( 願うはあなたの幸いだけ )



 初 雪 に 耳 を 澄 ま す





 ぽつりと頬に冷たいものが当たる気配がして、緩やかな勾配を作るその山道を、やや俯きがちに歩いていた望美はそれに導かれるようにしてふと顔を上げた。
 薄墨のうっすらとした灰色の空が視界いっぱいに、遠くのほうまで寥々とその曇った色を押し広げている。
 そんな今にも雨が降り出しそうな滲んだ空模様のなか、けれどもう一つ、その視界に白い綿帽子のような淡い影が映り込み、そのままふわりと視界の中をゆっくりと落ちてくるそれに、望美は自身の手を、艶やかな戦装束の袂をはらりと揺らしながら空へと向けて持ち上げた。
 そうすると、随分と自分の背と肩が張っていたことに気付かされ、
(今日はもう結構歩いてるからなあ)
 朝から延々、黙々、ただひたすらに山越え。
 いくら日々鍛錬を怠らないとはいえ、蓄積し続ける疲労を休むことなく打ち払うのは誰であっても無理だと、しかめっ面になりながらそっとその眉間に皺を寄せた。
―――と、そんなことをついうっかり考えてしまったばかりに、一瞬前とは明らかに違う自らの足の重さに、望美はその顔を更にうんざりと曇らせた。
 今や鉛のように重く感じられる両脚。
 しまったと後悔してももう遅い。
 後の祭りとはまさにこのことだ。
(余計なこと、考えるんじゃなかったな)
 軽く放つ吐息すらすでに気鬱さが混じり始める。
 けれどそれを励ますかのように持ち上げた手のひらにふわりと白い雪の結晶が落ちてき、
「……初雪、か」
 瞳を細めながら、微かな冷気に思わず反射でその身をふるりと震わせた。そんななか、雪はじわりと手のひらの中で形を失くし、あとには僅かな水滴のみを残して消えてゆく。
 それを黙ってじっと見つめる。
(消えちゃった)
 そう思った途端、何かが不意を突くようにして自身の胸を通り過ぎっていったような気がした。それから、何故かひどくがっかりとしている自分を見つけ、けれどもその寂しがる理由がうまく思い当たらず、内心で何だろうと不可解なそれにつと首を傾げた。
 雪は融けるもの。
 融けて当たり前のもの。
 ましてやたった今人肌に触れたのだ。早々に融けてしまうのは自然の摂理、現象の必然とも言え、
「望美」
 ぼんやりと巡らしていた思考に急に声をかけられ、弾かれるようにしてはっと望美は我に返った。




***




「あ…の、急に……敦盛さんの姿が見えなくなったから……少し気になって……それで、」
 捜していたのだと続けるとまた驚きの眼で見られた。
 それにそれはそんなに驚くようなことなのかと密かに唇を噛み締める。
 まさか己がいなくなっても誰も驚かない、平気だとでも思っているのだろうか。だからそんな反応を無意識に寄越してくるのだろうか。……思慮深く、物憂げな彼の顔に、その本当のところはよくわからなかったけれど。
「……すまない、これからのことを少し歩きながら考えていたのだ。一人できちんと考えようと……しかしそのせいで神子の手を煩わせてしまったのだな。私のせいで…――本当にすまない、要らぬ手間をかけさせてしまった」
「―――――」
 胸を突かれるような痛み、とは、まさにこのことを言うのだろう。白い息を吐きながら、たった今聞いたばかりの敦盛の言葉を静かに反芻する。
「これからの……?」
 そのまま、茫然と呟いてその場に立ち尽くした。
「神子?」
「…………―――れ、からの…って」
 降りしきる雪の音が己の耳に突き刺さるようだった。
 しんしんと冷たい、音などほとんどしない、風の音のほうがよほど鼓膜を震わせながら通り過ぎているというのに。
 なのにその時、望美は空から降る、雪の降り積もる音がひどく耳に痛く思えて、それがどうしてかと考えたときに、
(この人は)
 まるで、この雪みたいに。





***




「神子」
 互いの手の甲に白い雪がぽつぽつと落ちてくる。
 そのまま仄かな体温がそれをただの雫へと融かし、その形を儚く変えてゆく―――。
 そんな雪の末路を、身動きすることも出来ず息を詰めて見つめていると、あのね……と珍しく砕いた口調で少女が口を開いてきた。
 そんなふうに話す相手は仲間の内でもごく一部、限られてのことと知っていたので、敦盛はそれに驚き、更なる深い困惑へとその身を寄せた。
 一体どう応じればいいのか、混乱が頭の中を軽く掻き乱してゆく。
 だが少女のほうはと言えば構わず先を続けるようで、ゆっくりと一つ、吐息を吐いて。
「もし……もしですね、私に悩みがあって、それを誰かに話したいなって思ったとき、その時、私は敦盛さんを選びます。その理由はとても簡単で、私が、敦盛さんに聞いてもらいたいからです。他の誰かじゃ駄目なんです」
 睫毛を震わし、持ち上がってくる瞳はいつもの凛とした輝きを眩しいくらいに放っていたが、それでいて、それはとても繊細な光をも宿しているようだった。
 そして。
「私は、あなたにこそ聞いてもらいたい」
 この心を、と。
 それは呟く声の下で、滲むようにして聞こえた気がした。
「だから…今はまだちゃんと話せないけど……だけど、もう少しだけ、このままでいさせて下さい……」
 そのまままるで祈りでも捧げるようにして瞳を閉じられ、お願いしますとのか細い声が続けてもたらされた。
 それにやはり返す反応に困り、手を握られたまま固まっていると、更にもっと小さな声で俯いた少女が何事かを囁くようにして口にした。
そ のただならぬ様子に、敦盛は「神子?」と問いかけながら眼下の少女のことを訝しげに見返す。
 けれど見下ろした瞳は目蓋で覆われ、俯いていることもあって、見えるのは影の落ちる目許ばかり。
 一体何を考えてのことか、見取ることが敦盛には何一つ出来なかった。
 その時、少女が何を思ってそれを口にしたのか―――それがわかったのはもっとずっとあとのこと。

 もっと、ずっと、あとのあとになってからのことだった。







(だってあなたは雪みたいな人だから)