「 壊れた心が刻むもの 」
ユリアリ@ハートの国のアリス





 引き篭もりと言って思い出すのは青白い顔でいかにも不健康、病欠ですといった、わりと仰々しい名前のくせに情けなさが極めて目立つ夢魔のナイトメアだった。
 そしてそれからもう一人。
 忘れてはならない人物がいる。
「ユリウス」
「…なんだ? 言っておくが、外には行かんぞ」
 憮然と言って、手元の作業から目も離さない。だがけして夢中になっているというわけではない。仕事に好きも嫌いもないというような淡白な人だから、ただ黙々と細かい修復作業に没頭し続けているだけだ。それが何の苦もなく出来る。それについてはアリスも心から賞賛を送ることができる。ただ、そう、
「……まだ何も言ってないじゃない」
「お前の言うことは大体わかっている。天気の良い日だ。そして今は昼、お前の手は汚れていない。ついさっきまでは油のついていた手だった。それをわざわざ洗ってきたのであれば、理由は充分予測できる。………………行かないからな」
 先手を取られた。
 ちっ、と内心で軽く舌打ちをして、
(ほんと――――これさえなかったらなあ…)
 時計屋ユリウス・モンレーは日々引き篭もりのナイトメアと引けを取らぬほどの引き篭もり人間。出不精。外に出るのをひどく面倒くさがる人だ。理由は仕事があるから。出てもロクな目に遭わないから。そうすると大抵問題が起こるから。その結果、余計な時間をそれに取られて仕事が遅れる。
(……。結局仕事に戻るのよね、理由が)
 思ってげんなりする。別に毎日外に出ろと言っているわけではない。ただ、篭もりすぎはよくない。ナイトメアを思い出してみろ。あの土気色のひどい顔色! 半分以上は吐血するほど進行している病魔の所為だろうが、引き篭もって外に出ていないから血色が悪いのだという理由も少なからずあるはずだ。ナイトメアと負けず劣らずの引き篭もり。ユリウスは病人ではないが、それは「まだ」といった話で、これから先のこととなるとまた話は別だ。
「ずっと引き篭もってるのは身体に悪いわ。人間だって適度に太陽の光を浴びないと駄目なのよ? ね、だから、ユリ……」
「行かん。どうしても太陽の光を浴びねばならんというのなら、塔の屋上で浴びれば済むことだ。それで問題はないだろう。わざわざ外に出る必要はない」
「………」
 そうきたか。再度内心で舌打ちをする。言い方が悪かった。逃げ道のある誘い文句にまんまと逃げられてしまった。もう、と怒った声を洩らしてもユリウスは知らん顔だ。黙々と作業を続けている。どうあっても外には出ないつもりらしい。
(いや、わかってるけどね……いつものことだし)
 そう、いつものこと。
 するりと思考を流れた言葉に肩を落として呆れてしまう。だが反面、「いつものこと」と思えるほど、この目の前の日々に慣れてしまった自分に、やがて憤りは消えて、緩やかに苦笑いが浮かんだ。
(いつものこと。そう……いつものこと、なのよね)
 苦笑いが優しい笑みに取って変わる。だが俯いて仕事をしているユリウスがそれに気付くことはけしてないだろう。仕事をしているから。だから気付けない。
(甘い。……甘いわ)
 甘くなったなあと思う。
 この、気付いて欲しいと思う気持ちと、このまま気付かないで少しは損をすればいいのだと意地悪く思う気持ち。
(私がここまで素直に笑うなんて、滅多にないことなのよ?)
 だからユリウス。
 いつか――気付いたとき、その時は少しはそれを残念がってくれる? 惜しかったと思ってくれる?
 甘い甘いと思いながら、更にそういった甘いことを考える。
 何事にもドライであったはずの自分は、時計塔で日々を重ねることにより、もう随分と前にその形を変え、消えてなくなってしまった。当初はそれを厭って、嫌悪もしたし、苛立ちも落ち込みも苦しみもした。ありとあらゆる負の感情に掻き回され、散々気恥ずかしい思いをした。
 そして結局自分は折れたのだ。いや、落ちたといったほうが正しいか。
 このおかしな世界に引きずり込まれ、真っ逆さまに落ちてきた時と同じように。気付けばもう、這い上がることも叶わぬくらいそこに自分は落ちてしまっていた。
(たとえ偏屈で根暗でどうしようもない引き篭もりであっても………ユリウスが、)
 微笑みながら、前屈みに少し丸まったユリウスの背中をじっと見つめる。
(私は、ユリウスが好きだわ)
 恋愛は「私」を変える。
 恐ろしく思うほどにその心を変えてしまう。
 過去の過ち。苦い経験を思うと、途端に臆病にもなってしまうけれど、それでも変わってしまった心を今更元に戻すことなんて自分にはとても出来ない。――壊れた時計のようには直せない。それはどんな人間であってもだ。
(ユリウスであっても……って当の本人だから当たり前か)
 壊れた私の心はただカチコチと揺れる時間を刻む。この人を好きだと思う気持ちで速くなったり鈍くなったりを繰り返しながら、壊れて歪んだ時間を刻み続けてゆく。
「……………………アリス」
「えっ? え、あっ、な、なにっ?」
 甘いことを考え続けていた所為でふいに名前を呼ばれて、どきんと胸の時計が大きく跳ねた。動揺が声に宿るのをしまったと慌てて表情を引き締める。
 ぎしりと椅子の軋む音がして、ユリウスが唐突に立ち上がった。振り返る。その手にあった、壊れた時計の一つをコトリと作業机の上に置いて。
「………………夕食の買い出しくらいなら……付き合おう」
 まだどこにも行っていないのにひどく疲れた、疲れ果てた顔をしてユリウスが言ってくる。それに疑問符全開で、こちらはひどく驚いた。いや…驚いた、なんてものじゃない。愕然とさえしながら、急に意見を翻して、何故か外に出てくれる気になったらしいユリウスの顔をまじまじと見つめる。すると苦々しく一度見返されてから、
「お前な……私が」
「?」
 言いかけてぶつりとそこで言葉を止める。止めて、顔まで背けられた。行くぞ、と有無を言わせぬ断定の声が上から落ちてくる。なんでと理由を訊く間もない。
 …………いや、違う、これは…もしかして。
(訊かせない…ようにしてる?)
 後ろを素直についてゆきながらこっそりと上目遣いにユリウスの様子を窺う。
(…わ)
 珍しい、と思って鼓動がまた一つ大きく跳ねた。引き締めたはずの表情が微妙にその形を崩そうとする。が、思った時点ですでに頬の辺りはあたたかい。
「………………気付かないと思うのか……」
 そして深い溜め息と共に吐かれた言葉が聞こえてしまえばもう駄目だった。
鼓動が跳ねる。時間が進む。急速に。
「……わ……わかった、の?」
(私の気持ちが?)
 僅かに頬を染めたユリウスがざかざかとその歩みを速めてゆく。
「当たり前だ。あれだけ―――あれだけ後ろで睨んでくれたら誰だってわかる」
「………………」
 ああ、そう―――そうきたか。逸る鼓動がぶつんとあっけなく途切れた。だが舌打ちはしなかった。今度はしない。代わりにハアと切ない溜め息を吐く。
「…………だからお前……睨むなと言っている」
「……睨んでないわよ」
 見つめてるだけよ。
(……あなたが好きだから)
 未だ素直に言えない言葉を胸に仕舞い込んで、ぼそりと暗く言って返す。若干、ユリウスの頬が引き攣ったのが見えたが気付かぬ振りをした。間を流れる空気がぎこちない。だがそのぎこちなさが少しは自分のことを気にしてくれているからかと勘繰ることもでき、
(本当に…甘くなったなあ)
 そう考えると、止まった鼓動がまたもゲンキンに動き出すのがわかり、やや勝手な解釈だとはいえ嬉しさに頬が緩むのが止められなかった。壊れて歪んだ心は、これからもこうやって鈍くなったり逸ったりしながら、その時間を刻んでゆくのだろう。
(それでも……あなたが好きよ、ユリウス)




 そんな大切な想いとともに。

08/08/05
冬コミあたりで配布したSSペーパー創作です。
手直しなしでとりあえずアップしてみる今日この頃。
サイトにものがなさすぎるので、一先ず一先ず。

アリスシリーズ最愛のユリアリでした。グレアリも好きです。