間違いなく安易に窓を開け放ち、外を巡回する部下たちに向かってお疲れ様ーと呑気に労いの言葉を掛けていたことなのだろうからこれについては到底反論など出来やしない。
 思っていると、不意に、思いもよらぬ言葉が飛び込んできた。
「沢田殿は……ボスで在るのがお嫌なのですか?」
「え?」
 振り返ってみれば。瞳を翳らせたバジルが言いにくそうに、それでも言わずにはおられぬといった様子でこちらを見ていた。
 それにしてももう二年も経ったんだなあとしみじみ思い返していた、そんな綱吉に対して、それはあまりにも唐突で、まったく予想すらしていなかった、突然のことだった。思考に大きな空白が作られる。
「え、なに急に……バジル…?」
「拙者の気のせいならばよいのですが……沢田殿がそうやって無意識に無茶をするとき、大抵いつも遠くを、ここではない何処かを眺めているような気がするのです……まるで」
「後悔でもしてるように?」
 言えば、瞬間、はっとバジルが息を呑んだ。言葉尻を捉えて正確にそれを紡いだ綱吉が意外だったのかもしれない。言い難いことを自らに突き付けるように口にする。それはある意味ひどく自虐的な行為でもある。けれど綱吉はそれを躊躇わなかった。そう―――わかっているのだ。自分でも。バジルに言われるまでもなく。
(でもこれはね、後悔とかそんな重たいもんじゃないんだよ。バジル)
「す、すみません! 立ち入ったことを……!」
「いや、別にいいよ。大したことじゃないし。そっか、バレバレなんだね、オレって」
 恥じ入って俯くバジルに、軽く言って苦笑いを落とす。見抜かれるような態度を知らず見せていた迂闊な自分が悪いだけなのだ。なにも彼が恐縮することはない。だが言ってもバジルは気にするだろう。となれば取るべき道は一つ。
「うん……まあなんていうか。遠いところっていうか、星空の国、かな」
 正直に言うと、案の定、
「……は?」
 幼さの残るバジルの瞳がぱちりと丸くなった。理解が思考に追いついていっていない。
(まあ、当たり前かな。そんなの急に言われてもね)
 そうですか、星空の国ですか――なんてあっさり納得されてもこっちも困る。寧ろ驚く反応こそが欲しくて言ったのだから、バジルのそれは実にこちらの期待通りのもので、狙い通りの反応に、頬に嬉しさを乗せたまま柔らかく綱吉は微笑んだ。
 視線を外し、窓の外を見る。空は深い藍色に沈んでいて、月明かりが仄かな星の灯火と共に綺麗にその半月をそこに浮かばせていて、ああ、綺麗だな、と言葉にすることなくひっそりと胸の内だけでそれを思う。
 そこに、僅かな間を置いて。
 視界に映るそれとはまた別の、もう一つの空が被るように眼球の隅に滑り込んできた。懐古する。引き出しの奥に仕舞い込んだものを引っ張り出すように。
(あの日は雲が沢山あったから、こんなふうに綺麗じゃなかったなあ)
 それでも、掘り起こされた記憶にあるその夜空はとても綺麗なものだった。
(だから、後悔じゃないんだよ)
 星空の国。あの遠い空の下。
「そこにね、一番似合う人、置いてきたからさ。だから時々思い出してこうやって懐かしんでる。それだけのことだよ、バジル」
 言ってしまえばそんな話。バジルの言う通り、確かに自分は遠くを見ている。けれどそれはけしてマフィアのボスになったことへの後悔などではなく、ましてや気軽に帰ることも叶わなくなった故郷への痛苦でもない。
「ただの感傷だよ」
 懐かしい、と、振り返って思うだけの。ただそれだけのものだ。
 心配させてごめんね。
 謝ると、いいえ! と激しく首を振られ、沢田殿には何の非も御座いません! とバジルが身を竦ませるのがガラスを通して目に映った。まるで獄寺君みたいだとそれを見て思う。
「…明日、晴れるかな」
 ゆっくりと空を見上げ、濃い闇の空に通り過ぎてゆく面影を思い、目蓋を下ろす。
 紡ぐことのない言葉をその内に閉じ込めながら。
 後悔ではないそれを今はただ懐かしく思い出す。

(あなたは今も群れを嫌って生きていますか――雲雀さん)




***




 ……あの美しい光景が今もこの眼と脳と心に深く染み込み、刻まれています。ごらんと俯いた自分の瞳を掬うようにして指された空は、都会らしさの若干残る明るさで、人が肉眼で見ることの出来るという一番暗い、六等星なんて当たり前のように追うことが出来ず、明日の曇り空を如実に告げる分厚い灰色の斑模様は薄暗く垂れ込めた空を嘲笑うかのように覆っていたけれど。
 俺にはその闇に浮かぶ全てが輝いて見えました。

 だから。

「……雲雀さん」
「なに」
「オレ、行こうと思います、イタリアに」
「……ふうん、そう。でも、僕は行かないよ。面倒くさいし」
「はい。わかってます」
「…………」


 けして綺麗ではなかった街の、綺麗ではないことを痛感させる薄く濁った空の下で最後の決断をした、そんな自分に馬鹿じゃないのと言って顔を歪めたあなただったけれど。
 けれど、あなたの愛した街をいつでもあなたがあんな風に静かにふと見上げられるように。 あなたのそばへ、それを置いていこうと思ったのもまたその時だったのです。
 だからどうかその顔を空へと手向けるとき。たまにでいいから一緒に馬鹿な自分のことも思い出してくれたら嬉しいです。
 たったそれっぽっちとあなたはそれを笑い飛ばすか、或いは厭うかもしれません。
 けれどそれでも。
 そう思えば……脆弱な自分のそんな強がりを只の強さへと変えることだって出来たのです。



『だって雲雀さんは、ここに居るのが一番自然で、似合ってますから』



 だから大丈夫です。
 今日も自分は笑っています。笑えています。
 




「……晴れてる、かな」




 あなたのいない、この寂果ての地でも。



fin.









07/03/27



あなたが指した未来とは違う未来を選んだ。
想いは全てここに置いて、
そして全て隠したままでいましょう。



(だからあなたはその地に置いていきます)