想いを秤にかけてしまえば、それは重さなどではなく。
ただどちらともの想いがそこにあることを知る。




「 永遠よりも近く 」



「怪…か。大丈夫かな、朔」
「あちらには景時殿がついているからそれほど大事はないだろう。直接的な被害もまだないと聞く。ただ原因が、どうも判然としないらしく解決には時間がかかりそうだと……」
「困ってるんですね」
「ああ」

頷く敦盛にうーんと望美は首を捻る。自身が浄化し続けた怨霊ならば何か手助けもできるかもしれない。だが怪――と、なると。

「あの……それってどんな怪なんですか?」

聞けば、望美がそうやって詳しく訊いてくるのが最初からわかっていたかのように、ふっと敦盛の表情が揺れ動いた。いや、……わかっていて尚、動揺したように見えた。しかし何に?
(……敦、盛さん……?)
「神子」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
つい探るような眼差しになっていたことへ、咄嗟に謝罪が口をついて出た。だが敦盛は名を呼んだだけで――名といっても少女にとっては呼称でしかないそれを言っただけで――理由もわからず視線を下げた望美は、ただそんな彼と自分とに戸惑い、他に何を云うべきだったかと不可解な焦燥を募らせる。
けれどそんななかでわかることもあった。

「いや……神子、違う。責めているわけでは……ないのだ」

そう言う通り、その声は望美を何一つ責めるでもなく、寧ろどちらかと言えば苦しげに少女の耳を擦り抜けていくものだった。苦しそうな声音は出会った当初のそれといくらも変わらず、もはや鼓膜に張り付いた記憶そのままに、敦盛の苦渋を明確に伝えてくる。
「ただ―――」
けれどやはりわからない。
彼がそんなふうに心配する謂れが。
―――わからず、
「あまり……無茶はしないで欲しい……」
「……………」
沈黙が、一瞬、落ちた。
そうしてその一瞬こそ、自分の浅慮な発言が導き出そうとしていたことを、肯定する瞬間でもあった。何度目だ、これで。だがこれは手習いなどよりもずっと重い、ずっと真摯なもので。

「………ごめんなさい」
 今度の謝罪にはちゃんと理由となるべきものがあった。

(そうだ)
―――此処は熊野で。

(私は)
もう、―――けして返上したわけではないけれど―――『龍神の神子』である必要はない。
……ないのだ。
表舞台に出る必然など今や何処にも。

「ごめんなさい……敦盛さん」

不用意な発言を事前に察してくれた相手は肩をすぼめて謝る少女に幾分慌てたように、
「いや、私の方こそすまない。これは……私の、我が儘なのだ」
「そんなこと!」
自分を想えばこその言の葉に大きくかぶりを振る。

「ありません。絶対に、そんなこと……!」

ありえるはずがない、と強固に重ねて言えば、勢いにおされたように「そ、そうか……」と返る言葉があった。そのことにほっとしつつも―――また、心配をかけてしまった。
その事実が望美の気持ちを下に下にと沈ませる。だがここでそんな態度を少しでも出そうものなら、互いに互いを想っての押し問答になることは必至で―――ああ、だから、こそ。
「あの……敦盛さん」
(……私は、このひとが好きで)
大切に、刻を過ごしてゆきたいと思っている。
少しでも多く。
少しでも長く。
後悔をせぬよう、彼と共に在りたいと。

「……被害は、ないんですよね?」

やがて、甘い選択に一手をかける言葉を神妙な面持ちで少女が呟くと、僅かに目を見張った敦盛の物言いたげな眼差しと互いの視線がひたとぶつかった。
それは最後の確認。
安堵を乞う為に、必要な言葉。
龍神の神子は必要か、それとも―――

「ない…と、聞いている」

聞いて、敦盛の言葉を噛み締めるように望美は一度だけ、深く息をつき、目蓋を閉じた。
そうやって。
(……必要、ない。私は……もう……必要ないんだ……)
繰り返し、繰り返し、繰り返し。
反芻する。
そして最後にそれを嚥下するように。
「―――そう、ですか」
まだ。
と、もしかしたらそこに付く言葉があるのかもしれないけれど、呟いて、その決意のこもった瞳をゆっくりと望美は開け放った。
世界が見える。ただ一つの。
一つきりの。
「なら、景時さんに任せます」


 壊してはならない世界が。
 そこに確かに。



***



(―――が、好きなんですね)
閉じた目蓋の向こうから響く、柔らかな声が、滑るようにして鼓膜を揺らした。さらさらと、まるで楽曲を奏でるように降り続ける雨を黙って見上げている―――それはそんな時の事だった。
音に新たな音が重なって、その変調に導かれるように瞳を押し開ければ、そこにいたのは自分がこの世界に留まり続ける、その最たる理由の少女がいた。
ほんの少し前までは龍神の神子、或いは源氏の神子として世界の為にまさしく自らを犠牲にして戦っていた少女は、そんな過去など今は微塵も感じさせぬ無邪気さで、そのまま当然のように敦盛の傍に寄ってきて、同じ縁側に腰を下ろした。
座ってすぐにはにかむような笑顔が向けられる。不在だった左側がほんのりとあたたかい空間になった。

「雨、止みませんね」
「ああ、そうだな」
「ずっと空を見てましたけど……敦盛さん、もしかして雨が好きなんですか?」

不思議そうに瞬く瞳を見返し、首を傾げるさまに一瞬逡巡してから、そのまま首を捻って顔を空へと戻す。何のてらいもなく、好きかと問った少女の眼差しがあまりにも眩しく、つい返答に詰まってしまった。
肯定するための答えはある。だがその率直すぎる言葉に対する自分のなかの心境というのはやや複雑なものであって、話すのが少し躊躇われた。
と、思ったとき、くすくすと洩れる笑い声を聞いた。出所は言わずもがな、自らの隣からだった。

「神子?」
何か、あったのだろうか。

戻した顔を再び横にやる。笑い声一つであっけなく引き戻される自分の容易さに多少迷いはあったが、心配する気持ちのほうがやはりどうにも強かった。良くも悪くも、彼女についてのことならば他に優先すべきことがないのだから、それはある意味で仕方ないと云えるものでもあったのだが。
今の自分の世界は彼女を中心に回っている。
それだけのこと。

「……何か、神子?」
「いえ、初めて会った時の……笛を返すことに辛いって気付いたときの敦盛さんといま同じ表情してたから、つい」

もしかして、ではなくて、きっと好きなのだと思った。
―――と、言って、

「敦盛さんは、雨が好きなんですね」

小さな発見に嬉しそうに破顔する少女を見れば、胸の奥でわだかまっていた気持ちは泡のように安らかに溶け、拾い上げる為の言葉が気付けばすでに咽喉を通り、舌に乗っていた。

「雨は……いい。見ていると何もかも、洗い流していってくれるようで……それがたとえただの錯覚だとしても、私のこの穢れも罪も、共に流れ消えたような気にさせてくれるのだ。……だから」

雨の、日は。
そんな流れゆく幸福と共に在れる気がする。

朧ろに霞む、それは束の間の、夢とも言えぬ、自分のささやかな祈りのかたちだった。―――だから、と、忘れられぬ痛みを受け入れながら静かに敦盛が紡ぐのと、衣の上に置いていた手に一つのぬくもりが重なったのはほぼ同時のことであった。
そっと包む手のひらの感触と穏やかな雨音が交差する。見開いた瞳に映るのは何を言うともなく浮かべられる微笑み。言葉はもうすでに流れていた。降り続けるこの雨とともに。
もう、流れて。
「―――――」
細長い板敷きの上に当然のようにして座る少女の手を握り返し、微笑んで、敦盛も言葉をなくした。



***



「望美!」
鋭い一声にはっとなった瞬間に、身動きが取れず固まっていた身体がようやく許しを得たように力を外に逃がし始めた。だが崩れ落ちるような脱力感は拭いきれず、はっ、と詰めた息を吐き出せば、それは望美の咽喉をひどく引き攣らせた。
呼気が乱れ、今頃になって知らず巡っていた怖れが少女の身体のあちこちを蹂躙しはじめる。身体の震えが止まらない。身を守るように両腕を抱き、俯きかけたところで、

「…っ!? 敦盛さん……!」
「駄目だ、望美。それ以上は近付くな」
「ヒノエくん……――――どうしてっ?!」

駆け付けたヒノエに伸ばしかけた腕を背後から引かれて望美は困惑の声を上げる。見る間に敦盛との距離があく。いくら腕を伸ばしても、もう届かない。
「離し……っ」
「―――さっき、気が乱れたって景時が教えてくれてね。引き返してきて、どうも正解だったようだな。危うく姫君の花のような顔に傷がつくところだった」
「そ……ん、なの……そんなの傷ついてもいいよ! だって敦盛さんが……っ」
視線の先にただ一人横たわる身体。
周囲を取り巻く空気の激変にもはや気付かぬわけにはいかなかった。不吉な影がそこに滞在している。
彼の、敦盛の上に。

「馬鹿言うなよ、姫君。そんなこと、八葉の誰も許さねえぜ」
「でも……!」
「敦盛だって許すわけがない。―――それは、わかるだろ?」
「……っ!」
息を呑むしかなかった。
ヒノエの言葉は正しい。正しい以外の何物でもない。
けれど。
「――――ッ!」

食いしばった歯から零れ落ちる呼気が、悔しさや焦りを乗せて、言いよどむ望美の感情を大きく揺らす。そんなふうに意識の上に深く食い込んでくるヒノエの正しさは、その正しさ故に、望美にとってひどく痛みを伴うものだった。呑み込むにはあまりにも大きすぎる。感情が、溢れ出しそうだ。だがそれでも。

「……わかってる、わかってるよ、望美。だけどあれがお前にも見えたんなら―――」

引くんだ、今は。
低く耳元で囁かれたヒノエの正しい忠告を、望美は先走る感情に任せて放棄することはできなかった。苦渋はなにも自分だけではない。それがわかっていたから―――未だ目覚める様子のない敦盛に、望美は、引きながら、ただ縋るような眼差しを向けることしかできなかった。







(「永遠よりも近く」/一部抜粋)






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