心配するのは、あなただから。




「 雨の日の憂鬱 」



出かけには晴れていた空がどんよりとしてきて本当にあっと言う間に雨を降らせ始めた時には、せっかく袖を通したばかりの着物はもう随分と濡れてしまい、後悔先に立たずという言葉を望美は身を以って痛感せざるを得ない状況に陥っていた。慌てて入った木陰の下でハアと沈んだ溜め息を零しながらつと空を見上げる。――最初は小粒の雨だったのだ。だから走れば間に合うだろうと思っていたのだが……現実はそう甘くはなかった。結構な水量をザアザアと零し続ける空は遠くの方まで薄墨色の濁った翼を広げていて、ちらりともその隙間から陽光を覗かせないでいる。この分では当分雨は降り続けるに違いない。朝の晴れていた天気がまるで嘘のようだ。

『今日はよしておいたほうが良いですよ。どうも昼から天気が崩れそうな気がしますし……』
『大丈夫ですよ。だってこんなに晴れてるんですから』

心配しないで下さい。―――じゃあ、行ってきます。
と、真新しい着物に上機嫌で家を出たのは記憶にも新しい。
そんな自らの浅慮さを噛みしめる回想に望美は再度重い溜め息を零した。降り続ける雨を上目遣いに見上げる。
雨が悪いわけではない。……わけではないけれど、これでは帰りが確実に遅くなってしまうだろう。そうすると自分の帰りを待つ人に要らぬ心配をかけてしまうのはもはや目に見えることで……。
「……どうしよう」
新しい着物が濡れたのも口惜しいが、そちらの懸念を思い、望美は表情を曇らせる。存外に心配性である彼はもしかしたら今頃もうすでに、だからよした方がいいと言ったんです……とでも言いながら自らの用事を後にして望美のことを探しに外に出ているかもしれないのだ。だからこんなところで立ち往生している時間が望美はひどくもどかしく惜しかった。だがさりとて不用意に動き回って、これ以上雨に濡れてしまえば、それはそれでまた別の心配を彼にかけることになってしまうだろう。こんなに濡れて風邪を引くとか無茶をしてとか、どうして待っていなかったんですとか、そしてお決まりの――
「…………」
(また、言われるんだろうなあ)
気をつけてはいるのに、どうして自分はこうも彼に心配をかけてしまうのだろう。うまくいかない、まったくもってうまくいかない。どうしたら、もっとうまく立ち回って……
「心配……させないようにできるのかな…」
崩れた天気を未だ変える気配のない空を見上げて、自然と口をついて出た言葉にしょんぼりと望美は肩を落とす。自分がまだ子供だから、と思えばいっそ楽なのかもしれない。けれどそんな時期はあの激しい戦乱を駆け抜けたときに、そして彼の手を取ってこの地に残ると決めたときに沢山のものを捨て去るなかで共にとうに過ぎてしまった。
誰かに頼らなければ思考できないような、未成熟な子供ではもうない。……ないはずだった。だがしかし実際のところ彼にとっての「自分」という存在は、そう思うようなものではないのかもしれない。そのくらい、
「私、ばっかり……なんだよね」
「何がですか?」
「だから弁慶さんに心配かけてる、の、が…………」
問われ、何の疑問もなく答えて。
え、と固まったのはそのすぐ次の瞬間のことだった。眼差しだけが大きく見開かれてゆく。
「っ!」
「僕はそうでもないと思いますけどね。―――さあ、風邪を引いてしまいますからこれを上に羽織って下さい、望美さん」
「え、…あ…っ……、弁慶さん!?」
一体いつの間に。
驚愕する眼差しで問い掛ければ、身を震わす望美の驚天動地ぶりに穏やかな笑みを浮かべたまま、慈しむような眼差しで静かに上着を差し出す弁慶がいた。気付かなかった。それは知らず視線が斜めに垂れ下がっていたことで見逃したのか、それとも雨音に紛れて彼がうまく気配を断って近づいてきたのか―――わからなかったけれど、促されるままもたもたと上着を受け取り、それを羽織りながら、差し出される傘の下にある笑顔を見て望美はやはりその表情を曇らせることしかできなかった。またも先手を打たれてしまった。しかもよりにもよって弱音まで聞かれてしまったとなれば、おそらく今彼が浮かべている優しい笑みはそんな望美の葛藤をすべて受け止めた上でのことであって………様々なジレンマが瞬間的に襲い掛かってき、どうにも居たたまれなくなる。どうして、こんな。
「…………弁慶さんの言葉、もっとちゃんと聞いておけばよかった」
言えば、ふわりと相好を崩された。殊更、優しく、安心させるように。首を振られる。
「いいえ、僕も雨が降るとはまで言いませんでしたし、それほど君が気に病むことではありませんよ」
「でも心配……した、よね?」
問いかけながらそれは確信としてある。
だから悲しくなるのだ。心配をかけたくないと思うのにどうしてもうまくそれが出来ない。ほんのちょっとの注意と心がけで他愛なくそれは成すことができるだろうに。――今回のことも含めてそんな後悔だけがいたずらにこの身に積もってゆくのだ。まるで活かされていない。それでどうして心配されないようにと願うことができようか。
考えれば考えるほど段々と切なくなってくる。
だが頭上から降り落ちてくる声はいつも通り、柔らかく、
「ええ。それは勿論、心配しましたよ。だからこうして迎えに来たわけですし……ああ、少し濡れてますね。早く帰りましょう。君が風邪など引いてしまったら、今度は僕が心配される側になってしまいますから」
「え」
普通、逆ではないか?
思いも寄らぬ言葉に、思わずきょとんと首を傾げた。その意味を追って自然と持ちあがる視線の先では、意味ありげに笑う弁慶の手が戸惑う望美の肩にそっとかかったところだった。静かに傘の中へと引き寄せられる。軽やかな、まるでこれからダンスでも踊るかのように。
二人で一つの傘の中に入る。
「……わかりませんか?」
そうしてすぐ真横になった弁慶がさりげなく傘を望美の方に寄せながら小さく笑って言った。それがどことなく楽しげであったように見えたのは、望美の気のせいだったのか。
「わかりません……悔しい、けど」
「ふふ、でも本当ですよ。君が風邪を引いてしまったら、僕はそんな病床の君にきっとひどく心配されてしまうでしょうから。できればそんな負担はかけたくないですね」
「でも……」
彼はそう言うけれど、普通風邪を引いたら心配するのは看病するほうではないだろうか。
私なら――――
「………あ…」
(私、なら?)
思考がくるんと発想の転換を促して。
「僕は、君のことではそんなに強く在れませんから」
雨音を向こう側に。
だから早く、君が風邪を引かないようにと控えめに、それでも急かすような懸念の声に、これまた実にさりげなく上乗せされた甘すぎる言葉を今度はきちんと望美も正しく汲み取ることができた。ああ、と声には出さず心の中だけで呻く。
(………んなの…)
そんな殺し文句。
だったら是が非でも風邪など引いていられないではないか。引いて、心配する彼がこれほどまでに鮮明に眼裏に思い浮かぶのであれば……自分は、本当に、今この瞬間にでもそんな彼をひどく心配せずにはいられない。
―――いられないのだから。
痛感する。
同時に今の自分がきっととても赤い顔をしているだろうことも理解しながら、
「…………弁慶さん、あの、一言だけいいですか」
「なんですか、望美さん」
「心配かけてごめんなさい」


深々と謝れば、頭上からはいつもの言葉が降り落ちてくる。
殊、望美に関してはひどく心配性である彼の、響きこそ静かなものである、






「ええ。こんなに心配させて…いけない人ですね」



痛みと不安に彩られた心配する声に、再度ごめんなさいと繰り返し、それでも足りない気持ちを表すようぎゅっと望美はその身にしがみついた。頭上でほっと安堵の吐息が零れる気配がする。それにもう一度心の中でごめんなさいと囁き、

「……帰ろう、弁慶さん」

心配するのは自分が子供だからではない、きっと同じ気持ちを抱えているからこそ、


「そうですね、帰りましょうか。望美さん」



確かめ合うように相手を想う、
―――これはそんな愛情深い行為なのだと、顔を上げてようやく望美は緩やかな笑みを浮かべた。


fin.




新婚ですから甘くていいかな、と。ネオロマらしく甘めに。
というか望美に激ヨワな弁慶さんが好きです。かわいい。
きっと何気なく現れておきながらその前までずっとあちこち必死で
探し回っていたんだと思いますよ。かわいい。
(でもすごい書き方、雑ですみませ……唐突だし)




06/01/01