その奥に隠されたものの為に。

いつか、あなたはこの腕を解いて飛び立ってゆくのでしょう。



「 隻眼を覆う 」



当然といえば当然すぎて、ミランダはそれを見るまでまるでそういう常識が今まで自分の中になかったことを、又はそれが普通であることを頭から閉め出していた自分というものを―――知って、一体どんなふうにそれを受け止めればよいのか、うろたえることしかできなかった。
(何故)
どうして、今まで思いも寄らなかったのか。いや、思いつきもしなかったのか。

「……当たり前、だわ」

ぽつりと呟きながら眼下で無造作に放り投げられている黒い眼帯を見つめる。手に取ることは躊躇われて、ただただミランダは見つめ続ける。寧ろ途方に暮れていたといってもいい。
フイと視線を外して、激しい水音に奏で続けているバスルームのほうをちらりと窺う。まだ出てきそうな気配はない。この眼帯の持ち主は今もまだ、気持ちよくシャワーを浴びている。まさかその合間にミランダが偶然部屋を訪れているとは露知らず、或いは運悪く、それこそミランダの専売特許である―――不幸にも気づかぬままに。
だからこそミランダの目の前にこれがあるのだ。
無造作さに。
無警戒に。
ベッドの端に放り出された黒い眼帯、彼の左目を覆うそれが、何の躊躇いもなく。

「おかしなことなんて……何も」

稀にそういう人はいるかもしれないが、普通、眼鏡をかけたままシャワーを浴びたりしない。それがこの世の一般的な常識であるように、おそらく頻度や状況によって差異はあれど、眼帯であってもそれは同様の筈だ。……たとえそれがなくとも、ずっと付けたままでいつづけることなど到底無理がある。いつかはわからないが、眼鏡と同じように眼帯だって外すときもある。
けれどいつであっても――それこそ朝も昼も、夜も。
彼のそれは常にそこにあったから、それが「外されるもの」であるというごく当たり前の認識が今の今までミランダの思考からは綺麗さっぱりと抜け落ちていた。理解してもまだ違和感が拭えない、そのくらいには。そういうものなのだとずっと思い込んでいた。
それは彼の「手足」といったものと同じなのだと。
それほどまでにそれは彼の「一部」としてミランダの意識に植え付けられていたものであったから、取った姿を想像したことすらなかった。―――ここに眼帯がある、それは今でも。
想像できない。
してはならないような錯覚につと陥ってしまう。
そしてその果てにわかるのは、自分がひどく動揺しているということだけだった。

(これがここにある……ということは、今、ラビくん…は)

ミランダの想像できなかった、し得なかった姿を壁一枚隔てた向こうでラビは晒しているということになる。
しかしそう思ってもまだミランダにはその光景が想像できなかった。
眼帯を外したラビ、そのものが。

「……っ」

まるで禁忌に触れるような恐ろしさで胸の鼓動を早めながら、震える指先を見つめるばかりであった眼帯へと近づける。別に単なる好奇心からそうしようと思いきったわけではない。現実味のまったくないそれを、触れることでミランダはせめて少しでもはっきりさせたいと思ったのだ。
ミランダは誰よりも知りたかった。
ミランダの想像できなかった、自分の知らないラビという一面を。
(だって私はあなたを―――)
だがそれを本人の与り知らぬところで成そうとしていることへ幾許かの後ろめたさが、ミランダの指を震わせる。……けれど、だとしても、もはや引くことなどミランダの思い浮かべた選択肢の中にはなかった。指を伸ばす。そして一度眼帯の表面に軽く触れ、思いのほか冷たいそれをやはり僅かに躊躇してから思い切ってミランダは手に取った。途端、振り絞ったミランダの勇気はその矢先から根こそぎ奪い去られ、絡め取ってゆくようにして形をなくしていった。

「ミランダ」
「あ…っ」

息を呑み、跳ねた身体ごと背後から抱きすくめられる。
まるでいつもと変わらず、いつもと同じように。

「ラ……」
「ミランダ、気配薄すぎ」

空気をかくように笑って、そのまま――不意に、視界を覆われた。
絡みついた腕が、その一瞬前にミランダの手から眼帯を掠め取ってゆく光景を最後に映して。

ミランダからその視覚を奪う。
ラビが、眼帯を取り戻す。

「……ラ、ビくん…」
「うん。ごめん。でももうちょっとこのままでいて」
「……………」

腰を捕まえていた左腕が離れる。何の為かと最早考えるまでもなかった。

「……………どうして」

あぁやはり、と。
ただそれだけを思う。
(駄目なのね、私では……)
なんとなく、どこかでわかっていたのかもしれない。
それが彼の手足のようだと当たり前のように思う以前に、初めてラビの眼帯を自分が意識した時に。
ミランダは、どこかでそれを触れてはならないものだととても身勝手な解釈で、根拠など確証など、確かなものなど何一つなく、そう思ったのだ。眼帯に押し込められたラビの思いを、自分では解放することができないだろうと。
思って、だから―――
「やっぱり……怒ってもくれないのね」
その通りの現実を突きつけられることが恐ろしくて、だからこそ、今までずっと見ないふりをし続けていたのに。
その均衡をラビはたった今あっさりとミランダの目の前で崩してみせた。ミランダの懸念を本当のものとした。―――ならば、どうして。

(そうやって遠ざけるくせに。触れさせないようにするのに。どうして、そんなにも簡単に)

こんなにも、平然とラビは残酷なことをするのだろうか。

「…離、して」

(それとも最初からそんな幻想、ありはしなかったの)

全ては自分だけの独りよがりの関係だったと。そう云うつもりなのだろうか。

「嫌なら……見ないわ。目を瞑っているから。だから…離して。お願い、離してちょうだい」

いつか、現在ではない未来という名の果てで去ってゆく―――その決意があって、共にあることも縋りつくことも自分に赦されないのであれば。いっそ離してほしい。その腕にひとときのみ守られる、そんな仮初の優しさはやがて毒にしかならないのだから。
未来に、何も生みはしない。
それをミランダはわかって、充分すぎるほど今わかったのだから―――

「…離し…て」

掠れた声と涙が一緒になって暗闇へと滑り落ちる。それに、虚空に消えてしまいそうなほどのか細い声が間を置くことなく返った。……聞いて、ミランダは結局そうしてどこにも行けない自分をただ悟るしかなかった。鼓膜を伝って、胸に滑り落ちてくる、その痛みに満ちた囁きをこんなにも愛しく思わなければ。きっとこの腕を振り払うこともできるのだ。

だからこそ、ミランダは乞う。

ミランダを縛り付けているのはミランダ自身の想いで、たとえ仮初の優しさであろうとも、いつかこの身を滅ぼす毒になろうとも。




「…………………さ、ないで…」




彼が自分を離さないでいるのならば、きっと自分はどこへもいけず、この腕に囚われたまま、いつかくるその日を怯えながら、それでも彼と共にいるのだ。






死ではなく、運命が二人の時間を分かつ、その時まで。


fin.




相変わらず唐突にやりたいなと思って、
ラビミラ御題にトライ。
03「隻眼」でした。

ていうか……途中まで「眼帯」と勘違いしていた作品です。
なんとなく「予感」でも良かったかな、と思いつつ、また
電波的なものになってしまってすみません。

ラビミラはこういう別れの一面も持つ辺りがまた
一層切なくて好きです。どちらとも、縋りついてる。


06/10/01