唯一つの、それは。




「 惜しみない愛をその身に掲げて 」

(10年後マフィア話/友情とか)



 落ち込む時の癖らしい。
 ぐずぐずと鼻を鳴らして、人間一人に対してあまりにも広い、広すぎる一室の、わざわざその四隅の角へと身を寄せ、膝を抱えて蹲るようにして泣くというのは。
 丸まったその背を少し離れた場所でどうしたものかと困惑しながら眺めていた凪は、
「……ハルさん」
 そう声をかけたあと、続く言葉が見つからず、使用用途の定まらぬ自身の手を胸元で握り締め、その場に棒のように立ち尽くして前にも後ろにも行けぬ現状に実のところほとほと困り果てていた。
 どうすればいいのか本当によくわからない。そしてかけるべき台詞が見つからないから、言葉は自然とその名を紡ぎ、当人に対して何の慰めにも根本的解決にもまるでならぬ、単純な呼びかけだけをただ繰り返してゆくばかりで。
「ハルさん」
 けれど凪に出来ることといえば結局そのくらいのもので、この目の前の女性がどうすれば泣き止むかなど思考回路のどこをどう引っ繰り返してみてもやはり見当たらない。――否、見つかるわけがないのだ。何故なら凪にはこれまで親しいと呼べるような同性の友人などただの一人もいなかったのだから。
 唯一自分のことをわかってくれると信じ、慕った相手は雛鳥が親鳥に懐くような絶対的なもので、対等な視点で見れるような――見てよいような――そんな相手ではなく、そしてたった一人で構成されていたそんな世界に他に仲間と呼べる人たちが生まれ、ボスと呼ぶ敬愛すべき人物が別に出来た―――そんな今であってもやはりその中に「同世代の女友達」というカテゴリが出来ることだけはついぞなかった。
 何故か。答えは明白だ。ここにはハル以外にも同世代の女性はいる。けれどそれは敬愛すべき「ボスの傍らにいる女性」であって、決して凪にとっての友人ではなかった。次いでそういった状況に自分もまるで不満を覚えずに今日まできたから―――
(一体どうすれば……)
 「友人」というカテゴリは相も変わらず遠くに追いやられたまま、現状今日に到るというわけなのだ。だから凪に対処の仕様などわかるわけもない。
 ただ常にボスのそばで働いているから、大体のハルの性格というものだけはある程度わかってはいるつもりだ。
 ボスの愛人になるのだと言って、周囲の反対も制止も聞かず、それら全てを振り切って己が信念のままにイタリアへと単身乗り込んできた、けれどその実、ごくごく普通の、一般的な常識人でしかない三浦ハルという名の女性。
 ボスは、けれどそんな彼女にとても弱い。
 行く当てがないのだと言う彼女に仕方ないからといって本部の一室を破格にも分け与え、住まわせていることもそうだが、それにハルが大層喜んで、「愛がやっと通じましたッ!」と一晩中しあわせそうに陽気な歌声を邸内中に響かせていたことにも苦情は零せど結局それらを止めることはしなかった。
「まぁね、帰ってくれるならやっぱり帰ってほしいし、それが一番なんだけどさ。……そうもいかないみたいだから」
 仕方ないよね、と言って。
 出来うる限りの安全策を―――マフィアという世界においてあまりにも無力な彼女の為に―――二重三重にも手を尽くし、ハルという名の生命への保険をかけてボスはただただ苦笑する。諦めなのかと問えば、それもあるけどちょっと違うかなと告げられた。実力行使にでれば強制帰国させるなんてことはわけないことだし、と提示されればそれは確かにそうで、それをしないということはボスは彼女の行動を困りつつも許容しているということなのだろう。それは凪にもなんとなく察することができた。
(でも何故)
 まるで赤子のように鼻を鳴らしながら部屋の片隅に蹲って泣き腫らす、一年で一番穏やかで、心安らかなぬくもりと慈愛に満ちた、瞳に眩しいばかりの季節の名を持つ彼女。
 三浦ハル。
 この世界を生きるには彼女はとても弱すぎて、小さすぎて。
 帰ったほうがいい、帰るべきだと凪ですらもそう思うのに。そんな判断がいともたやすくできるのに。けれど幾度諭されようと、何度懇願されようと、彼女は決して帰らない。帰りたくない、帰るわけにはいかないのだと泣きながら、喚きながら、切々と、子供のような頑固さでボスの言葉を強く強く拒絶する。なにがこうも彼女を駆り立て、突き動かしているのか、凪には彼女への慰めと同様にそれもよくわからないことの一つだった。
 拒絶されれば痛いだろうに。こんなふうに悲しげに肩を落とし、背中を丸めて泣くのだろうに。
「ハルさん……ハルさん」
「うっ…うう……っ」
「もう日本に帰りましょう。ここはやはり貴女には合いません。ボスもそれを願っています」
 ぶんぶんと首を振られる。言葉よりも先に。感情が彼女の首を左右に振らす。
 それから丸まった肩の向こうで涙ながらに殊更はっきりとハルが口を開くのがわかった。
「だめです、そんなの、ハルは、絶対に、いやです。ツナさんがなんて言おうと……ハルは……ハルは帰りません。ここに、いるんです……絶対……だってそうじゃないとツナさん、忘れてしまいます……そんなのだめ……だめなんです…絶対に」
「……ハルさん?」
「ハルは、だからここにいるんです。ツナさんのもう一つの、現実、と、して」
 だから逃げたりなんかしません。
 とつとつと、涙まじりに、唇を噛み締めたハルの言葉が儚く聞こえる。
 その心に―――気付けばそれは、困惑する凪の心に静かに流れ込み、ハルのそれは今の「自分」を構築するこの世界のすべてに対して想う、心の奥に住まわせている大切な気持ちとよく似ていることに気付くこととなった。
「ハルさん……」
 そして決定的なところで違っていることに次いで気付かされ、ああ、だがそれこそが彼女を突き動かす衝動なのだと理解もできた。
 彼女の心はあまりにも大きな、ただ一つのことを、ただ一人のことを、考え、想って、無茶や無謀を全て強引に、自らの世界の……蚊帳の外へと置いているのだ。それに付随した恐怖も危険も不安も、共にすべて外に置いて。追いやって。無理矢理にでも。それは。
(すべてボスの為に。ハルさんは……)
 ハルのことをわかっていると思っていた凪の、それは予想を上回るほどに。
 こんなにも、彼女はボスのことを大切に想っている。愛して、ここではないもう一つの、ボスが別れ惜しんで置いてきた彼の地を、共にそばにいることで必死に守ろうとしている。得心がいった。きっとボスは、そんな彼女の心を知っているのだ。だから決してハルを邪険にはしない。無理矢理に帰らすことはできるが、それをすれば彼女の全てを否定することになるからと。
(そしてそれはボスの愛すべきもう一つの世界を)
 ぐずぐずと未だ肩を震わせて泣くハルを見る。……そんなにも強い信念を持つ彼女であるのに、今、彼女は子供のように恥も外聞もなく嘆き、泣いている。何故かと今更ながらにその理由を思い出し、……ああ、と吐息にも似た呟きが凪の唇から漏れ落ちた。
(そう。ボスが、嫌いになるからと)
 それは今朝のことだ。
 敵対するマフィアとの抗争が勃発、激化した。
 ボスは最後にもう一度だけ相手との会談に臨もうとした。そしてハルがそれについていくと言い出したのだ。ボスの身を案じて、自分も共についていくと。
 それを当然の如くボスは却下した。絶対駄目だと、彼女の言葉をその身の安全を思い、一切の躊躇なくばっさりと切り捨てた。しかしそれでもハルは食い下がった。女を連れてゆけば相手もきっと少しはその態度を緩めるだろうと。
 それはあながち間違った考えではなかった。身を守れずとも長年この世界のことを見てきたことを示すようなその力強い発言は、平凡な彼女の、彼女なりの覚悟だったのかもしれない。けれどこれにボスはやはり断固反対した。だがしかしハルが頑として言うことを聞かず、引かなかったものだから、そんなことを言うならもう嫌いになるよ、ととうとうボスは最後の手段へと出たのだ。
 たった一言。
 そんなこと言うハルは好きじゃない。…嫌いになるよ。と。
 やがてみるみるうちに消沈していったハルのすぼんだ肩を、凪はその背後に控えて黙って見ていた。そしてボスは、
「…ハルのこと、頼むよ。無茶しないように見ててほしい」
 と、念の為のもう一つ保険を彼女にかけて、そうしてあとはもう一切振り返ることなく出かけていってしまった。ここまで言ってしまえばもう彼女が泣くしかないことをわかった上で。
 彼女を強くも弱くもするのは、結局そんなただ一人の、ボスに掛かってのことだけなのだ。だからボスへの愛で満たされた心を拒絶されれば、彼女は折れてもう泣くしかない。それがあまりにも哀れだから、可哀相だから、そんなハルの姿を見る者は一様にもう日本に帰ったほうがと助言する。
 けれどそれでも。
 彼女の心を強くも弱くもする、そんなボスの存在があるからこそ、ハルは拒絶されて泣きはすれど、迷ったり揺れたりはしない。
 傷つきやすいその心で、ただの一片の曇りもなくボスへの愛をこれから先もずっとひたむきに謳うのだろう。――ならば。
(彼女を救う答えは)
 それこそ。それこそ実に簡単なことなのだ。
 答えは最初からこの丸まった背にあった。
 だから。
「……泣いてはだめです」
「っ、……?」
 気付けば呟いていた。
 そんな凪にハルが泣き腫らして真っ赤に染まった瞳を、おそるおそる、実に不思議そうに向けてくる。…いや、当たり前のことかもしれない。こんなふうにハルへと凪が義務や責務でなく真摯に声をかけたのはこれが実に初めてのことで、そんな突然の変化にハルが何事かと訝しんで驚くのも無理はない。凪ですら自分で言って驚いているのだから。
 何か夢でも見ているかのような亡羊とした眼差しが注がれ、それを内心でほんの少しの動揺と共に受け止め、凪は静かにハルへと歩み寄り、その前に立つ。
 そうしてするりと咽喉を出ていった言葉の裏で、ボスの他愛ない言葉一つで一喜一憂し、しあわせそうに笑うハルの姿を思い浮かべる。
 強く。
 そして。
 それから?
「…泣いては、だめです。だってハルさんは、ボスの愛人になるのでしょう…でも泣いていたらなれません。だから……」
 いつものように。
(…笑って)

 ボスへの愛を。

 そんな敢えて呑み込んだ最後の言葉は声となって外に飛び出すことはなかったけれど、それでも真一文字に引き結ばれた唇からは次に哀しげな嗚咽は洩れることなく、
「……も……もちろんですっ………!」
 その誓いを果たすように、言って更なる勢いの増した泣き声には、もうどこにも哀しさはなく、次第に悔しさが籠もり始め、帰ってきたらハルを置いていった文句を言うんですと顔をくしゃくしゃにしながら懸命にその愛を言い募るハルがいて。
 やがてゆっくりと凪は身を屈め、彼女を強くも弱くもする、ボスへの愛がここにある、そんな確かな心に気付けば微笑みさえ浮かべながら、
「―――はい、そうして下さい」

 ハルさん。

 一年で一番穏やかで、心安らかなぬくもりと慈愛に満ちた季節の名を冠する彼女へと静かにその手を差し出した。







fin.









06/12/24
07/01/05(修正・加筆)



■ハル■「お題:誰より強く心をしなやかに愛を歌い続けた」(配布:フルッタジャッポネーセ様)


凪と絡めると、凪がいろんなものを吸収して、柔らかく、
素直に映し込んでくれているのがよくわかります。
まあ、個人的願望も含めですけど。凪はもちろんのこと、
この創作でハルのことが今まで以上に可愛く思えるようになりました。
特に部屋の隅っこで泣いてる姿が。(ま…待て待て待て!)

ハル+凪。ん? 凪+ハル?(……)
どちらにせよ、かわゆく書けてたら本望です。
内容がぼろぼろでしたが。(何が言いたいのかわからないよきっと)

あといつかイーピンにジェラるハルも書きたいです。
イーピン単独も書きたい。可愛いな、リボの女の子って!