「いつか、思い出す」

***

- そして春になって -





「よし。いいだろう、大丈夫だ」
 ポンと肩を叩かれて「まずまず健康だ」と鷹揚な笑顔とともにそう告げられる。それに短く礼を述べ、山崎はくつろいでいた上着を手早く元に戻す。
 その後、近くでこきりと何かちいさな軋む音を聞きつけ、思わず反射で顔を上げると、今日一日、一人で何十人もの健康診断をこなし続けていた熟年の医者と目が合うに至った。
「おや、これは失敬」
 苦笑いを浮かべながらそのままやれやれといった体で医者は再度かるく首を左右に回す。するとまたもこきりと――先ほどと同じ音が――首が鳴った。
「…いえ、ご苦労様です」
 自分で最後となる診療は結局一日がかりのものとなってしまったので、疲れるのも道理だろうと山崎は労いの声をかけた。
 医者の名は松本良順。近藤局長の知人であり、そして現在新選組が監禁及び監視している少女の知り合いでもある。
(偶然…ではないだろうな)
 きっと少女の為を思って近藤が声を掛けたのだろう。
 そう思っているとふいに名を呼ばれた。
「山崎君、だったかな?」
 松本の視線が自らの左腕をチラリと辿る。
「診療の時から少し気になっていたんだが、さっきの傷は自分で診たのかね?」
 松本の指すそれは先だって二条城に襲来してきた鬼たちとの戦いによって付いた刀傷についてのことだった。傷は浅く、大したものではなかったので自ら包帯を巻いて処置を終わらせていた。
 消毒も一応きちんとしたので問題はないはずだった。
「はい、そうです」
「そうか。君は医学の心得があるのかな?」
「少しですが。実家が医家なもので……ですが自分は大した知識があるわけではありません」
 正規の医者と比べられるものではない。それは自分自身でもよくわかっていることだった。
「……それが何か?」
 問題でもあったのだろうかと視線で問えば、いやいやと松本は笑みを浮かべ、肩を竦めてみせた。
「幹部の者たちはさておき、実は他の平隊士を診たらあまりにひどい有様だったのでな。恐れを知らぬはさすがは新選組、と言うべきなのかもしれんが、このままでは月に一度は必ず健康診断を受けてもらわねばならんくらいだ。それで今後できるだけ医学の心得がある者を隊の中に置いたほうがいいと近藤さんのほうにも進言していたんだが……」
 言い終わると松本の目が自分へと向けられた。意図を察して山崎は心持ちその表情を引き締めた。
「ちょうどいい。君のことを近藤さんに話しておこう。見る限り手際も良さそうだ」
「……恐縮です」
「それにもうひとつ。君が山崎君であるならば、彼女のことも安心して任せていられるからな」
 彼女、と。
 それが「誰」を指してのものであるか――無論それは問うまでもなく、今の新選組においてそのような呼ばれ方をする者はただ一人しかいない。
 雪村千鶴。
 行方不明となった父親を捜しに京に入り、すぐに新選組へと囚われることとなった不運な少女。
「……雪村君に何かあったのですか?」
 少女の素性を知る者は隊の中でもごく一部の、限られた者たちだけである。それだけに自然と声が低いものになった。


*


「……山崎さん?」
「――――」
 突如振り返った少女が目を丸くしてそう声を掛けてくるのに、そのせいで反応を起こすのが少しばかり遅れてしまった。普段ならば振り返る前に姿を隠すことくらい造作もなかっただろうに。
 己の感情に当惑してしまったが為に、少女が見る間にその距離を詰めてくるのを、今となっては黙って見ていることしかできなかった。
「……すみません、もしかして捜させてしまったでしょうか」
 申し訳なさそうに紡がれるそれは自らの身の上を十分にわかっているからこそ出てくるもの。こんな時までと瞠目してしまう。
「いや、そんなことはない。ただ少し君が……」
(君が)
 言葉が舌先に乗りかかる。
 だがすんでで山崎はその言葉を呑み込んだ。



*



「千鶴さん」
 微笑みとともに千鶴のことを呼ぶ。
 通りを隔てているのにそれはすぐ間近で響いたような気がした。
 そんな薫の顔にひさしの作り出した影がかかり、その表情を少しばかり見えにくくさせる。薄暗い。それが何か心許なくも頼りなくも思えて、薫さん、と千鶴も同じように呼び返した。そうしなければならない、そんな希求する気持ちがそこにあった。
 けれど。


「お前は」


「…え?」
 次の瞬間。
 届いた声音にまるで初めて京に出てきた日の夜――沖田が自分へと向けて放った鋭い殺意……それに似た気配を感じた。
「お前は、一体どこまで残酷になれば気が済むんだろう」
「薫さん?」
 顔は見えない。表情も相変わらずよくわからなかった。だがそう囁いた彼女に千鶴は知らずビクリとその肩を震わせた。
「二度―――いや、今日を含めたら三度か。三度、会った。これだけ近くにいて、顔を見て、言葉まで交わして……それでもお前は少しも気付きやしない。思い出しもしない。あまつさえ人間を尊敬してる、なんて愚かなことまで言い出して呑気に笑ってる。……お前はすごいね。もう多少のことじゃ傷付くことなんてないと思っていたこの俺を、そうやって至極あっさりと傷付けることができるんだから」
「――――」
「お前は、すごいよ。千鶴」
 どういう意味、と問うことはできなかった。
 告げる薫の豹変があまりに突然で。
 恐ろしくて。
「だから決めた」
 驚きに、声も出なかった。
 赤い紅がすうっと真横に引き伸ばされ、笑みの形を作る。そうやって南雲薫は笑っていた。笑って、
「お前の大事なものを。大切なひとを。これから兄さんが一つずつ奪っていってあげるよ。それでようやく釣り合いが取れる。お前の犯した罪と、俺のこれまでの―――」
「雪村」
 声がした。
 はっと我に返れば、巡察を終えたらしい斎藤がこちらへと向かってきているところだった。眼に入れると途端にざわざわと鼓膜の奥で木霊するような雑踏が近く、意識に舞い戻ってくる。
 そうして、


「――――待っておいで千鶴。すぐに俺と」


 ひらりと視界の端に赤い着物と白い手のひらが揺れた。



*



「……沖田さんが本当にそうしたいのなら、どうぞそうなさって下さい。私は構いません。でもそんな理由じゃ、士道に背くことになるんじゃないですか?」
 武士の道をなにより目指し、己が誇りとしている近藤――彼がもしそれを知ればきっと悲しむだろう。それは信頼を裏切ることにもなる。
 沖田の瞳が動揺に揺れた。それから間髪置かず更にきつく睨まれて内心でひやりとする。
 放たれる気が容赦ない。こわいと思う。
 だが、
「……千鶴ちゃん、言ってもいい?」
「は、はい、どうぞ!」
 震えながら返すと仏頂面で沖田が言った。感情のたっぷりと籠もった声で。
「―――本当に、面白くなくなったよね。君」
 憮然と言い放たれてほっと気持ちが緩むのがわかった。
 ああこれならもう大丈夫だ。
「私は沖田さんがわかってくださって嬉しいです」
 微笑んで言うと僅かに沖田がその顔をしかめた。
「まったく……言ってくれるようになったよね」
 あーあ、面白くない。
 ぼやくように再度呟き、明後日の方向へと顔を背ける。
 西本願寺の開けた広い廊下は天井を大きく取ってもいるので、少し顔を傾ければすぐに空が一望できる。夕焼けが沖田の顔にかかり、その顔色を僅かに良く見せる。今だけのまがいものだとわかっていてもそれが嬉しかった。
「ゆっくり休んで、早く元気になって下さい」
 無理なことを言っているとわかっていた。
 酷いことを言っているとも。
 けれど言わずにはいられなかった。それが自分の本心であり、心から願っていることに間違いはなかったから。
「……君って」
「はい」
 嫌味のない笑みを浮かべながら沖田が微かに視線を返してくる。
 穏やかな表情。八木家の子供たちが好いていた顔だ。もうずっと、そんな顔をする沖田を長く見ていなかった。やっと見れた。
「結構無茶苦茶言うときがあるよね」
「はい、自覚してます」
 くつくつと洩れる笑い声に揺らぐことなく答える。
 無理なことを。酷なことを。そんな一方的な願いを沖田に押し付けている。それでもそれが自分の知る「沖田総司」だった。
(いつも飄々としていて皮肉屋で、よく笑ってるけど同じくらい意地が悪くて、物騒なことばっかり言って……近藤局長のことが誰よりも誰よりも好きなひと)
 そしてそんな彼の作った新選組のことを、とても大事に想っている。だからこそ、自棄になって自らからその舞台から降りてしまうようなことだけはして欲しくなかった。そんなのは沖田ではない。けして無理をして欲しいわけではなかったが、そんな沖田は違うと、強く思う気持ちが胸にある。
「……難しいね。君の言ってるそれ、たぶん今までで一番難しくて面倒なお願いだよ」
 願えば君が傷付くだけだよ。
 そう、声なき声が言ってくれているような気がした。
 胸に湧いた痛みを感じ取る。それはなくすことは決してできない痛みだ。近く訪れる沖田のそれと同じに。それでも、それがわかっていても「はい」と応えた。
 溜め息が一つ、頭上が落ちてくる。
「馬鹿でお人好しで人の忠告をさっぱりきかない君は…本当の本当に面倒な子だね」
 そう、と呟いた沖田の言葉に涙が出そうになる。
 そうならないように慌てて何度も瞬きを繰り返した。唇をきつく真横に引き結ぶ。生きていてほしいと願うことがまるで罪のように思えたのは人生でこれが初めてのことだった。
 ……だから、だったのか。
 そんな愚かな罪を抱いた自分に罰を与えられたのは。
「―――千鶴。ここにいたのか」
「原田さん?」
 振り返れば厳しい眼差しをした原田がいた。
 普段のやさしい雰囲気がどこにもない。
 細められた瞳がひどく鋭かった。
「何か……あったんですか?」
 そんなふうに見つめられる理由を自分はそのとき何一つとして思い当たらず、そして原田が目を逸らした……その意味すらも気付けなかった。
 それだけ、きっと自分は温かな時間に囲まれていた。
 やさしい人たちに恵まれていた。
 それは今思えばなんてやさしい―――


「…ああ、話がある。ちょっと広間まできてくれ。総司も……できたら頼む」


 心温まる、日々だったのだろう。










だから怖いものなど何もなかった。