アジア支部を好きな方に。




「 矛盾方程式 」



「つ」
 顎に手をかけ、豪快な胡坐を組んでいたことから、大方のところそうなのだろうとは思っていたけれど。
 そろそろ我慢の限界と思しき大きな欠伸をしたフォーの次に零した声は、ただの単語からようやく確かな言葉となって、近くで書類の整理に勤しんでいたウォンの耳に届くこととなった。
 ―――曰く、
「まぁああーんねェえ!」
 と、若干聞き取りづらくはあったが、
「……つまんねェ。ウォン、どうにかしろ」
 要は、そう、暇なのである。
 このアジア支部、番人にして戦士である守り神から派生した結晶体の只今の現状というか状況というものは。
 仏頂面でヒョイと気軽く仰がれ、それからじっと睨まれて。
 とりあえず指名を受けたウォンはただ苦笑するしかない。何事もストレートに要求を告げてくるこの守り神は、神という名がつくにも関わらずわりと容赦ない応対や自由気ままな発言が多く、およそそういった神らしからぬ態度の数々でウォンの仕える青年、バク・チャンを翻弄させることにひどく長けた存在でもあった。
 そしてその当のバク本人から云わせると、
「……アレが神などという大層なものか。我が儘で手前勝手ですぐに文句は言うわ人の研究物は平気で粗雑に扱うわ―――ばつが悪くなるとすぐ暴力に訴えるところなど特に最悪だ! 悪魔だ、アイツは、そうだ、そうに違いない…!」
 こめかみに浮かんだ青筋が今にもはち切れそうな咆哮を上げるバクは、その時、徹夜続きでようやく終わろうかとしていた研究結果をその渦中の守り神によって全て台無しにされたとかで―――ウォンの認識を改めてより強く正確なものにするよう、その後、荒れて荒れて、大変な労力を要して宥めるに到った。
 秘書役も楽ではない。
 けれどこれがここの日常茶飯事。
 思って、
「何か気の紛れるものでもお持ちしましょうか、フォー様」
「んー……どれもこれも、もう飽きた」
 本当につまらなさそうに呟くフォーがフイとその視線を逸らすのを眼に入れる。
 それはたった今、自分自身で言ったことをまるで厭うような呟きだった。何気ない事実をするりと紡いで、本人の自覚以上にその顔が仏頂面で完成されてゆく。
 そうやって、ひどく、これ以上の要求が通ることなどないと知り尽くしている表情で―――それは人間でいうところの沈鬱としたものでもあり―――それはどことなく、寂しそうにウォンの目に映ってみえた。
 相好を緩める。
「フォー様」
「――――」
 ゆっくりとその名を呼ぶと、ほんの少しだけ真一文字に引き結ばれた口唇が動き、やがて、
「――――バクは」
 ふてくされた子供のような声が小さく洩れ落ちた。
 心得たようにウォンがそれに応える。
「バク様は、今、本部の方に出向かれていらっしゃいます」
「なんで」
「全体会議があるそうで……」
「フン、どうせいつものつまんねェ会議だろ」
 にべもなく、そう言い切るフォーに、ウォンはやはり苦笑いを零すしかない。
 それはバクが聞いたら、「何を言う、大切な会議だ!」と、まずそう激昂し、それからなんなく一悶着の起きそうなフォーの言動であったが、ウォンにとってはひどく微笑ましくて仕方がないことでもあった。
 相手が自分よりも遥かに歳を重ね、深い年月を過ごしてきたであろう存在であるというのに。
 それにも関わらず、時々、彼女はとてもやすやすとその事実を覆す。その他愛ない気軽さこそがこうしてウォンの頬を緩ますのだ。
「あ?」
「……? 何ですか?」
「じゃあなんでここにいんの?」
「はい?」
「だから―――ウォンは行かねェの? いつも一緒に行ってるじゃん」
「…ああ。それですか。今回私はよいそうで」
「なんで」
 二度目のそれは、先ほどよりもやや興味を引かれたような、微かな疑問に彩られた声音だった。聞くと同時にウォンは止まっていた手を再開させる。分類はほぼ終わっている。あとはこれをバクの眼の届くところに置いておけばよいだけだ。
「簡易的なものらしいので……。だからすぐに帰ってこられるようですよ。早ければ明日の早朝だとか……まあ予定では、ですがね」
 穏やかにそう告げると、書類の束を整理する音の間を縫うように、ふうん、と気の抜けた相槌が返った。
 それから。
「なんだ」
 ぽつりと零して。
「じゃあ、うるさい小姑にあれこれ文句言われる前にもっと遊んどこう」
 なにやら不穏そうな気配を纏う言葉が、至極当然のようにして放たれた。すっくと立ち上がる小柄な影を斜め右に、ウォンも顔を上げる。
 子供の背中があった。
 どこまでも小さな―――、ウォンからしてみたらこれ以上明確なものはない、素直ではないことが素直な、そんな背が。
 そこに。
「とりあえず手始めにバクの部屋にいこう」
「勝手に入られますとあとで怒られますよ、フォー様」
「いないバクが悪りぃ!」
「………フォー様」
  断固たる態度で高らかにそう明言するその背に、やはりこれがここの日常茶飯事なのだと、ならばせめて自分は自分に与えられた日常を全うしようと、そんな密やかな溜め息をついてゆっくりとウォンは肩の力を抜いた。
 帰ってきた主の機嫌が少しでも早く回復するよう、そう努めることこそがたったいま自分に課せられた使命であり、ここにいる限り永続的に与えられた自分の役どころなのだろうから。



***



「――――何だ、コレは」
 帰ってからすぐに仕事ができるようにと指示を出して支部を留守にしたバクが、その言葉通り帰途して真っ直ぐに向かった自室の執務室にて洩らした声はウォンの大方の予想通り――。
「ウォン! な、なんだこれは!? 部屋が……!」
「お静かに、バク様」
「これが落ち着いてなどいられ……」
「―――フォー様がいらっしゃいます」
 告げると乱れた呼気がヒュッと鳴った。
 散々なこの惨状の理由を、それだけで理解したのだとわかるそれに、おそらく右から左に抜けているだろうと思いつつも、できる限り恭しく一礼をしてまず帰還の挨拶をする。
 そして頭を上げるとやはりウォンの視界ではバクが顔面蒼白のまま茫然と立ち尽くしていて、もはや誰が見ても哀れとしかいいようのない光景がそこにあった。
 処理済の書類がまるでそこだけ暴風に荒らされたようにあちこちに散っていて、けれど未処理の書類だけが手付かずで綺麗に机上に並べられている。風刺の効いた嫌味の告げるところは唯一つ。
「……っ!!」
 無言の皮肉にみるみるうちにバクのこめかみに青筋が浮かび、頬も大きく引き攣ってゆく。
「―――何故、フォーがここにいるのだっ、ウォン」
 早朝ということもあってか、珍しく怒りを抑えたバクがひとまずこうなった経緯を知るべく、小声で、鋭く自分に問いただしてこようとする。
「…………」
 何と言って返すべきか、一瞬、迷った。けれどそれは逆に言うならば、迷ったのは僅か一瞬だったということでもあった。
 フォーを見る。バクが本来座るべき座席に堂々と座り込み、寝息もなく静かに眠りにつく、その形をなくす一歩手前のような残像の主を。
「……お帰りを」
「――?」
 ふ、と唇が開き、脳裏をよぎっていった小さな背中に、ウォンはただただ慈しみに満ちたときを思い出す。それはこの主のそばにいるときにもよく感じることがある。
 結局、だから、このふたりはこれでよいのだろうと思う。
 怪訝と眉根を寄せるバクに瞳を細め、揺るぎない真実を告げるべく、改めてウォンは口を開く。
 そのとき眠る残像がゆらりと視界の隅で揺らめいた。
 だが消えない。
 それは完全に眠りの状態に入ってないからなのか、それとも彼女のどこかにある意思がそうさせているのか、真実はウォンにはわからなかったけれど。
 ただ一つ、わかることがあるとすれば―――、
「お帰りを、お待ちしてらしたようで」
 ここで。
 おそらく帰途についたならば真っ先に向かうであろうこの部屋の中で。
 フォーは待っていたのだ、バクの帰りを。
「私も帰られるのは早くて早朝だと言いましたので」
 告げると、
「………………」
 バクから返ってきたのは実に判断のしづらい沈黙であった。
 引き攣った頬が相変わらず顔面に残っており、眉間の皺もいまだ深い。頭痛がするように額を押さえた手の、指の隙間からでは表情も読みづらい。
 しばしの静寂。
 その間にウォンは再びフォーのほうを見た。ぶれる残像の中で、それでも安らかに瞳を閉じているその姿は、素直に、今を幸福なひとときだと捉えることができた。
誰にも侵されぬときのなかでいったいどんな世界を渡っているのか。
 ふいに、溜め息が届く。
 見返すと、さまざまな葛藤の入り混じった複雑な、それでいて諦めの籠った表情で顔を上げるバクがいた。
「――――寝る」
「は、」
「そのへんに散らかってる書類等はあとでフォーに拾わせる。とにかく寝る。疲れた」
 言うが早いか、くるりと方向転換をして寝室のほうへ向かい始める。そんなバクに慌ててウォンも後ろをくっついてゆく。―――ゆきながら、果たしてフォーが素直にそうするかどうかは怪しいものだとつい思ってしまう。きっと、なんでこのあたしがそんなこと、と、突っぱねるに決まっている。
 そしておそらくこれは自分が回収することになるのだ。
 なんとなくではない。
 十中八九そうなる。否、そうならないほうがおかしいといえるほど、その可能性が高くあって。
(これが、私の役目)
 今更、文句などあるはずもない。わかっている。何故なら、
(これが私の居るところなのだから―――)
 長く勤めているからこそ、それはもうただ今更と呼べる領域であり、ならばこそフォーの言動にももはや慣れたものと立ち振る舞うことができるようになったのだ。
(けれどフォー様は気づいておられるのか)
 それは自分の立ち入る領域内ではないことだけれど。
 つまるところ。

 ――――つまんねェ。

 フォーのそれはただ一つの事柄に起因しているということに。
「な! こ…こんなところまで…………フォー、貴様ぁぁぁあああ!!」
「――――――――――んぁ?」
(……やれやれ)
 言葉を挟む間もなく、またいつもの喧騒が突如その始まりを告げてゆくのを耳に、怒号を上げるバクに目を醒ました―――まるで人間のような寝ぼけ眼で―――フォーが首を捻って上体を起こすのが見えた。
「おー……バカバク」
「……っ、貴様ァア―――ッッ!」
 ついほんの数時間前まで、つまらないと言っては肩を丸めて仏頂面をしていた守り神の今は喜々とした様子に、ウォンはやはり頬を緩めて微笑を零す。
 被害はいつものように甚大であろうとも。
 その修正にたとえどれほどの時間がかかろうとも。
 次第に胸に積もってゆくこの感情を無視できぬことのように。
(私にとってはフォー様のそれも、)
 慕われる主人を持て、これ以上、幸福なことはないのだと知らしめる、
「フォー! 今日という今日は許さんぞ!」
「つか、その台詞、お前いい加減飽きろよなー」





 これが、自分にとっての唯一つの日常。








アジア支部創作第一弾。(別名・主従関係シリーズ)(?)

高速リンゴ剥きの素敵おじさま、ウォンさんから見たフォーとバクでした。
(まだ言うんですかわたし)(だってそんなウォンさんが大好き)
ちょっと甘めなフォーバクですが、こんなアジア支部の日常があればよいです。
寧ろあって欲しいところ。日々フォーとバクに悶えてしまってしょうがありません…。
バクを虐げながらも、実は愛情の裏返しなフォーが愛しすぎる昨今です。(子・バク。親・あたし。みたいな)

でもこの話、実は小説版の全体会議のときの、留守番なフォーの話にしようと思っていたのですが
すぐにウォンさんもバクに付いていってることに気づき、断念することに。
……そうか、ウォンさんはいつでもバクの背後にいるのか……。(素敵)



05/10/05