『……何も。何もないんだよ、千鶴。
けれどだからこそ我らは行かねばならない。行くところがないからこそ』





「  遠い月に手を伸ばすように  」

(薄桜鬼/平助×千鶴)




 緩やかに太陽が落ちてゆく。
 それを眺めながら千鶴はもうすぐ夜だなと気付けばその表情を沈鬱に曇らせていた。そのまま構築されたばかりの真新しい記憶が脳裏を巡り、胸を切り裂いて、悲しい叫びを木霊させてゆくのを無言で受け止め噛み締める。
 その叫びは耳にするだけで身体の芯を鋭く貫いた。それは京に出てきた当初、荒くれの浪人達に刀を突きつけられた時の恐怖にも似ている。
 無形なその声に身を貫かれたとしてもけして痕として残るものでもない。けれどその時千鶴が覚えた恐怖は今でも身の内で色濃く残り、奥底で燻り続けている。
 それは今からほんの数日前、油小路でのことだ。
 袂を分かち、思想を違えた御陵衛士と新選組、この二つの組織間でとある諍いが起こった。
 だがその深夜の騒動は思わぬ横やり―――薩摩藩士たちの介入により、三つ巴の乱戦が繰り広げられるものとなったのである。
 今いた味方が次に見たとき、敵に変わっている。
 無情にも夜の帳を切り裂いて訪れたその真夜中の喧騒は、誰もが油断してはならないと肌で感じ、気を引き締めていたことだろう。
 その緊迫した空気の中で気を抜くなどあまりに愚か、そんなことをしていればすぐにでも「死」への旅路が用意される。
 そういった紙一重の死線が数多く飛び交うさなか……だのにそれを理解していながら千鶴は永遠に贖うことのできぬ、取り返しのつかぬ失態をその最中に犯してしまった。
 千鶴、だけがその混戦のなかでただ一人。
 それをどんなに悔やみ、悲嘆に暮れても、もはや過ぎた時間が戻ることはない。
 そして――。
(平助君……)
 取り返しのつかぬ失態を犯した千鶴のその代償を負ったのは、助けたいと願い、助けるはずであった藤堂平助、その人であったことも変わらない現実の一つであった。
「……っ」
 思い返せば苦痛に顔が歪む。胸の内で荒れ狂う感情が一層激しく悲哀と後悔の念を打ちつけてくる。
苦しかった。
 だがそれでも自分はその苦しさに耐えねばならなかった。あの夜の出来事はほんの一瞬――束の間のことだったとはいえ、これから平助が得るはずだった多くのものを根こそぎ奪い取り、より過酷な状況へと追いやるものとなってしまった。それはまさしく自分のせいで。
 胸を締め付けてくる痛みに必死に耐えながら千鶴は、自分こそが消えれば良かったのだと事件後、幾度も思ったそれをまたしても思い、盆を持つ手に力を籠めた。でなければ止まらぬ震えに盆を取り落とし、立つこともままならなかっただろう。
(……そうだよ)
 自分など、消えていればよかったのだ。
 そうしていたなら、きっとあの瞬間(とき)。

『――――っ! あぶねえ!』

 千鶴に危険を知らせる、そんな鋭い叫びを聞くこともなく、振るった拳が肉を断つ歪な濁音を空に響かせることもなく、血飛沫も、呻き声も、悲鳴も、後悔も。
 何一つ。
 それは見ることも聞くことも放つこともなく、過ぎ得たはずのことだった。
(……私さえいなければ)
 けれど様々な音を下地に、闇色に染まった黒い血は平助の身から無残にその飛沫を上げ、暗い闇の中で冷たい現実を残酷に知らしめた。
 あんなにも絶望的な思いで悲鳴を上げたのは生まれて初めてのことだった。
 甲高いそれに咽喉が大きく引き攣れ、全身に身も凍るような寒気と震えが走った。
『やだ、やだよ、平助君……!』
 自分はこんな光景を見たかったわけではない。こんな、痛ましい平助の姿を見る為にこの場にいたわけではなかった。
 一緒に。
 これからも一緒にいたいと伝えて。
 だから戻ってきてと。
 みんな待っているからと。
 そんな切なる願いを告げる為に、自分はそこにいたはずだった。その為に無理を言って連れてきてもらった。
 目の前が真っ暗になる中で気付けば声の限りを尽くして叫んでいた。
(なのに――)
 そう願った自分こそが全てを台無しにし、踏み躙って跡形もなくした。
『……大……丈夫、心配……すんな……よ……』
 刀と脇差、身を守る全ての武器を手放し、千鶴の身を守って最後まで平助は満足げに笑っていたが、だがそれがなんだというのだろう。
(平助君が私なんかの為に犠牲になることなんてなかったんだよ……)
 俯けば寒気を纏う空気が千鶴の頬をふっと撫でていった。
 盆の上の湯のみがおのずと視界に入る。
 ほんの少し前までは白い湯気を熱く立ち昇らせていた茶は、今ではもう絹糸のような頼りない熱を仄かに見せるばかり。
 縁側で暮れゆく空を見て立ち止まったのはほんのひとときのことであったが、ぬるくなった茶を口にすればまた沖田には手痛い指摘を受けてしまうだろう。
 ―――相変わらずぬるいよね、君の出すお茶って。
想像し、容易く巡ったそれに早く行かなければと憂いた面を無理矢理引き締め、過去の残像を振り払って視線を元へと戻す。歩き出せば足裏と板の間で微かな軋みが上がった。
「早くいかないと……」
 皆が待っている―――それにまた深く、胸がズキリと痛む。
 理由など明白だった。
 何故なら茶を配るそこに以前にはいた、笑って皆と時を過ごしていた平助の姿をどうしたところで見い出すことができないからだ。
「――――」
 油小路の変より数日。
 一度は生死の境を彷徨った平助の身は、事件後、未だ衰弱の激しさに満足に起き上がることもできず、ほぼ寝たきりの状態で床に臥しているという。だが受けた傷はもはや完全に塞がり、心配はいらないと言われるまでに回復している。
 もう大丈夫、命に別状はない。
 それこそ、理由など明白に。
(だって)
 もはや余程の致命傷を負わぬ限り平助は死なない存在となってしまった。
 紡がれる言葉の裏側にある意味。その真意。
 だから命だけはという代償を寝込む平助は今も懸命に負っている。
 傷はないけれど、起き上がれぬほどの体力をその時、その際、多大に要したせいで。



 油小路の変より数日。
 あれから幾つかの夜が過ぎた。
 世間からしてみれば「油小路の変」より過ぎたとそういった認識のもとで流れた日々であっただろうが、千鶴にとってはまるで違う。
 それは―――
(……してるよ。そんなの、してるに決まってるよ、平助君)
 言い換えれば平助が変若水を飲んで苦しんだ、そんな日々でもあった。
 だからしている。
 心配など、今も山ほどしている。





***





「もう止めておけ」
 囁くような低い声を聞いたのは腕の鈍りが痛みへと転じ始めた時のことだった。
ただ重いだけでなくなった腕にふと意識が落ち込んだ、そんな瞬間をまるで見計らったかのように――否、 おそらくはその通り狙っていたのだろう――届けられたその声に千鶴は軽く目を見張ると慌てて背後を振り返った。
 その視界に濃紺の着物が飛び込んでくる。
「斎藤さん……」
 惚けたようにその名を呟く千鶴に対し、斉藤はどこか冷えた表情のまま静かにその眼を向けてきた。
一体いつから斎藤はそこにいたのだろう。
(少しも気付かなかった)
 素直な驚きが胸に宿るも、佇む斎藤への問い掛けが咽喉を通り言葉となることはなかった。
 やがて斎藤の出で立ちに遅ればせながら今宵は彼が巡察の番ではないのだということに気付く。
(今日は誰だっただろう……?)
 夕刻茶を持っていった折に話を聞いていたはずなのに、すぐには記憶が掘り起こせない。一体誰であったか。間違っても平助でないのだけはわかるが、肝心な部分がどうも霞がかったように曖昧で不明瞭だった。 思い出せない。
「千鶴」
 名を呼ばれ、答えが出ないままに斎藤を改めて見返した。
 そうすると斎藤がゆっくりと何事かを紡ごうとするのが見えた。相変わらず惚けたままでそれをぼんやりと見やる。
 それ故に。
「無理をすれば怪我をする」
 そう告げる斎藤の言に、千鶴は一体何が無理なのか……すぐにはその意味を理解することが出来ず、瞳を困惑に瞬かせると、
「さ」
 問うように名を口にしようとした、その直後。
 残影に大きく目を見開き、斎藤が動いたという事実に息を詰め、思考を止めるに至った。
 反射で腕が動く。
 そのすぐあとに刃が刃を受け止めた。だが予想以上の重さに、身体がそんな事実を受け止めきれずに千鶴の重心をぐらつかせた。
(重い!)
 ついてゆけない。引き摺られる。
「―――っ」
 思わずたたらを踏んで体勢を整えようとするが、そのすぐあと、迫り来る白刃が千鶴の目を奪った。
 鮮烈な光。切り結ぶ白の軌跡が闇夜のなか、強く、しなるようにして弧を描くのが目を瞑る間際に垣間見えた。
 ヒュッと空を切り裂く音がする。
 そこにふと重なったのは鼓膜に張り付き、消えないあの夜の音。馬鹿! と、焦りを宿した必死の声。
「っ、――やっ……!」
 脳裏に眩い閃光が弾けるのとほぼ同時に、短い悲鳴が咽喉を突いて出た。
 闇雲に払った腕が鈍い剣戟を空に放つ。直後にひどい痺れが腕に走った。
 その衝撃は見る間に広がり、無防備な手の内に、次いで頼りない喪失感が訪れる。慌てて目を開けるも今が戦場ならもうこの瞬間に自分は生きてはいまい。
(斬られて――死んでる)
 衝撃に耐え切れず取り落とした刀と、少し前までそれをしっかと握っていた自らの手に視線を行き交わし、千鶴は言葉を失くして愕然とその場に佇んだ。
 大地に突き刺さった一振りの刃。
 それは千鶴の刀だった。つい先程まできつくきつく握り締め、無心に振るっていた。
「……もう、止めておけ」
 斎藤の言葉が再度耳を打つ。
 何を示してのことか、今度こそ正しくそれを理解し、千鶴はその胸に受け止めた。
 剣を落としたのはけして突然のことに驚いたからではない。ただ千鶴の手にはもうその剣を握り続けるだけの力が、握力が幾らも残されていなかったから、だから剣はこうも容易く弾かれ、己が手より離れた。
 茫然とそれに気付けば、刀身に映った自らの顔がひどく疲労の濃い影を覗かせているのが見て取れた。闇の中でささやかに光る目の前の刃よりもまだ暗い。
 疲れきった顔の少女が一人。
 自分が、そこにいるばかりだった。
「――――、」
 自分はこんな顔をしていただろうか。落ち窪んだ瞳につとそう思う。
「私……」
「己の力量を無視し、無理をしたところでそれは鍛錬にはならん。無用な怪我をするだけだ。それとも、そうなりたいのか」
 足手纏いになりたいのかとそれは問われているような気がした。咄嗟に強く首を振ってそれを否定する。
「いっ、いいえ! いいえ、私はっ……!」
 皆の役に立ちたかった。力になりたかった。
 及ばずながらでも、せめてほんの少しでもそうなりたかったのだ。
 だがその結果そんな想いや願いとは裏腹に、自分こそが惨劇のきっかけとなってしまった。
(私―――本当に少しも役に立ってない)
 巡った記憶。認めざるを得ない事実を前に、またも胸が抉られるようにズキリと痛んだ。ぎり、と空いた手のひらを知らず強く握り締める。
 だがやはりまるで力は籠もらない。それは斎藤の指摘が正しいと知らしめ、痛感させるばかりで、
「無理を……するな」
 俯いた額に一変して穏やかな声が落ちてくる。
「無理をし、怪我をしては元も子もない」
 いつもと変わらず淡々とした物言い。だがそれは、千鶴を気遣ってのものだとはすぐに理解できた。
苦しい気持ちが胸を過ぎる。
 斎藤はけして沖田や永倉のように物事を明朗に語ることはないが、それでもその気持ちを偽ることも同様にしない。紛れもない本心のみをそっと伝えてくれる。
 だからわかる。
 斎藤が今、本当に本気で自分のことを案じ、心配してくれているということが。
(……そうやって)
 こんな斎藤のように。
「外は冷える。もう部屋に戻れ」
(誰も)
―――誰一人、あの日の自分を責めたりしない。
「……はい」
 頷くと、抜き身であった刀を鞘に納め、千鶴の剣を取る斎藤の姿が目に映った。
 手渡され、それから促されるままに中庭から廊下へと上がる。振り返ると、少し離れた場所で斎藤がこちらを見ていた。おそらくは千鶴がきちんと部屋に戻る、そこまで見届けるつもりなのだろう。
「…………」
 今度は礼の為に頭を垂れながら、斎藤の視線より外れたところでぐっと強く唇を噛み締めた。
 そうでもしなければ乱れた感情が咽喉元から今にも這い上がって溢れてしまいそうだった。
 斉藤の自分に対する真摯な態度は嬉しい。けれど、だからこそ思う。考えてしまう。
 それはあの夜からずっと。
 ずっとずっと、考え続けていることで。
 贖えない罪を贖うには一体どうすればよいのか。
(……私は)
 その答えは未だ出ていない―――わからない自分は、一体どんな顔をして目覚めた平助と会えばいい?
 これだけの罪を犯してもまだ自分はここに居る、それを許されている現状に、だから辛いなどと到底気軽に言えるはずもなく、ましてや、
(平助君のほうが…ずっと)
 それは辛いはずのことで。
 下げた頭を元に戻すと寡黙な瞳と視線が重なった。
 だが目が合っても斎藤が特に何かを言うような気配はなく、そして千鶴自身もまた何かを言えるような心境になかった。
 何か言おうとしても、きっとろくなことが言えない。
 それをなにより自分自身が一番よく知っていた。













それはただ一言、伝えたかった言葉。







(「遠い月に手を伸ばすように」よりサンプル文章抜粋)