――――思えば、
 私はあまりにも多くのことを知らなかったのだ。
 知らないことを知っているつもりでいて、本当のところ、何一つ理解などしていなかった。






 沢に着くと、川べり近くに丁度良い高さの岩を見つけ、そこに座ってもらってからすぐさま弁慶は望美の左足を取った。労わる手つきが柔らかく望美の素足に触れる。
「……どうですか、痛いですか?」
「いえ、そんなには……少しじんじんしてますけど、そのくらいです」
 ひやりとした弁慶の手が心地よかった。ぎこちなく強張っていた肩から要らぬ力が抜ける。
 けれどそれはなにも望美だけではなかったらしく、
「…そうですね、多少熱を持ってはいるようですが……それほど酷いわけではないみたいですから、無理をしなければ二、三日後にはきちんと治るでしょう。念の為、塗り薬をあとで出しておきますから、今晩ちゃんと塗って寝て下さいね」
 大事なくてほっとしましたと告げる弁慶もまた目にみえてその表情を安堵に和らげてみせた。
 望美を診ていたときの真剣な眼差しがすっと立ち消える。あとはもうただ穏やかなばかりの面で望美に静かに微笑みかけるだけだった。それが、何故か、やはり腹立たしくて。
「え? の、望美さ……?」
「―――――」
 ぺた、と。
 気付けばその、安堵に緩んだ頬を、両手で覆うようにして望美は触れていた。驚きに、そんな望美を見上げて、軽く、星のようにその両目を弁慶が瞬かせるのが見えた。それに、ふと、綺麗なひとだな、と何気なくも唐突に望美は思った。そう―――綺麗なひとだ。弁慶さんはとても綺麗で、何を崩すことも躊躇うこともなく、軽やかに微笑んで、いつだってその眼差しをいとも容易くこちらへと向ける。
 望美がそれに思わず眼を逸らしたときでさえも、真っすぐに、その光景を望み続けるのだ。一分の隙もなく。
 思ったら、急に胸の辺りが息苦しくなり、その不可解さに眉間に皺が寄せた。……唇が、引き結ばれる。
「…………」
「…………」
「……………あの、」
「何ですか」
「…………………いひゃいのれすが」
「知ってます」
 指先で掴んで引っ張った弁慶の頬を、むにむにと更に容赦なく真横に引き伸ばす。
端正な相貌が、そんな問答無用の所業を突然成し始めた望美を、途方に暮れたように眺めるのが視界に映った。まるで困った子供を訝しげに、それでもしょうがないなとあたたかく見守る「親」のような、それはそんな眼差しだった。
 微笑に、望美の指先が弁慶の頬を掴んだままもどかしげに震えた。
「弁慶さんは」
「?」
 そうして何が言いたいのかよくわからないまま、またこれも気付けば自然と口が開いていた。自分が、今、これから、何を言おうとしているのかすらよくわからないままに。
もどかしげな指先を解放するよう、その口を開き、
「弁慶さんは、私の保護者じゃありません」
 ―――無駄に頬を膨らませて、そう憮然と告げれば、一瞬、何を言われたのかわからないといったように弁慶がきょとんと目を丸くするのが望美の視界に続いた。






 薄く微笑む、穏やかなあの人が、その笑みの下でどれほど悲愴な覚悟をしていたか。
 自らが傷付くことよりも、他者を傷付けることのほうが多い自分自身に、一体どれほどの嫌悪を募らせていたか。






「冬……寒いだろうな」
 記憶に巡る、冬。
 けれどそれを越せば春になる。
 その頃にはきっと、今度こそ源氏と平家の戦いにもきちんとした決着がついているのだろう。それは本来の歴史から見ても、最初のこの世界を知る望美から見ても、間違いのないことだった。
 そしてなにより軍師として戦況をみる弁慶がそう言っているのだから、そうなのだろうと望美は思っている。
 その為に、源氏から平家へと寝返るつもりなのだと笑えない冗談をさりげなく仄めかされたりもしたが、望美は彼の裏切りを信じる気持ちは欠片もなかった。
「だって弁慶さんだし」
 確かに……何を考えてるのかよくわからないことは多々ある。あるが、それとこれとは話は別だ。一緒に括って考えられるようなことではない。というよりそんな普通に笑えない発言をにこにこと笑いながらぽろりと零すのだから、もうそれは彼らしい性質の悪い冗談だとこっちも軽く笑って受け流す他ないのかもしれない。
 どちらにせよ、真面目に取るつもりはなかった。
 そんなことがあるはずがないのだから。
「あと、もう少し……」
 揺るぎない決意を噛み締めるようにして呟く。それは望美がこの世界に戻ってきたことへの証でもあり、かつての非業な未来を知る自分が、それを回避することのできる証明でもあった。
 この戦いは春には終わる。
必ず、終わる。
自分だけが生き延びるのではなく、皆と共に生きて。
そして。
「……しあわせになるために」
(皆が、笑っていられるように)






 そのくせ、偽りの優しさを上手に身に纏って、都合の良いとき、都合の良いふりをし、都合良く人を騙す。





「源氏を裏切るって、弁慶さん、この前言いましたよね?」
「あぁ、あれですか。それを訊くということは、やっと信じてくれたんですか、望美さん」
 こともなげに浮かべられた笑みに、一度唇をきつく噛み締め、首を振る。ふるりと小さく。だが揺るぎなく真横に。
「…………性質の悪い冗談です。今も信じていません。私が聞きたいのは、どうして弁慶さんがそんなことを言ったかです。もっと言ったら別にそんなふうに試すように言わなくても……私はそんなの絶対に信じたりしませんから」
 逆に、どうして信じてくれたのかと、自らの裏切りを平気で促すようなことを言うのだろう。性質が悪いとしか本当にいいようがない。
「……試す、ですか。まさかそんなふうに君が思っていたとは思いませんでした」
 それはそんなに意外だったか。
 瞳を瞬かす弁慶は珍しく本当に驚いた様子で、望美のことをまじまじと見つめた。咄嗟に口をついて出てきた言葉とはいえ、それに応じる望美もまた、実のところ密かにひどく驚いていた。
 何故なら望美にとってもそれは、目から鱗が零れ落ちるほどの衝撃的な理解だったのだ。
「あ、いえ……ただちょっとそんな気がしただけで……」
「………そうですか――――ならば余計、そんな風に簡単に絶対なんて言葉、使わないほうがいいと思いますよ」
「え、どうしてですか…?」
 困惑をひた隠しにして気丈に振舞う。
 見つめてくる瞳に胸の奥が微かに震えた。その感情を何と呼ぼうか。決して認めてはならないもののような気がして、望美はそれから必死に自らの意識を逸らそうとした。
 それはきっと自分を傷つける。
 そんな確信めいた予感だけが何故か思考の隅にあった。
「だって、望美さん」
 だが、それすらも嘲笑うかのように。
「この世に絶対なんて言葉、ないからですよ」
「―――――」
 吐き出された言の葉に、望美の震えはますます大きなものとなった。






 私という人間は、きっと彼にうまく飼い慣らされていたのだろう。


 従順すぎるほど、従順に。
 信用と信頼と信愛を胸に






「でも私は―――」
(弁慶さんを)
 信じている、と口を開こうとしたその時。
 望美に落ちた淡い影を追うように、スッと、近くで空気が揺れるのを感じた。
「僕は」
「……弁慶さん?」
「僕は、君を信じていますよ」
 膝を落とした弁慶が望美の否定を至極あっさりと払うように覆し、視界の一部を遮っていたその髪を静かに横に払った。
 視界が開かれる。
 弁慶の表情が覗く。
 とても辛そうな、
 …とても、哀しそうな?
「でもだからこそ、君が……白龍の神子でなかったら、と思うんです」
 そうしてひやりと頬を捉えた手のひらが一度だけ望美の肌を撫で、見上げる先で今日初めて見たとさえ思える笑みを小さく浮かべ―――その手をそっと自らの袂へと弁慶は引き戻した。息を呑むようにして瞳を瞬かせ、弁慶さん、と追い縋ってその名を呟く。そして気付く。……そうやって自分は彼の名ばかりを呟いているのだということに。彼がここにいることは何度も確かめるように。
 だが、それでは駄目だ。
(…どうして届かないの)
 あなたを信じている。
 たった一言、こんなにも簡単なことなのに。
 弁慶には、遠く、届かない。






 彼に新たな傷を増やしていることすら気付かず、ただ安穏と、微笑みに対し微笑みを浮かべ、信じて下さいと云う彼を、疑うことなくそのままに信じた。





 その光景を前に、堪えることができず、かくんと膝が落ちた。
 透き通るように澄んだ空の下で、ただ、はらはらと風に煽られた桜の花弁だけがたった今消えてしまった彼の儚さを示すよう、静かに舞い散り続けている。こんな時でもなければきっとその美しいばかりの景観にごく自然に目を奪われていたことだろう。
 けれどそれにひどく似合いの、穏やかな笑みを最期に浮かべた弁慶の表情に、もはやすでに終わりを認める覚悟ばかりが刻まれていて―――それを認めてしまえば、そんなもの、もはや望美の視界に入る余地すらなかった。
 消えてしまった彼の、ついさっきまで確かに立っていた場所を茫然と眺める。
 そこには何もなかった。






 理解などしていなかった。





「君は、僕を信じてくれますか?」
「……信じてます。私は、弁慶さんを信じてます」





 ……理解など、させてくれなかった。





 ぽたり、と。
 少女の胸をまたも赤く染め、その手を伝って、ぽたりぽたりと新たな鮮血が滴り落ちた。そこに躊躇いは微かにもなかった。
「…っ! 望美さん、手に何を持っているんです!! 離っ―――」
「離しません!!」
 あまりのことに叱咤するように叫べば、堰を切ったように少女もまた声を荒げて強く叫び返してきた。否、怒鳴り返されたのだと知って、その苛烈さに思わず声を失った。
やがて眼の縁が指先を染める血の赤さに負けず劣らず深みを増して色濃く沈んでゆくなか、確かな怒りを弁慶は少女から感じ取っていた。もしかしたら自分の名を呼んだそのときから、ずっと、内に抱え込んでいたのかもしれない、と。
 思える程、それはそんな深い憤りを。
 このまま離さないのであれば強引にでも手の内のものを奪い取ろうとしていた弁慶の手が止まる。少女が自らの胸元を強く掻き抱いた。
「たとえ弁慶さんに何て言われようと、私はこれを絶対に離しません―――決めたんです、私は」
 そしてそれはもう何度目の不可解な少女の心の声だったか。

「一度目も二度目もあなたに届かなかった。今更かもしれない。でも、それでも……」

 少女が何かを思い出すように、固く、一度だけ目を瞑って沈思する。怒りにか、震える身体を両手で押さえ込む。
 瞳が、開かれる。

「私はあなたを救いたい」








 ――――思えば、
 私の恋はあまりにも多くのことを知らなかった、そんな、理解から程遠いところからはじまったのだ。













名残星


――あなたを想う









(それはきっと、最初から)