近くもない。
だけどそれは遠くもなく。


「 0センチの距離で 」





―――もし、と背後から聞こえてきた声にサヤエンドウの筋を取りながら、
「うん」
 と、平坦な声で姫乃は応える。背後は振り返らない。ぷちぷちと手の内でサヤエンドウの筋を取ることだけに意識を集める。もうすぐ外に出ている明神さんもエージ君も、それからツキタケ君も帰ってくるはず。
 できればその前に、夕食の準備に取り掛かりたくて。サヤエンドウの筋を取るスピードを若干早める。そんな自分の隣では、
「―――と、キリンさんはいいました」
 留守番を任されたアズミが大人しくいつもの絵本を読んでいる。



「もし、この手が君に触れられたなら」
「うん」

「ひめのんの髪や」
「うん」

「指や」
「うん」

「首や」
「うん」

「頬に」
「うん」

「躊躇うことなく触れただろうに」
「うん」


 背後からの声はそこで一端止まり、淡く空気が揺れたのがわかった。――溜め息、でも、ついたのかもしれない。振り返らぬ自分にはそれを確認する術はなかったけれど、なんとなくそう思った。


「ひめのん」


 それに、うん、と応える。
 声は、けれどどこまでも平坦に。


「俺は君に触れたい」

「うん」


「それを……覚えていてくれたらとても嬉しい」


「……うん」

 ―――ぷち、と。

 最後のサヤエンドウの筋を取り終わると同時に、背後の気配がそれを見計らったかのようにふいに消えたのが、これもなんとなくの直感で感じ取ることができた。要らない筋を横にわけて、食材としてのサヤエンドウを銀色のボウルに放り込む。さあ、あとは皆が帰ってくる前に――正しくは明神さんと自分の分の食事なのだが――夕飯の準備に取りかからなければ。

「………ヒメノ?」
「うん?」

 テーブルの上に両手をつく。そのまま反動を利用して立ち上がろうとしたのだが、何故だかうまくいかない。もう一度、腕に力を込める。

「……?」

 だがやはりうまく立ち上がることができず、込めたはずの力がどこに伝わることもなく、流れるように霧散していくのがわかった。そして。


「ヒメノ。……カゼ、引いたの?」


アズミの、その邪気のない不思議そうな声に、え? と瞳を瞬かせた時には、

「お顔、赤いよ。熱?」

 もはや、純粋すぎるその眼差しに何がなくとも気付かぬわけにはいかなかった。


 微かな呻き声とともに観念する他ない。肩からも腕からも足からも―――なんとか均衡を保っていた心からさえも、もう無理だと警告が発せられている。力は、どこにも入らない。――入らないことがわかる。

「〜〜〜〜〜……ああ、もう」

 けれどそれでもただ一つ、そんな状況下で救いがあるとするなら、彼がもうここには居ないことだ。自分の前に回ってこなかったことも幸いした。そうでなければ……穴があったら入りたい気持ちをそこに押し込めるように、ボウルの中身を放り出して、いっそ頭から被って暗闇のなかに突っ伏してしまっていただろう。
 あともう少し遅かったら、きっとそうしていた。
 …あああ、と意味もなければ他愛もない脱力感に眩暈を覚えながら、テーブルの端に額をコツンと預けて倒れ伏す。
 耳にかけていた髪がその拍子にはらりと頬を滑り落ちたが――、

(ちょうどいいや……)

 視界を薄闇に落とすそれをかけ直すことなく、額のひんやりとした冷たさに意識を向けて、そのまま目を瞑った。ヒメノ、どうしたの、というアズミの心配する声が聞こえてきたが、それに応えるだけの気力はまだもうしばらく持てそうになく、ごめんね、と心のなかで小さく謝る。それから。


(……ごめんね、でももうちょっとだけ)


 二度目の謝罪は、いなくなった、もうひとりに向けて。



 ――――わかっているから、もう少しだけこのままでいさせて。
 ――――その心に、まだもう少しだけ、甘えさせていて。



(好きだよ、…………)

声に出すことなく胸の奥で嚥下したその名前に、心はもう、ちゃんと触れているから。







それに応える日はきっとそう遠くない。    

fin.









春コミで配ったみえる小話ペーパーのガク姫バージョン。
紙は勿論、ハート型に折って渡しました。(愛)

ガクは片想いだと思ってるけど実は両想いなんですよ、という、
姫が内緒モードのお話。背後からの全開告白に実はメロメロに
なってる姫が書きたかっただけの話でもあり。
A4一枚ってやはり難しいな。可愛く出来てると良いです。


06/03/30