あの日から。
思い出は、そうして日々を巡っている。




「 ひとひら 」


鎌倉と平泉では難しいと云われていた和議が成った。
それは辛く苦しかった冬の季節を越え、望美にとっては三度目の春―――現実としては二度目の春を迎える頃のこと。



そして、元の世界に帰ることが決まった。



***



「銀ー? いたら返事してくれないー?」
もう一度、望美はその件の恋人の名を呼んだ。
とはいっても呼びかける声はできる限り控えめに。
あまりうるさくしていたら、ここの主に見つかったとき、また色々と言われ、怒られるだろう。目に見えている。さすがにそんな愚行をわざわざ犯すような真似はしない。

「約束…してくれば良かったかな」

――してくれば良かった。だが思うも、それが土台無理な話であることも、言いながら充分望美は理解していた。
午後の昼下がり。
高館の濡れ縁で朔と二人で休んでいたら、風に流され、視界の隅にひとひらの薄紅の花弁がまるで淡雪のように舞い降りてきた。
それだけのことだった。
それに、気付けば目を奪われ、その花の正体が桜だと知ったら―――不意に、居ても立っても居られなくなって、発作的ともいえる衝動でつい会いに来てしまったのだ。この伽羅御所へと。
約束なんてする暇があったわけがない。来てもきっと会えないことは心のどこかでわかっていた。それでも、胸にふわりと宿った美しい景色を銀に伝えたいなと望美は思ったのだ。
そう、思ってしまった。
だから。

「…しょうがないよね、うん」

言い聞かせるように一つ頷いて。
溜め息が零れぬ間に望美はさっさと踵を返すことにした。

(今更だけど……よく考えたら仕事中に邪魔しちゃうのも悪いし、和議だって成ったとはいえ確かに事後処理大変そうだし、そのせいでこの間まで銀とはなかなか話もできなかったわけだし、なのにこの前一緒に過ごせたのはきっと泰衡さんが取り計らってくれたからだし………だからあれで充分だって思わなくっちゃ。………うん、我慢我慢。第一、もう少ししたら一緒に元の世界にも帰れるんだし)

諦めるための理由を、片っ端からつらつらと頭の中に引っ張り出し、並べて、外堀を埋めるように心に綺麗に押し並べてゆく。
そして踵を返す為の一歩を踏み出したとき。
目の前をひらりと白い何かが通り過ぎた。
一瞬にして視界が流れる。その、斜めに横切っていった曖昧な残像を咄嗟に目で追いかけて。

「桜……」
ひた、と。
望美の足が止まった。

それは高館で望美が見たものより、随分と白い色をした桜の花びらだった。種類が違うのかもしれない。――どちらにしろ、この邸内には桜の木はなかったはず。
どこからか流されて飛んできたのだろう。
思った直後、サァッと背後から風が吹いて、柔らかいその勢いに押され、長く伸ばした髪が白い花弁とともに宙に舞った。着物もたなびくようにしてはたはたと前後左右に穏やかに揺れる。
あとにして思えば、それはもしかしたら予感というべきものだったのかもしれない。

「…………銀?」

鋭利に研ぎ澄まされた感覚が心に波紋を広げてゆく。
そうして踏みとどまった足をスッと軽く背後に引くと、それだけでますます心が何かに反応し、波打つのを感じた。半身を横に流し、首を捻って背後を振り返る。
その視線の先に板敷きの縁が真っ直ぐに伸びていた。それがずっと折れ曲がる、廊下の角まで続く。
その間に誰かが見えたわけでもない。
誰の姿もない。
けれど、
でも、
―――何故だか、

「…いるの? 銀?」

望美の探し人がその向こうにいるような気がした。

確証など何もないままに床を軋ませ、導かれるようにして今度は躊躇いもなく身を翻した。再び、キシと足の裏で軋む、小さなその儚い音を耳に響かせて。


「―――銀」

もう、引き返すことは念頭になかった。




***




長い髪が翻り、ばたばたと少女の足音が忙しなくその場を去って、しばらくして。
「…………、銀」
眉間に皺を寄せていた泰衡が物言いたげな深い嘆息を零したのち、銀の名を不承不承といった態で口にした。
それに、「はい」といつも通り、銀が応える。
そうしながら、苦渋の面持ちですでに諦観の域に達している様子の泰衡に、和む眼差しをできるだけ気付かれぬよう、深く頭を垂れて。

「……うるさくて敵わん」
「はい。ではそのように」

銀は主の意図を寸分違わず受け止めて顔を上げる。
そして踵を返す間際―――いつもより幾分険の抜けた声が柔らかく鼓膜を通るのに、静かに相好を緩めた。
縁側から覗く空を軽く斜めに仰ぐ。
澄んだ青がそこにはあった。
冬をまたぎ、様々な苦難の末にようやくこの地を訪れたその季節。今、奥州の地はどこもかしこもそうしてあたたかい。
それは苦々しく呟く彼の人の心さえも例外ではないように。
「…まったく……いつになっても、騒々しい神子殿だ」




これが最後となる奥州の春空に、銀は瞳を細め、消えた少女を追うべく足を踏み出した。





(「ひとひら」/一部抜粋)






ブラウザ閉じて、お戻りください。