答えならもうある。
 たとえ世界が変わりなく、動くのだとしても。


「 灼の、き疼 」





 ―――この身が日々の大半を痛みなく過ごすようになってから、否、過ごさざるを得なくなってから、もうそれなりの時間が経った。
 その間にどれだけ世界が変わったかといえば、特にそれほど変わったようにも思わないのは、「自らの死」という身近な世界の激変を味わった身としては実に稀なことであったらしく、弟分のツキタケですら、世界が変わって見える、とそうなった当初にぽつぽつと零していた。そのことを何故かいやによく覚えている。
 それがあまりにも寂しげであったからか、まだ幼いツキタケの、もう二度と叶わぬ、消えた未来を不憫に思ったからか。
 それに、そうだな、と返してその頭をくしゃりと撫でた。
 自分にとっては特に変わったとは思えなかったその世界を、その瞬間だけ、思い出したかのように遠くに望んだ。
 不思議といえば、確かに自分のことなのにどうしてこうも冷静でいられるのか、不思議ではあった。
 けれどそう思ったその瞬間にも、名も知らぬ多くの生命がはらはらと―――まるで風に揺れて、花弁を吹き散らす、美しくも儚い春の終わりの桜のように―――他愛なく散っている。
 たった一呼吸する間にも、この世界のどこかで死に逝く人々がいるのだ。
 知識として。
 常識として。
 それを、自分は知っている。
 だからしょうがない。
 戦争だとか、飢餓だとか、病気だとか事故だとか。
 数多ある理由がそこに存在し、その数だけ確かに世界は一人一人の終わりを永続的に迎え、変わっているに違いないのに、目に見える世界はやはりいつもと何ら変わりなく、いつもと同じように眩しい光を毎朝この世界に届けているのだから。
 ―――だから、
 今日がまたはじまるという認識すらも、いつもと変わりなく。
 そうして知識として、常識として、それらを知るように―――
「……ヒ……メノ……」
 たった一本の腕がこの身を完膚なきまでに貫いた。
 それは、ただそれだけのことで、こんなことでは相も変わらず世界は何一つ変わらないことを自分はよく知っていて。
 かつて訪れた自らの死、たとえそれに酷似した痛みを今また手酷く感受しようとも。
 本当に、何一つ。
 そこには、


『死なないで、ガクリン!!』

 いつでも変わりなく、動く世界がある。


 だから余計に。
 渇いた身を潤すように届いた、たった一言―――突然襲い掛かった事態への心細さに震える少女の―――マイスウィートの声が、途切れがちな意識と無意識の狭間で幾度も幾度も響く。
 心に焼きついて離れない。
(……乃)
 世界に対してただ一人である自分たちに対して、世界はその多くを内包していて、たとえ他愛なく散ってゆく生命がどれほどあったとしても、それに哀しむ人間がいたとしても、いなかったとしても―――きっと本当にそれはただそれだけ、矮小とも呼べるちっぽけさでいとも容易く処理されてゆくようなことなのだ。
 それを、知っている。
 たった一つしかない、自分自身の生命すら、それが例外でないことを。
 故に。
 だからこそ。
「―――………姫、乃……」
 そんな“何一つ変わらない ”世界で、
 いつでも“変わりなく動く ”世界で、
 まるで何事もなかったかのように自らの「世界」が変わること、それが赦せなかった。
 否、赦せるはずがなかった。
 自分自身は――たとえこの身が砕けても――世界にとっての「自分」というものを正確に把握しているから、今更どうなろうと何を思うこともない。それはそれだけのこと。だから、いい。自分は、それでもいいと思う。
 だが彼女は。


 ―――――姫乃、は。


「……っ」
 魂の傷跡が、じくりと血の滲むような痛みを、ご丁寧にも倒れ伏した身体の隅々までを鋭敏に走り抜け、間断なくそれを伝えてくる。だがそこにいくら目を落としても、錆びた鉄の匂いを感じ取ることは決してないのだ。
 この身は死者の、生きる痛みを失った身。
 もはや現世にてとうに砕け散った身。
 それでも世界は変わらなかった。
 それに世界は何一つとして変わらなかった。
 知っている。わかっている。
 だが、けれど――――今、
 もし。
「……君が…いなくなった、ら」
 渇いたこの身を潤すように響いた、あの声が、もし失われるようなことがあったら。
 触れることすらも叶わぬ、朽ちたこの身を思って必死になって叫んでくれたその心が、もし傷付けられるようなことがあったら。
「――――……俺、は…」
 たとえそれに世界は変わらずとも、ようやく動き始めた自分の「世界」は、きっと粉々に砕けて、“何一つ変わらない ”“変わりなく動く ”この世界と同じになってしまうだろう―――そんなのは駄目だ、赦さない。
 彼女は無償の愛を捧げる相手。
 唯一無二の愛すべき女性。
 大切な大切な、マイスウィート。
「……れ………」
 きつく、唇が切れるほど――そう錯覚するほど――奥歯を噛み締め、悔しさを織り交ぜた怒りを他ならぬ自分自身に向けながら、無機質なコンクリに鉛のように重く感じられる己が腕を思いきり叩きつける。
 刹那――――ドォンッ!! と、
「………れ…――――守れよッッ俺!!」
 負の感情に満ちた腕が、轟音を立てて固いコンクリートの地に突き当たった。それを、今ならしかと感じ取ることができる。けれどそこに痛みはなく、痛みは、ずきずきと疼くようにして届けられる―――この胸の奥にあるだけだ。
 それ以外のどこも痛くない。
 当たり前だ。彼女を失うかもしれぬこの状況において、これ以上の痛みに勝るものなど、
「……姫乃、…姫乃…姫乃、姫乃、姫乃………!!」


 今この瞬間、どこにあるはずもなかった。


 だからこそそんな大切なスウィートをむざむざと他人の手に任せるしかなかった不甲斐無い自分自身に、この胸を穿つ痛みと同じくらいの苛立ちが募っていく。
 渇いていた唇をもう一度きつく引き結び、開くと、ヒュウとか細く咽喉の鳴る音がした。それに咽喉の奥がちりと引き攣れる。だが構わず、姫乃、と、音のない声でその名を呟き、
(俺は)
 願うはただそれだけであることを、今一度、奥歯を噛み締めると同時に強く自らの心に叩き込む―――ああ、だったらこんな傷がなんだというのだ。
 彼女の生命を、誰かに―――ましてや、世界になどくれていいはずがない。
 荒い呼気を不規則に吐き出して、憤る気持ちをそのまま拳に込め、握り締める。全身の力を全てそこに注ぎ込むように。或いはすべてをそこに賭けるように。
「―――――っっ!」
 獣のように獰猛に何かを叫んで、もう立てないと思っていた身体を強引に引き摺り起こす。途端、じくり、と、身体の中心が鈍い疼痛と無茶の代償でもある軋みの音を不気味に立てたが、
「構って、なんか……いられない…んだ」
 目指す先に、ただ一つの、無償の愛があり、
 彼女が、俺を、待っている。
 だから。
「―――…行こう、君を守りに」



 そうして立ち上がって望んだ視界で、どこからか現れた獣の群れが敵意も露わにその場を占拠しはじめる。それを黙って睨みつけながら、

「君は、俺の待っていた痛みだから」

 未だ揺らぐ足取りで、けれど躊躇わず、ガクはその一歩を踏み出した。自らの世界を変え続けてくれる、ただ一人の、そして最愛の彼女のいるもとへと続くその道を選んで。




 ――――君のいないここに用はない。
 立ち上がる理由は、それだけで充分だった。 


fin.









思うが侭に打ち込んでみました。ガク復活に向けての話。
「世界」を題材にすることはよくあるので、自分としては
またかって感じなんですが、ガク姫好きーとしては
書いておきたかったので。ガクの内面、精神論。(自分設定で)


わかりにくいかなあと思いながらもわからなかったら
それはそれで。本仕様にする感じで、書いてみたので
感情面への文章が満載。詰め込むように書くのが好きです。
(でも最後、気力が落ちた)(いいのよそんなの言わなくたって!)



06/04/08