「……聞こえればいいのに。ボクの心。君に」


「 それから君は 」
(後輩ED後)


「君があんまりかわいいから、いろいろと調子が狂うんだ」
「せ、先輩?」
 それは語りかけるというよりも寧ろ独白に近い呟きだった。
 かるく寄った眉間の皺はなにか考え事をしているふうでもある。
「きゅ、急にどうしたんですか?」
 ばくばくと騒がしい己の心音を聞きながら、とりあえずわけがわからないまでも平静を保とうと問い質す。しかし努力してもさすがに声が上擦るのまでは止められない。確認はしていないが、きっと顔のほうも赤いだろう。
(か、かわいいなんて)
 あまりにも分不相応な言葉だと思った。自分のような平凡な者に向けられる形容ではない。そう思ってひたすら顔を赤くさせるも――それでも藍は。
「別に急なんかじゃない。ずっと感じていたことを、感じたままに言っただけ」
 言いながらその距離まで詰めてくる。
 近づく藍の膝上に、大小さまざまな犬種を映した一冊の雑誌がある。それは自分がどうぞと藍に手渡したものだ。ほんの少し前まで、それを興味深げに眺めていたのは知っている。ずっとそれは視界の隅にあった。それなのに何故。
「かわいいよ」
 何故、今こんなことになっているのか。
(ま、ままままったくわけわかりません……!)
 出掛けようと言われたとき以上の困惑と衝撃に襲われている。
 固まったままでいると、そのまま笑顔の藍に頭ごと引き寄せられた。すっぽりとその胸のなかにおさまる。そのおさまり具合に満足したように、うん、と藍が一人春歌の頭上で満足げに呟いた。それに、しかし春歌はどう反応すればいいのかやはりわからなかった。
 動揺という動揺が身体のすみずみまで行き渡る。
「あ、あ、あああの、美風先輩……っ」
「うん?」
「どっ、どうしてわたしは先輩に抱きしめられているんでしょうか!?」
「嫌だった?」
「い、嫌と言うわけではないんですが、しかしながら、あ、あまりに突然で」
 考えても考えても現状への理解が追い付いてこない。頭の中はわりとずっと真っ白だ。今こうして普通に喋れていること自体、奇跡に近い。
「さっきも言ったけど、別に突然ってわけでもないんだ。かわいいなと思ってこうするのはだめ? 違うの?」
「ち、違うこともないと思うのですが……こ、これは、その、なんというか」
 そういうことではなく、問題がある、ような気がする。
 狼狽えたままそう言えば「問題? どこらへんが?」とのストレートな返しが戻ってきて更に返答に窮する事態となる。思わず途方に暮れてしまった。藍が真剣にそれを尋ねてきているのは、その聞こえてくる真摯な声音からも察することはできる。求められているのは藍が納得するだけの説得力のある言葉。正しい回答だ。
 だからこそ春歌は赤くならざるを得ない。
 しかし覚悟を決めて口を開いた。
「こ、こういったことは、その……主に恋人同士がするようなこと、だと思うので」
「……恋人」
 ぽつりと呟き落とされたそれに顔を赤くしながらはいと答える。
「もちろん一概にそういった関係だけではなくて、他にも色々と問題にならない場合はありますが……」
「ナツキはよくしてるけど」
「し、四ノ宮さんは除外してくださいっ」
 入れてしまえばもはや何でもアリになってしまう。
 そうなの? と訊いてくる声に大きく頷いてみせる。それが功を奏したのか、ようやく囲われていた腕が僅かに緩みをみせた。
「……ふうん、そうなんだ」
 思案顔ではあったものの、一応は納得してくれたらしい。
 ほどなくして藍が春歌の身を解放してくれた。
 同時に消えていた雨音も春歌の世界に戻ってきた。
「色々あるんだね、人間って」
「そ、そうですね。色々……あると思います」
 まだまだわからないこと、勉強すべきことが。
 人間の感情を学ぶことは、ロボットである藍に課せられた一つの大きな課題であることは知っている。
 難しいな、と呟くその横顔に心拍数を整えながら春歌もまた人知れずそれに同意する。
 ひとの気持ちは難しい。
 それは藍だけが悩まされるものではなく、春歌だって常に悩まされているものだ。今だって何がきっかけとなって藍に抱きしめられたのかさっぱりわからない。
 思い返すとまた微妙に顔が赤くなってしまいそうで、これ以上考えるべきではないと、よぎる疑問を慌てて思考から追い出していると「あ」という藍の小さな声が聞こえた。
「先輩?」
 顔を向けると藍は窓のほうを見ていた。何をとその視線を追って自分もそちらを見ようとするも、その前に藍が振り返って緩やかに微笑んできた。
「見て、春歌。虹だ」
 告げる先には、確かに空にうっすらと架かる七色の虹があった。綺麗なその光景に思わず息を呑んで歓声を上げる。
「わあ!」
 久しぶりに見た虹に興奮が抑えきれず「綺麗ですね、先輩!」と、はしゃぎながら藍のほうを振り返る。
 藍もこちらのほうを見ていた。
「うん、そうだね。綺麗だ」
 返ってきたのはそんな短いけれど藍らしい端的な感想だった。何も変なことはない。何も、おかしなことなどどこにもなかったけれど、
「春歌?」
 どうしたの? 向けられる瞳にはっとする。
「い、いえっ、その……虹があんまり綺麗だったのでつい見惚れてしまいまして……っ」
「そうなの? まあそれはいいけど……で、なんでそんなに焦ってるの」
「き、気のせいです」
 それは嘘を吐いたからだ。
 咄嗟に。――べつに隠すようなことでもなかったのに。
 胸に手を置き、藍に気付かれぬようにそっと胸に詰まったものをちいさく吐き出す。ああ、と声に出そうになるのを必死で堪えた。
(先輩はやっぱり綺麗な方です)
 空に架かる虹よりも何よりも。
 綺麗で、だからつい見惚れてしまったのだと正直に口にすれば一体どんな顔をさせてしまうだろう。考えただけでも気恥ずかしさに頬に熱が籠もるのを感じた。ついでにドキドキと鼓動までもが騒がしく音を立て始める。
(か、隠すようなことではないですが、やっぱり口に出して言うのは恥ずかしいですし)
 だからごめんなさいと内心で密やかに謝罪をする。隠し事をするつもりはないが、これはこのまま自分の胸だけにおさめておいたほうがいいと思った。
「……変な春歌」
「あ、あはは」
 幸いにしてそれ以上追及されることなく、ほどなく鼓動のほうも無事治まり、その後はふたりで曲を聴いて仲良く過ごすに至った。
 何の問題も、
 何の変化もなく。
 だから春歌がその異変に気付いたのは翌朝、マンションのエントランスで馴染みの仲間と顔を合わせたときだった。
 いつものように笑みを浮かべ、いつものように挨拶をし、そうしてしばらく経ったところで―――見る間に顔を強張らせ、青ざめた後、春歌はその場で突然、何の前触れもなく卒倒したのだった。



***


「ハルちゃん、どうしたんですか? やっぱり具合が悪いんですか」
「七海。お前、大丈夫か?」
 二人の心配する声が立て続けに室内に響く。そのたび、返事代わりのように藍の手のひらに返ってくる振動があった。
(……震えてる?)
 間違いなく聞こえてはいるのだと思う。
 声に対してのこの反応は紛れもなくそれを示している。
 が。反応はしても返事をしない。
「……埒があかない」
「あ? お、おい、藍」
「あいちゃん? 何を」
「だってこのままじゃ埒があかないでしょ」
 だったら。
「本人に訊くのが一番手っ取り早い」
 ベッドの塊、もとい春歌自身に。そう告げながら布団へと手をかける。一旦は安堵して諦めた追及の手を今度こそ緩めぬ為に。たぶん少女の為というよりもほぼ自分の為に近い行為だった。制止する声、上がる悲鳴に、けれど加減することなく目前の布団を剥ぎ取り、
(……まったくどこが大丈夫なのさ)
 やがて現れた涙目の少女の姿に、つと零れそうになる溜め息をなんとか呑み込みながら仁王立つ。
「それで? 春歌、君、何を隠してるの?」
「…………」
 問題はここから。
 沈黙はおそらくその問いかけを肯定するべく落ちたものだった。


***


「藍ー? おーい、返事しようよー」
「……撤回したら返事する」
「撤回?」
 このやり取りですでに返事をしたようなものだが、
「別に、機嫌は悪くない」
 それでも間違いは正しておきたい。否、正しておくべきだと、マグカップを片手に白い湯気をくゆらせながら近づいてくる男へと短く告げる。仮にそれでも機嫌が悪いように見えるのだとしたらそれはたった今そうなったのだと言いたいところだ。
「そう? うーん、でも結構な仏頂面だよ。まあ傾向としてはいいことなんだけど」
「…………」
 ひとの持つ感情を学ぶ。それが自分に課せられた大きな課題であることは、目覚めてわりとすぐ知らされたことだった。業務的な言語を止め、見た目に相応する喋り方、浮かべる表情について教えられた。そうしたことを吸収するのは然程難しいことではなかった。難しかったのはそれらをきちんと理解した上で使うということだった。機械である自分はどうしても付随する「感情」についての理解が追い付かなかった。
 その為、停滞が長らくあった。
 が、それが最近になってようやく少しずつ感情についてわかるようになってきた。……もしかしたらそう願うあまりの思い込みもあるのかもしれないが。
(だけど)
 窓を叩く雨の音。流れる旋律。楽しげな笑みに、仄かに赤くなった柔らかそうな頬。
 あの日、そのすべてをかわいいと思った。唐突だろうと何だろうと、それはけして気のせいなどではない。だから思ったこと、感じたことをそのまま正直に伝えた。ちいさなその身体を気付けば抱きしめていたのは自分でもどうしてそうしたのか不思議なことだったけれど、胸の奥では妙にしっくりと嵌るものがあった。
 明確な形など何もない。
 だがあれが感情というものではないのだろうか。
「……ねえ、博士」
「おや。撤回についてはもういいのかい」
 コーヒーの香りを漂わせながら意地悪く笑う。
「よくないけど……でも博士はボクが不機嫌そうに見えたんでしょ」
「まあそうだね。機嫌が良いようには見えなかったかな」
 今も。そう言ってソファーに座る自分と向かい合う形で腰を落とす。まるで話し合いを自分が望んでいるように思えて思わず視線を逸らした。
「ああ、ほら。その顔がさ」
「……何?」
「うん。機嫌悪く見えるって話」
「…………」
 ずずっとコーヒーを啜る音がする。普段から眠い眠いと言いつつも眠気覚ましに口にするカフェイン。人間のすることはそうやって時々矛盾に満ちている。それについて言及したこともあったが、答えはどう受け止めればいいものかわからないものだった。故に未だ自分は彼のその矛盾を理解できないままでいる。胃に悪いともよく言っているのに。
「……どうして」
「うん?」
 感情の欠片を得たと思っても、こんなふうにまだ自分はわからないことだらけの中にいる。だからだろうか。だから。
「辛いなら辛いって言えばいいのに……。どうして言わないで我慢するんだろう」
 大丈夫だと告げるそれが嘘だなんてすぐにわかった。いくら虚勢を張ったとしても、弱っているのなんて一目瞭然だった。だが返ってきた答えは大丈夫だという己に言い聞かすようなものだった。無理をしている自覚があるのだろうに、それでもそんなふうにそれを認めない理由が藍にはわからなかった。それは自分の知る感情についてまだ足りないものがあるからなのだろうか。
 いくら考えてもやはりよくわからない。
 答えはどこにいけばわかるのか。
「藍」
 名を呼ぶ、それは制止する声だった。考えること、思うこと。それらを止める。
 けれど一旦回りだした思考は止められなかった。
 考えなければと思う。何かに急かされるように。
「ねえ、博士。あの子と話していたらなんだかボクは感情についてわかるような気がするんだ。だけど同じぐらいわからないことも増えていくような気がする……。ボクが不機嫌なのはそのせい? そのせいでボクは今不機嫌なの。いくら考えてもよくわからないんだけど、でも博士、それでもボクは」
 不機嫌に見えるという原因、その理由を知りたい。
 わからない答えを見つけたかった。そして一秒でも早く答えへと辿りついて――
「藍。やめるんだ。考えるのはそこまでだ。それ以上考えたら――って、ああ、遅かったか……」
 意識が遮断される前にかたんと室内にちいさな音が響いた。
 何か硬質な音だった。
 それでいてどこか儚くも感じられ、
(ああ、なんだ、マグカップ……か)
 意識が落ちる寸前、そんな音の正体に気付いて。
 胃を悪くしながらも眠気覚ましに飲むコーヒーについて「人間は矛盾に満ちた生き物なんだよ」と笑いながら説明されたこともついでに思い出す。わりと前の出来事であったが、忘れてはいない。
(……忘れるわけがない)
 多くの矛盾を抱え、不完全であるからこそ人間は人間だと博士は言った。それはロボットである自分にはよくわからない考えだ。
 けれど。
 だったら?
(もしそれがわかったらボクは)
 少しはひとに近づけるのだろうか。
 数多の感情を知って、あの子のことをもっともっと理解できるようになれるのだろうか。
 ――――春歌。君のことを。
(ボクは)
 もっと。








 目覚めてから注意したいことが幾つも幾つも頭の中を巡ってゆく。もはやありすぎて思考が追い付いていないような気さえした。それでも今一番に言いたいことは叱責でも注意でもなく、懇願だった。