隣を歩く勇気がなくて、僅かに遅れるような形でその後をついてゆく。

 


アオイロノキセキ






(だけど)





「お慕いしております」
 午睡の長閑なひととき。
 天鳥船を軽く散策していた千尋の耳にふいに飛び込んできたのは、そんなどこかで聞いたことのあるような女性の一声だった。



***



「うそ!?」
 が、第一声だった。
 咄嗟に出てしまったこととはいえ、相手に対し、大変失礼極まりない発言に、我に返ると慌ててその口を閉じたが、出てしまった言葉はもはや回収不能。
「本当ですよ」
 と、微苦笑を浮かべながらくすりと笑う風早に、千尋は羞恥で顔を赤く染め、大いに恥じ入った。
「あれで忍人は女官たちに人気がありますからね。そういったことは昔からわりとよくありましたよ」
 昼間見たことをついうっかり真正直に口にしてしまった千尋に対し、そうやって風早が至極のんびりと言う。
 話した内容への驚きはなかった。寧ろ久しぶりに聞きましたとその相好を緩めたのち、
「しかし相手の方は気の毒でしたね」
「え?」
「あまりこの先、長く落ち込まないといいんですが……」
「………、………」
「おや? どうしました、千尋?」
 ぽかんと口が開いた。
 そんな惚けたままの状態で風早を見返す。
 風早は一体何をそんなに千尋が驚いているのか、まるでわかっていない様子であった。
 それが余計千尋の困惑を深める。
 千尋は若干声を動揺に上擦らせながら、
「だ、だって!」
 たった今交わされたばかりの会話、その全てを反芻する。
 二秒とかからなかった。何故なら千尋は、ただ一言。「忍人さんが采女の人に好きだって言われてたの」と、まるで今日あったことを家に帰ってすぐさま親へと報告する子供みたいなあけすけさで、つい、口を滑らしてしまっただけのことなのだから。
 それ以上は何も言っていない。
 だのに。
「ど、どうして? どうして断ったって……」
(私言ってないのに)
 千尋は唖然と目を見開いた。



***



「あとは、単純に融通が利かぬからでしょう、あれの持つ根底の問題としては」
 突如、悠然とした声が二人の間に割って入ってきた。
 驚き、慌てて振り返ると部屋の扉がいつの間にか開け放たれている。けれど開くような音がしなかったことに、あれ? と目を瞬かせると、
「……あのですね。まあ…俺の部屋だから別に構いませんが、一応声をかけて入ってきてくれませんか。千尋が驚いています」
 苦言らしき風早の言葉に「そうですね、わかりました。我が君の為とあらば次からはそうしましょう」との気安い返事が返る。本当にそうしようと思っているかどうか―――申し訳ないが、やや疑わしい。思いながら、
「柊?」
 と、その名を口にする。
「ええ、我が君。やはりこちらにいらっしゃったのですね」
 優雅の笑みにそっと手を取られた。やれやれと言いたげに風早が軽い溜め息を吐いた。
「う、うん……いたけど」
 取られた左手を見る。
 そして静かに微笑んでいる柊を。
「……えっと」
「はっきり言っていいですよ、千尋」
 背後からの後押しに、千尋は眉尻を下げ、困った顔をした。
 緩々とした手つきだが、指先を滑る手のひらは妙に艶を帯びている。あの、その、と徐々に困惑がほどよい羞恥に入れ替わり、咽喉奥で、思考の詰まりと同じように言葉のほうも詰まらせた。
 風早が、笑顔ながらもひどくピリピリとした空気を発してくる。
 静かだが、とても、肌を突き刺す勢いで。
 困り果てながらおずおずと千尋は口を開いた。
「……離さない、柊?」
 窺うように言えば、柊はにっこりとその笑みを深めた。
 そして一言。
「離したくありませんが」
「…………」
 ますます困った。



***



「忍人さんがよくわからない」
 はっきりと断言する。すると剣の手入れをしようとしていた風早がその手を止め、振り返ってひどく不思議そうな顔をした。
「また唐突ですね、千尋」
「だって」
 幼い子供のように、つい拗ねた口調になるのが止められない。
 いつかと同じように、「だって」と、もう一度繰り返しながら、風早の自室で昨日の忍人の所業について頬を膨らます。
 思い出すと苦虫を噛み潰したような気持ちになった。
「言えって言ったのに、ちょっと迷ってる間に、答えたくないなら答えなくていいって一人で勝手に納得して、さっさと行っちゃうんだもの」
 何がしたいのかまったくよくわからない。
 おかげで昨日から消化不良にも似た、何かうまく言葉では説明のし難い、もどかしい思いがぐるぐると胸中を巡っている。
 それを聞き、ぱちりと風早は目を瞬かせた。
「ええと……それはつまり、千尋は忍人と話がしたかった、ということですか」
「そっ……!」
 てんで見当外れの言葉に、何故か、カッと頬が赤らんだ。



***



 思い余って、振り向きかけるその背に無我夢中で千尋は手を伸ばした。
 どん! とほとんどぶつかるような勢いで。
 その背を……忍人の服を咄嗟に掴んだ。そのまま固く拳を作り、きつくきつく、あとで皺になるだろうことはもはや確定と思われる、そんな乱暴な仕草で、千尋は顔を真っ赤にしながら、
「ふ、振り返らないで下さい……っ!」
 それしか思い浮かぶ言葉がなくて、そう叫んだ。
「な…っ!」
 驚き、息を呑む忍人。
 その行為を至極もっともだと思いつつも、己の許容量を完全に軽く超えた現状に、それ以上言える言葉が千尋にはなかった。
「………振り返ったら、だめ、です。だ、だめですからね!」
 念を押す叫びに、半身を揺らしながらも、忍人が素直にその動きを止めた。それを律儀だと千尋は率直に思う。
 きっと内心では意味不明な千尋の言動を問い詰めたくてしようがないはずだ。彼はそういう、どんな時であってもひどく実直な人であるのだから。
 きっと意味を問い質したくてしようがないはず。
 それでも。
「…………それで、一体いつまで俺はこうしてればいいんだ」
 そうやって、きいてきてくれる。
 千尋の言葉を。
 千尋の我が儘を。
 実直ゆえにか、それとも他に何か別の理由があってか。あればいいと微かに思ったが、その忍人の一言を聞いた途端、千尋は胸がいっぱいとなって、……ああ、と「今」だからこそ特別大きな溜め息を吐きたくなった。






「無自覚って確かに怖いですけど……」
 
ぽつりと呟くと、その眼に眩しいばかりの光を放つ、一つの軌跡が映り込んだ。
それに一体どんな表情をするべきか、多少風早も迷ったが、
閃く光に、最後、そっと瞳を細めて風早は小さく笑った。





 紡ぐ言霊に。

ならばもう、それは笑うしかないと。



( それは、生まれたばかりの言霊の物語 )