--------------「 まだ 知らない 」





今朝、なんだか掴み所のない夢を見た。
そうして首筋から肩にかけてのぎこちない倦怠感を持て余しながら臨んだ任務は、そこに到るまでの間、ずっと試算していた思惑が外れ、予想されていた中で一番の最悪な結末を辿ることとなった。
―――その時、なぜか今朝見た夢を思い出した。
夢が、それに添うような形の悪夢だったわけではない。
爪先に飛び散った血痕を茫洋とした眼差しで眺め、事後処理で周囲を忙しく駆ける探索部隊の足音をそれ以外何一つ響かない鼓膜に閉じ込めながら、
(――――――)
血痕の跡を辿り、視線を微かに上げた。
夢を思い出す。つい今さっき生命の鼓動を止めて死んでしまったこの血の主のことでもなく、
最善を尽くそうと走り回ってやっとその解決策を見い出しかけたという最早どうしようもない遅すぎる救済の措置でもなく、
「……………」
夢を。
より正確に言うならば、夢と共にあった感情を。
血を見ながらふと思い出していた。


「ラビ、どかんか」
「……ジジイ」


背後に急に気配が生まれた。声が届く。
同時に軽く頭を叩かれ、何すんだとつい条件反射のような文句を口にすると、
「どけ。そこは邪魔だ」
眇められた瞳に身体の一部がキシリと引き攣った。

(邪魔? ……何が)

思考がうまくまわらない。
それでも言われるがままに身体を引くと、一体いつからそこで待っていたのか、人波がジジイの脇を擦り抜けて押し寄せてきた。バタバタと入り乱れる足音がひどく耳障りだ。

「血の採取だ、急げ!」
「マスクと手袋、サンプル、こっちに!」
「解析班、早くしろ!」

細胞が壊れる、と。

声高に叫ばれる言葉を聞きながら、何が早ければよいのかと疑問に思う。もう遅い。何をしてももうそれは遅いはずなのだ。
(……それなのに)
個人ではなく個体として。
そこにあった生だけでなく死んでからさえも根こそぎ、自由なく奪われる。それが、けれど彼等の仕事なのだ。とうに割り切っている思考は、今更それに抵抗など覚えるはずもない。なのに。
(じゃあ、何だ?)
身の内を焦がす気持ちとないまぜに、その理解を示す思考をわざわざ掻き乱すように揺れるこの感情は一体なんだというのだろう。そのうえ回答は得られず――連鎖して思い出すのは、あまりにもこの場にそぐわぬ在りもしない夢の残像ときた。我が事ながら無意識に行なった思考操作が何を示唆してのものか、よくわからず困惑する。或いは何か潜在的なものがそれを引き寄せたのかとも勘繰りながら。
ただ一つ、今わかることは。
幸福とは、こんなことを言うのかもしれないと夢の中の自分は、酷くはっきりと自覚していたことだった。


『××××』


名を呼ぶ行為すら何か光り輝くものが溢れ出しそうなほどに。
艶やかな髪を一房攫って、羞恥に頬を染めるその女性が嫌がるのも構わずに何度も名前を呼んで。
笑って、細い肩に顔を埋めた。


あれは誰だ?


疑問を覚えると同時にわかりきった答えが即座に身の内へと跳ね返る。あれは自分。
そして見知らぬ一人の女性。
見たこともない人間だ。
だが一度見たら忘れられない、そんな印象を抱かせる女性だった。賞賛や賛美などの美辞麗句とはお世辞にも縁があるとは言い難い、寧ろ疎遠とでも云うべきであるような―――弱そうな、頼りなさそうな、あまりにもすぐに折れてしまいそうな脆さを彼女は纏っていた。
けれど驚くべきことに夢の中の自分は「それ」を厭うでも苦手に思うでもなく、反対に縋るようにさえして身体を預けていた。
委ねることを由として、笑いながら。
それを。


「―――――」


ラビくん。


労わるように響く、低音の心地よい声を穏やかに受け入れていた。



……ラビくん。



響くはずもない記憶の中の音が、思ったと同時に再び鼓膜を緩やかに震わし、楚々と消えてゆく。だが、そんなもの。


(アンタなんか知らないさ)



知らない、知るはずがない。
それに―――


『××××』


……あんな自分はもっと知らない。
純然たる幸福を諾々と受け入れて笑う。
―――そんな、現在とはまるで違う自分の脆弱な姿に、巻き戻すことなど叶わぬのに夢に嫌悪を覚え、研ぎ澄まされた苛立ちをただ闇雲に募らせていく。まるで悪夢だ。
掴み所がない云々の夢ではない。今、わかった。
寧ろ掴んではならない夢を自分が見たことを。
ならばこれは警告か。それとも忘れてはいないと確認する為に紡がれた過去からの伝達か。
だがその証明はもう果たした。
他でもない今この瞬間に夢を思い出したことで、それは果たされたといっても過言ではなかった。誓いは忘れてはいない。だから。
「……」
徐々に鮮やかさを失いつつある、斜めに飛び散った赤い斑点に再び眼をやる。隣にいるジジイが何か物言いたげに双眸を走らせるのがその途中見えたが敢えて無視した。自分で気づいたのだからこれ以上詮索されるのも口煩く説教されるのも、どちらも御免だった。
ザッザッと人の行き交う音が停止していた世界のなかに蘇ってくる。
それを煩いと思う気持ちも、垣間見た夢を煩わしいと思う気持ちも、さして差はなく似たようなものだと改めて気づかされながら、
「オレには、関係ないさ」



自分の歩む道に幸福など必要なく、
すべてを薙ぎ払って往くべき道はおそらくこの血と同じような色をした道なのだと見たこともない儚い残像に知らしめるように言い、やがてそれでも追いかけるように浮かんでくる微笑みを、眼を瞑ってラビは躊躇わず四方へと散らした。













昔も現在も、未来にも。
名を呼ばれる自分は必要ないのだ。




(それは誰にも、自分にさえも)



fin.



05/09/01
書きたいなと思ってるラビのシリアス話の原型みたいな話。
多分本編のラビとはすれ違うような性格というか性質な話を練ってるのですが、ついでに「君に届ける歌声を響かせ」の裏サイド話に絡ませようかどうしようか迷い中。なんていうかまあ、ラビには色々と夢見てますといった感じです。(寧ろ心置きなく夢見させろと言わんばかり)
……暗そうなんで本当に次の本になるかどうかはあやしいところ。